講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

pageId:050150-2310

親近され、遂に南北を掩ったというのである。これに勢をえて包世臣 慎白 は「藝舟双[br]
楫」を著して、極力北碑を鼓吹し、近くは康有為が「広藝舟双楫」を著して更[br]
にその風を鼓吹したので、近年は碑帖の折衷を試みたものが多いのは、ちょうど文章[br]
で駢散体が行われると同じ風気であったと思う。さらに最近は西域の探険によって[br]
晋人の筆跡が発見されたことは、法帖の真偽を詮議していた時代、さては石刻[br]
一点ばりであった時代を押しながして、新しい研究の曙光となった 西川寧氏「晋人の墨蹟」。[br][brm]
支那の絵画は、文字と源流を同じうしているだけ、その年代も悠久のむかしに溯る[br]
わけであるが、歴史の記載があるようになってからも、いろいろの絵画に関することが現われ[br]
ているが、今にその実物を見ることのできるものは、いわゆる武梁石闕などに発見され[br]
る画像が古く宋から知られており、さらに近く楽浪出土の漆器に描かれた人や動物[br]
の画などが残っておる。しかし画がたしかに独立した藝術として高く評価されたのは、[br]
恐らく文学が自覚された魏晋のころであったらしく、曹弗興とか衞協との名[br]
も見えているが、最も大切な人物は顧愷之で、しかもその作は「洛神賦図」と[wr]「女[br]

pageId:050150-2320

史箴図」[/wr]とが、たとい摸本であるとしても、ともかく今日まで伝えられていることは珍とすべきであ[br]
る。これについでは、宋の陸探微・梁の張僧繇などがあったが、このころから新に登場した[br]
のは山水画であって、あたかも文学者として謝霊運が山水を愛してその詩を作ったの[br]
と同時であった。そして支那最初の画論たる斉の謝赫の「古画品録」が出た[br]
のもまさにその頃であった。その書中にいわゆる六法の首にあげられた気韻生動の[br]
四字が後世まで支那画の根本精神としてもてはやされている。すべて文学藝術に[br]
ついて品級をわけて論ずることは、当時一般のならわしであった。[br][brm]
唐になると、閻立本が「古帝王図巻」を描き、漢昭帝より隋煬帝まで十三人の[br]
帝王をえがいたもので、極めて細かいところまで巧みになったのが、なお六朝風の痕をとど[br]
めているが、玄宗のころ呉道子があらわれ、恰かも文学で李・杜、書で張旭・賀[br]
知章といった如く、画風を一変した。[br]
これと同時に王維も水墨の山水を描いて、その「江山雪霽図巻」[br]
「伏生授経図巻」が、今ともに日本に帰しているが、何れも呉道子と近い画風で、形式を破って写生に近づき、筆勢に重きをおいたと[br]

pageId:050150-2330

いわれる。之に反して李思訓父子は、大体「金碧山水」という如き、旧来の綿密な絵[br]
を描いたらしく、後世になって、王維を南宗の祖といい、李思訓父子を北宗の祖とい[br]
うに至った。唐も末になって、かの「法書要録」を著わした張彦遠が「歴代名画[br]
記」を作り、歴代画家の長短を論評したが、その傾きは、やはり墨画を重んじ、画[br]
は自然・神・妙・精・謹細の五等に分かつべしといったぐらい、形や彩式よりも全[br]
体の出来ばえの自然なことを尚んだ。彼がこの書を作ったのは、武宗の会昌年[br]
間、あたかも仏教破壊時代で、従来仏教の隆盛に伴って発達した絵画、ことに[br]
壁画が破壊されたことを悼んで、つとめてこれを書きとめたものという。これと同時ごろ[br]
に朱景玄の「唐朝名画録」があり、つづいて宋の郭若虚の「図画見聞誌」が出て、[br]
この跡をついだ。[br][brm]
作家としては、唐末五代の荊浩がやはり呉道子以来の筆勢を重んじた画風[br]
の大家で、極めて写生に苦心したらしく、関同はさらにその門に出で、後の山水画は南[br]
北ともにこれを祖としている。その「待渡図」はわが国に伝わっている。[br]

pageId:050150-2340

[br]
五代の間に北方にあった画家は李成・范寛の[br]
師弟が有名であり、強い筆を以て個性を表現したといわれる[br]
が、その後画院に入った郭煕などになって、次第に専門の型にはまって、これが北画の[br]
大成者といわれている。花鳥画においても、蜀に居った黄筌が極めて精密な[br]
方法を用いたに対し、南唐に居った徐煕は自然の描写を試みたが、結局徐煕[br]
の画が勢力を占めた。山水画には南唐の董源が[br]
画に皴法を用いて山の骨を出すことを発明し、その門下の巨然とともに、南画の上に大きな影響[br]
を及ぼしたのも、同じ傾向らしい。[br]
こうして次第に画院の専門家でない、いわば後世の[br]
文人画というべきものが芽ばえて行った。文同 与可  の「墨竹」の如きも文人の餘技[br]
として有名である。ことに、米芾父子に至り、いわゆる米点山水というものをはじ[br]
めて、文人画風の山水を描き、[br]

pageId:050150-2350

その米芾が徽宗の博士となってから、従来の関同・李成を推す風が一変して、董[br]
源・巨然を大家とするようになった。たまたま徽宗は古来に稀な藝術家天[br]
子であったため、古画をおびただしく蒐集したり、画院を盛にしたりして奨励を加え、そ[br]
の時の目録が「宣和画譜(せんながふ)」であった。[br][brm]
宋が金に破れた時、せっかく蒐集された名画も散乱し、宋も南に移ったが、画院[br]
はひきつづき設けられ、李唐の如き純北宗の画家も出たが、やはり文人画がさかんであり、[br]
画院の風も時に従って移ったし、その外にも鄭所南の蘭とか、牧渓 法常 の観音猿鶴とか、[br]
変った人もある。[br][brm]
元になって、かの趙子昂が唐の風に復せんとつとめたが、元の末にいたり、その感化をう[br]
けた黄公望 子久 、倪瓉 雲林 、王蒙 叔明 、呉鎮 仲圭 の四大家がでて、淡泊な気[br]
分を発揮して専門家の型を脱した。明でも画院が設けられたが、宣徳ごろには北宗[br]
の正統が絶え、むしろ文人画の系統をうけた沈周 石田 ・唐寅 伯虎 ・文徴明や董其昌などが一般にもてはやされた。董[br]
其昌は最後に出て、その「画禅室随筆」の如きは、後人のいたく好尚を博したから、自然、清朝にも多くの影響を与え、王翬 石谷 や惲南田など[br]

pageId:050150-2360

の大家を出したが、康煕のころに至り、はじめて西洋の宣教師が画院に奉仕するようにな[br]
り、中でも伊太利の郎世寧(Joseph Castiglione)やオーストリーの艾啓蒙(Ignotius Sickelparth)[br]
の如きは著名であって、西洋画と支那画とを折衷し、支那人でも之を愛するものが出て、[br]
一時かなりの流行を示したが、元来これを折衷することは容易でなく、却ってどっちつかずに[br]
なる嫌いもあり、ことに文人画を愛する習いの深いところに西洋の密画を了解させる[br]
ことはなかなか困難であり、やがて衰微してしまった。清朝には卞永誉の「式古堂書画[br]
彙考」や康煕御撰の「佩文斎書画譜」、呉升の「大観録」、倪濤の「六藝之一録」[br]
の如き大部の書画に関するものもあり、最近は余紹宋の「書画書録解題」の如く、[br]
参見に便な書物もできている。[br][brm]
篆刻のことも、印章の発達とともに歴代その技をつたえ、ことに元の吾丘衍の「三十五[br]
挙」ならびに清の桂馥の「続三十五挙」などがその道の入門として尚ばれているが、一般[br]
の彫刻となると、金石刻文そのものから始まって極めて多数に上り、ことに仏像彫刻がその信仰[br]
や迫害とともに盛となり、雲岡や龍門の如き、今に巍然として存するものがわれわれに[br]

pageId:050150-2370

物語るように、雲岡では西域より入った仏像彫刻が支那化した雄大素朴な様式をもったのが、龍門に転[br]
ずると、全体に細く鋭く平面的な感じを持った洗練されたものとなるのは、仏[br]
教の進む道と軌を一にしている。さらにこれが天龍山や響堂山といくたびか変遷して唐[br]
に入り、ひきつづき龍門なども開鑿されたが、やがてこれを絶頂として、会昌の廃仏以[br]
来、急速に彫刻は衰微してしまった。ただ木版にたいする書籍の彫刻はちょうど[br]
このころから始まり、はじめは韻書や暦・仏典などに始まり、やがて外典一般に及び、宋元[br]
を通じて夥しい書籍が刻まれた。ことにいわゆる繡像の入ったものも少なくなく、その[br]
最も爛熟したのは明の万暦ごろで、絵画も当時流行した仇英の美人画ふうの[br]
ものが流行したが、面白いことにはその下図を書いた人は名が伝わらず、刻者の名が版[br]
木に残されていることで、その頃の最も複雑な挿絵はすべて黄という姓であることは、や[br]
がてその業を世襲する人のあったことを知る資料である。書籍の彫刻とともにい[br]
わゆる文房四宝たる筆墨硯紙などの発達も非常なものであって、「文房四譜」その[br]
他のおびただしい著述がある。中でも端渓の硯のみを研究した書物が数種もあ[br]

pageId:050150-2380

る。[br][brm]
工藝品としては、銅器の早く発達したこというまでもなく、玉・石・陶器あり、角製品・[br]
象牙製品など、殷以来早くも発達しており、ことに周代までの銅器の彫刻の如きは世界無比の[br]
藝術である。鏡も亦、戦国以来さまざまの紋様をもって作[br]
られ、漆器の遺物もこのころから発見されているが、もっと古くからあっ[br]
たに違いない。織物に至っては、漢代の絹製品が近時往往にして発見され、漢の都の[br]
織室の紀事に照応する。唐ごろにはかかる工藝品が夥しく発達したが、その平脱などがわ[br]
が正倉院に保存されているのも面白いことである。特に陶瓷は重要なる工藝品とし[br]
て、ことに南朝に発達したのが今の景徳鎮の前身で、宋に入っても河北の定窯が有名[br]
であった。こうした陶瓷を始め支那の工藝品が遠く西洋にわたり、十七世紀のフランスの[br]
貴族社会に大流行を来し、フランス国王フランソワ一世がフォンテーヌブロー宮に“支那美術の間”を設[br]
けたといわれ、かかる美術を製作し得る国民はいかなる文明国であろうかという好奇[br]
心を起こした。今でもchinaということばで陶瓷を表しているのもその関係である。[br][brm]

pageId:050150-2390

最近までも農業経済に立脚している支那文化が、太古のころかかる農業文化の指導[br]
原理として天文を考えたことは云うまでもなく、「尚書」の「尭典」に四季の中星のことを律語によって[br]
掲げてあるのでも、そのいわれの深く遠いことが知られよう。すべて四季の中星を求めることは、[br]
気節を整えて農業耕作に都合の好いようにする方便であって、それが社会の発達と[br]
ともに一層複雑に進み、同時にその指導をうける人たちに、少しの差違もおこらず極[br]
めて安心して業務に服せしめ、更にその社会を構成する政治機関にもかかる変異に[br]
よる不安を生ぜしめまいとするようになってゆく。これが戦国ころになると、日月五星に関する注[br]
意が極めて著しく、自然、その運行についての計算が行われ、たとえば木星などが歳星といわ[br]
れ、十二年で天を一周する、即ち天を十二次に分け、その一つを毎年の次(やど)りとする。その次(やどり)[br]
が、それぞれ地上の国国に配当されていて、そこに来た五星によって吉凶が判断[br]
されるという物語りが、夥しく「春秋左伝」に見えている。勿論それはあまりにもよく中(あた)って[br]
いるから、予言ではなくして後世から作りあげたには相違ないが、そういう話が記録の中に入[br]
りこむについては、勿論そういう天文学的知識の発達に負うこと疑いもない。[br][brm]

pageId:050150-2400

元来支那の天文学は、「史記」の八書においても、歴「書」としてとりあつかう部分と天官「書」[br]
としてとりあつかう部分とがあって、前者はいわゆる夏殷周の三正、すなわち夏は正月[br]
を年の始とし、殷は十二月、周は十一月を始としたことから、秦漢の歴法に及び、遂に武[br]
帝の時に方士唐都を招いて天の部分を分かち、落下閎が歴法を計算して太初[br]
暦までのことを説いてあり、「天官書」は専ら天の星辰の位置、その運行を説き、[br]
それがそれぞれ地上の人事に配当されているため、もし天上に意外の現象が見えた時[br]
は必ず地上のある事件に応ずるものとして説かれる。これは云わば天に対する極[br]
端な信仰を、支那流の具体的方法によって示したもので、抽象と具体とが表裏[br]
一体になっている好い例であるが、これは後世でいう五行志的の傾向をつよく含むも[br]
のであって、この方向の発達には一定の限度が考えられる。しかし「暦書」でとりあつ[br]
かう部分と「天官書」における日月五星の運行――その起点または標準としての恒[br]
星の研究というようなことは、相合して一つの広汎な天体暦をかたづくり、この方向は[br]
いよいよ精密になることを要求されるだけに自然科学的方法がどこまでも追求され、[br]