講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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史書の注釈は最も早く「漢書」について作られ、漢の服虔の「音義」、応劭の「集解」など有名[br]
な「注」の外に、晋の晋灼、臣瓚、東晋の蔡謨たちの注解が作られ、之におくれて「史記」も宋の裴駰の[br]
「集解」ができ、多く九経諸史ならびに「漢書音義」などを材料として「史記」を解釈したが、その[br]
裴駰の父が裴松之であって、その「三国志注」は従来の「漢書」の諸「注」と異り「三国志」に採[br]
られたる材料と違うもの、即ち「三国志」に漏れた材料を集めて参考に供したもので、「三国志」[br]
がすでに定評のある上に、その「注」がかく豊富な材料を提供していることは特筆すべきことで、この[br]
方針にて「注」のできたものは、史書ではないが「世説」の劉孝標「注」が著名である。「晋書」も亦、十[br]
八家以上の夥しき「晋書」「晋紀」の類ができたが、今はすべて亡び、これに次ぐものは梁の沈約の「宋[br]
書」であるが、これは資料の文を改竄してないため、正確な記録として利用できる上に、その当然[br]
の結果として「暦志」「礼志」「楽志」「天文志」「符瑞志」「五行志」「州郡志」「百官志」の記事も正確であり、又、宋一代に止まらず後漢以来のことを通論してあるため、極[br]
めて利用価値が大きい。次の「南斉書」は梁の蕭子顕の撰である。一方、北朝では、[br]
北斉の魏収の作った「魏書」は「天象志」「地形志」「律歴[br]
志」「礼志」「楽志」「食貨志」「刑罰志」「霊徴志」「官氏志」のほかに「釈老志」を具えている[br]

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点で、仏教史料として珍重されるが、これも北朝における仏教の隆盛を物がたるものといえるで[br]
あろう。この間、かくの如くして時代が移るとともに歴史が次次と編纂された上に種種の史料が[br]
夥しく積まれて来たため、六藝の「春秋」に附録されるというような手ぜまの処では到底その[br]
始末ができず、遂に魏より以来、特に史部が設けられ、更にこれが経に次ぐ「乙部」の地位を占[br]
むるに至ったことは前にも述べたが、その所謂史部の中には、正史の外、古史、雑史、覇史、[br]
起居注、旧事篇、職官篇、儀注篇、刑法篇、雑伝、地理之記、譜系篇、簿[br]
録篇などの細目があるが、特に「古史」とは、「春秋左伝」の体に規った編年史を云うのである[br]
が、しかし大体は断代の編年であって漢の荀悦の「漢紀」、晋の袁宏の「後漢紀」[br]
などは、今に伝えられている。さきにいう「晋紀」などは、概ねこの種類に属した如くであるが、今[br]
は伝わらない。その外、「春秋」や「史」「漢」の体に協わずして率爾に作られたるものは、「雑史」の中[br]
に収められる。「戦国策」や「楚漢春秋」「呉越春秋」は、あわれこの類にふり落されている。次[br]
の「霸史」とは、いわゆる五胡十六国竊号の歴史であってまさにこの時代の産物であり、起[br]
居注とは天子の日常を記したもので、漢の献帝までには出来ていたらしく、すべて天子の階(きざわし)の下に[br]

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あって天子の言動をそのまま直書し、絶対に天子には見せなかった。これは天子の言行をも自[br]
由に批判する地位であるから、六朝の貴族政治の時代には、特に発達したわけである。かつて唐[br]
の太宗が、自分の起居注を見ることを要求して峻拒された話もあり、天子には一つの刺であっ[br]
たに相違なく、歴史が天子を中心として書かれ、又、その記事が正確なるためには、かかる強引[br]
な方法も必要であり、ことに天子を制禦することにもなったわけである。宋以後は、編纂してから天子[br]
に示すようになったら、直筆(ちょくひつ)の趣きを失ったと云われる。雑伝は多くの個人またはある種類、ある[br]
地方の人物の伝であって、正史の列伝の史料となるべきものであるが、又、すこぶる野史に近いこと[br]
を免れない。その他のことは、後に制度乃至地理の条で述べる。[br][brm]
唐に入ると、さまざまの史書が作られたが南朝では姚察・姚思廉の父子の史学による「梁書」「陳書」[br]
ができ、北朝には李徳林・李百薬父子の「北斉書」あり、令狐徳棻の「周書」あり、李大師・李[br]
延寿父子の「南史」「北史」あり、いづれも史学の淵源を見るべきであるが、これらの私家の学を中心[br]
とするにたいし「晋書」は太宗文皇帝御撰と銘打たれ、まったく官府の編纂物となり、分担[br]
執筆せしめた。又、魏徴・長孫無忌が「隋書」を作っているが、これも単に大官として名誉総[br]

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裁の地位に坐っただけで、実際はそれぞれの担任者の合作に成り、いわゆる撰者が単に監[br]
修者にすぎず、事務的に盲判(めくらばん)を押す人が著作者と歌われることは、私家の史とは大に異なる[br]
所で、批判を貴び伝統を重んじた史学には一大変化を生じた。しかも「晋書」の如きは、十八家の[br]
多数の「晋書」を整理したのであるから、自然、史料から離れた、文字どおりの編纂物となった。「隋書」[br]
は編纂の体例が注意され、特に「序例」ができて統一を考えてあったが、特にその志類は「五代(?)[br]
史志」といわれ、北朝の魏・斉・周・隋、南朝の斉・梁・陳を通じて作られている。[br][brm]
唐で注意すべきは、「史記」「前、後漢書」の「注」がまとまったことで、「史記」の司馬貞「索隠」、張守節「正[br]
義」、「漢書」の顔師古注、「後漢書」の章懐太子注などが前後して作られ、ほとんど有名[br]
な注釈が完備した。さらに唐代には、史学の評論家として、劉知幾の「史通」は忘るべからざ[br]
る存在であって、いわゆる評論の風は、梁の劉勰の「文心雕龍」 の体に初まるもので、後世に[br]
非常なる影響を及ぼし、たとえば都邑は国家の盛衰に関するものであるから、都邑志[br]
を作るべきであり、氏族は社会の基礎であるから、氏族志を作るべきであり、方物は各地方[br]
の特質を示すから、方物志を作るべきであると論じ、後世鄭樵の「通志」に至り、この説を[br]

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実現している。[br][brm]
唐の正史は、後晋の劉昫の「旧唐書」であるが、これはよほど旧来の方法により、史料を忠実[br]
に採用してあったが、これと宋の薛居正の「旧五代史」とは、やがて次の欧陽修の「新唐書」「新[br]
五代史」にその地位を譲った(91)。欧陽修の「新唐書」は、文章は簡単にして事実は増すことを主[br]
義とした。尤も、この正史を簡明に書くことは既に「南北史」においてその例を見ることであって、南北[br]
朝の四六文を一一歴史に載せることはなかなか容易ならぬことで、これを相当修正しているが、[br]
この「新唐書」は、元来、主編者が駢体文を好まずして、韓柳の古文に傾倒していたため本紀に[br]
も、絶対に詔勅文をのせず、時の重大なる詔勅といえども徳宗の蒙塵にあたり、陸贄の草せる「罪己之詔」、これを刪去[br]
してしまい、時にあまりに文字を減じたるがため、事実の通じがたき点すら生じた。すべて韓柳[br]
の文ならば全文を登載し、詔勅や公文ならば全部割愛するということは、材料の点から云っ[br]
ても、韓柳は「史記」「漢書」の文を学んで、事実を躍如たらしめることを主としたので、自然、そ[br]
の記事は小説的傾向を帯び、公文書を棄てた結果は、事実の正確さが危ぶまれるに至[br]
った。余嘉錫氏の注意する如く「新唐書藝文志叙」に、[br]

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自漢以来、史官列其名氏篇第、以為六藝九種七略[br]
という如き、まったく内容を理解せずして文を作った嫌いが多い。つまり史書が官報の輯録か[br]
ら新聞記事に陥らんとする危険にのぞんだわけである。「新五代史」は特に、「春秋」の筆法を以て、文字の[br]
用例をさだめ、その説 注有り を知らねば褒貶の意に通ぜぬ、というようなやりかたであった。しかし、これが大[br]
体、後の正史の標準の精神形式として、長く伝えられた。[br][brm]
これとともに、宋では司馬光の「資治通鑑」が編纂され、天子の政治上の亀鑑として作られたの[br]
であるが、これは「春秋」に次いだ編年史として、しかも断代に非ざるものとしては空前のものというべく、[br]
特に、司馬光がこれを上るとき、「臣の精力この書に尽く」といったというのは、正に文字どおり受けとって[br]
好いわけで、今日の史学の力を以てしても、これ以上の通史を作ることは困難であるといっても好[br]
い。すでに「春秋」に次げるだけ、上は周の威烈王に始まり、下は五代に及び、時世の変化や帝王[br]
の心得などを挿んである。天子の専制時代には、天子が見識を具することは尤も肝要のこと[br]
であって、君主としての学問を完備せしめるための誠忠無比の書物が、同時に史学の重要な[br]
る著作となったことは、興味ある事実である。抑(そもそも)この編纂には、范祖禹の如き当時一流[br]

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の学者をば、各時代毎に分担せしめ、まず長編を作って、あらゆる史料をその一年の中に書きぬき、[br]
これを後にちぢめたもので、唐のところは「新唐」によらずして「旧唐」によったが、中には「新唐書」と同じ[br]
く小説を採った誤もないではない。又「目録」と「考異」とを作り、一面は索引に供し、一面は材料の[br]
取捨選択を明かにし、史料にたいする疑惑を払ったことは、まことに科学的方法というべく、これか[br]
ら後、「前編」「後編」「続編」などができたのも、これを模倣してのことである。[br][brm]
ことに南宋の袁枢が「通鑑紀事本末」を作ったのは、新しき試みであって、編年史の不便を除[br]
くため、事件中心に改編したのであるが、かくして紀伝・編年のほか紀事本末の一体を増し、ここに[br]
史書の凡例が完成した。又、一方には、通史にも紀伝体を用いた鄭樵の「通志」もでき、これは、[br]
歴史は通史たるべしという主張を実際に示したわけであるが、その結果は好くなかった。又、今一つ[br]
は、南宋に入ると民族精神が喚起された結果、史学の上でも正統論が活溌に行われ、ことに朱[br]
子の「通鑑綱目」は「新五代史」的褒貶に一歩を進めて、公羊家の「大一統」の精神により、たとい事[br]
実は偏安の国家であっても、正しき統系に属するものは、之を天下の主権者と見るもので、か[br]
の「通鑑」では漢より魏に正統を伝えたのを翻して、漢より蜀漢へと伝えた如き、その著[br]

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名なる点で、当時中原を逐われた漢民族が江南半璧の地に拠った状態において、史学の如[br]
く時勢に敏感なる学問に、かくの如き思潮が行われたことも怪しむに足らない。[br][brm]
元に作られた「宋史」は、極めて不評判のものであり、明に作られた「元史」も評判がよくない。これは一つは、公文[br]
をそのまま加えたため、文章が読みにくいのである。つまり、蒙古では詔勅でもその国語をそのまま漢字に直[br]
訳して発表し、俗語を交えたことは云うまでもなく、蒙古語の語法がそのまま現れていて、文[br]
としてはまずいかも知れないが、史料としては尚ぶべき点が多い。明代は野史がもっとも流行したが、清[br]
朝にて「明史」を作るときは、野史によらずして正統の史料によるものであって、その点は「新唐書」[br]
以来の方針とは同じくない。これも清朝の初めに起った史料重視の学風の影響であろう。[br][brm]
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 正史の今日に伝わるものは、「廿四史」の名において著しいが初め宋のころは概ね一史ずつ刊刻されたか、乃至[br]
は二、三史ずつ合刻されていたらしい。南北宋の間において史書の刊刻されたものは、大体三種の型式[br]
に統一され、一つは十行十九字の中字本で傅氏双鑑楼の「史記集解」や、いわゆる景祐本の「漢書」、北京図書館の「三国志」無注本、「晋書」、「唐[br]
書」、がこの型に属する。その次に位するものは、内藤湖南先生遺愛の「史記集解」の十四行二十四乃至[br]
七字で北宋監本と称せられる。今これを仮に小字本という。次には、紹興年間に州郡にわりあて[br]
て史書を刊行した九行十六字の大字本で、「史記」「漢書」「後漢書」あり、江東両淮転運司本[br]
とも称せられる。この本は、「容斎続筆」によると、欽宗の諱は一字分のところに小さく淵聖御名と書[br]
いてあることと、ピッタリ一致する。その他いろいろの種類もあり一史だけ単行したものもあり、「史記」は、[br]
「集解・索隠」本に蔡夢弼刊の十二行本が著名であり、「集解・索隠・正義」のそろったものとして建安の黄善夫本が著名である。元来、「索隠」は単行[br]
したらしく、単索隠も宋代に刊行[br]
されたことがある。これらの正史は、「史記」「漢書」「後漢書」を「三史」と呼び、さらに「三国志」「晋[br]
書」「宋書」「南斉書」「梁書」「陳書」「後魏書」「北斉書」「後周書」「隋書」「南史」「北史」「唐[br]
書」「五代史」を合せて「十七史」と称したのも、宋において既に認められることで、天聖(「隋書」)、嘉祐(「梁書」「陳書」)を経て、一旦「十七史」の版が備わったらしいが「小学紺珠」「十駕斎養新録」「十七史商榷」、[br]

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靖康の乱で散逸したのを、紹興年中、井憲孟が四川の漕となった時南北朝時代[br]
の七史、すなわち宋・斉・梁・陳、魏・斉・周は、いわゆる「眉山七史」と称する大字本を[br]
合刻したことは確実であり、更に十七史の中から大体この七史だけを除いたものが、元の[br]
大徳年間に江東建康道粛政廉訪司がその隷下にある太平路以下九路に命[br]
じて同一版式で刊行せしめたので、これを元大徳九路本という 「史林」の二十五巻三号神田氏「元大徳九路本十七史考」。これらの版[br]
木は、後に集慶路儒学に集められ、これと「眉山七史」本の版木とが明の南京国子監[br]
に伝わって、所謂南監本の源流となった。それ故、南監本は既に版式が一定せぬのみか、又、磨損[br]
も非常に多く更に広東にあった「宋史」の版をもたらし、又「遼史」「金史」「元史」は新に刻し[br]
て「廿一史」をなした。更に万暦年間には、北京国子監でこれを翻刻して「北監本廿一史」がで[br]
き、又別に汲古閣の毛氏において旧版の十七史をあつめて挍刻したのが「汲古閣本十七史」[br]
であり、清朝に入ってこの「廿一史」にたいし、更に「明史」と「旧唐書」「旧五代史」とを加えたのが「廿四[br]
史」と称せられたいわれであり、もし「廿二史」といえば、「旧唐」「旧五代」を減じたものである。所謂「十[br]
八史略」は元人の兎園冊であるが、つまり「十七史」の時代にたいし、内容としては宋を加えているが、[br]