講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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その内容を知ることができず、或は「叙録」だけが残っていたり、或は単に歴史にわずかの記載[br]
があったりするのみで、正史の体を備えたものに「藝文」が立てられることもほとんど無かったようである。故に、正史として「漢書藝文志」に次[br]
ぐものは、直(すぐ)に「隋書」の「経籍志」なのである。一方、書籍の方も、梁の元帝の時の江陵の戦敗のため、折角あつめた十四万巻を焼いて莫大な損失[br]
を蒙ったが後[nt(050150-0210out)]、隋が北から起って陳の書籍を併呑し、これを整理して洛陽の修文殿に[br]
収めた。その時の目録が即ち「隋志」の基礎をなすものである。この「隋志」の分類も、経史子集の[br]
四つに「道・仏」を加えたところ、正に阮氏「七録」の姿をも伝えているが、それのみならず、内容としても一一阮氏「七[br]
録」と対照して書籍の存佚を考えている。わが国にも「日本国見在書目」があって、「正五[br]
位下行陸奥守兼上野権介藤原朝臣佐世奉勅撰」と題し、清和天皇貞観十七年643〔唐の僖宗時代〕、冷然院が火災[br]
により焼失した後、これを復興した時の漢籍目録で、当時輸入された書籍を知るとともに、「隋[br]
志」との異同を研究することは、頗る(すこぶ)興味のあることであるが、分類は全く「隋志」と同一である。[br]
序(ついで)ながら、冷然院が焼失したのは、「火」があるからだとて、後には「然」を改めて「泉」としたというが、丁度清の[br]
銭謙益の絳雲楼が焼けたとき、「絳雲」の二字が箴(しん)をなしたものといわれた話と正に好一対[br]
である。[br][brm]

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人がなぜ焚くのかと云ったら「読書万巻猶有今日、故焚之」と云ったと云う。

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次に正史としては「旧唐書経籍志」をあげねばならないが、これは唐の開元中に作られた「古今書[br]
録」を底本とし、即ち乾元(けんげん)殿(でん)に集められた書籍の目録であったが、「旧唐書」を整理編[br]
修したはずの「新唐書藝文志」は、はたして見在によったか否か覚束(おぼつか)ない、極めて粗雑な目[br]
録であって、取るに足らないものである。[br]
[br]
又「新唐志」と同時に作られた「崇文総目」は、崇文院の目録であり、相当詳細な解題があったはずであるが、今は解題が失われている。[br]
さて、従来の書目はほとんど全部が朝[br]
廷の蔵書目であったに対し、南宋では尤袤の「遂初堂書目」、晁公武の「郡斎読書志」、[br]
陳振孫の「直斎書録解題」などがみな個人の書目であることは、やはり南宋時代における[br]
新しき傾向として、学問の普及がたとい徐徐にまれ進展しつつあった証拠と考えて[br]
好いと思う[br]

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が、ことに後の二者は詳細な解題があって、後世の学者を裨益している。次の「宋史藝文[br]
志」も「宋史」全体の不評判の如く蕪雑であり、「遼、金、元史」は「藝文」を立てず、「明[br]
史」に至っては全く断代の体となって、明人の著作のみを録している。[br][brm]
ここに注目すべきものは、清の乾隆年間に勅撰された「欽定四庫全書」と、その「総目提要」[br]
であって、この一大編纂事業は、総纂官の紀昀と、その下に集められた戴震、邵晋涵の如[br]
き、当代一流の学者の心血を以て、凡そ十年間を以て完結し、存書三千四百五十七部[br]
七万九千七十巻、存目六千七百六十六部九万三千五百五十六巻に対し、それぞれ[br]
提要が作られ、その存書は、宮中の文淵閣、円明園の文源閣、奉天の文溯閣、[br]
熱河の文津閣あわせて内廷の四閣と、揚州大観堂の文滙閣、鎮江金[br]
山寺の文宗閣、杭州聖因寺の文瀾閣、あわせて江南の三閣、すべて七閣に繕写[br]
庋蔵され、清朝一代の盛事と歌われたのみならず、支那目録学始まって以来の[br]
大規模な事業であった。その分類そのものはもとより経史子集の旧を襲(つ)いでいる[br]
が、尤も注意すべきは各書の「解題」と各部各類の「小序」であって、ここに歴代[wr]目録[br]

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学[/wr]の精萃を集めたと云うことができる。元来、目録ということばは「漢書」の「叙伝」下にも、[br]
劉向司籍、九流以別、爰著目録、略序洪烈[br]
とあり、又劉向の「別録」の佚文にも「目録」ということばが見えるから、或はそのころからできた[br]
ものかも知れないと思うが〔「四庫提要」に「目録」という名は、鄭玄に始まる八十五「目録類」小序 というのは、[br]
誤りだと余嘉錫氏が考証している〕、目録学ということばを用いたのは、王鳴盛の「十七史[br]
商榷」がはじめだというが、この学問の発生は「目録」のことばと共に存するもので、決して清朝に始まる[br]
わけでなく、况(ま)して〔光緒二十年1894〕耿文光(こうぶんこう)の「目録学」に始まるものではない。ここに大切なことは、支那の目録は、[br]
決して書物の台帳ではないということで、かの明の楊士奇の「文淵閣書目」の如く、経史子[br]
集にもわけず「千字文」で書棚の番号をつけ、冊数はあっても巻数のないものは、銭大昕の云う如く、[br]
内閣の簿帳であって、書物の仲間に入らないのである 「潜研堂文集」二十九「跋文淵閣書目」  。自然、目録とし[br]
ての重要な条件は、第一、分類であるということになる。さて、その分類の中に書名の外、[br]
巻数、著者などを簡単に記したものもあり、中には書名だけしかない「遂初堂書目」の[br]
ようなものもある。次には、その分類について、若干の説明を加えた小序(22)のあるものは、[br]

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なぜこういう分類をしたか、又はこういう分類ができたか、といういわれを書きあらわしているた[br]
め、学問上重要な価値を持つものであり、更にそれぞれの書物の下に、その解題を加え、そ[br]
の書物の作者の大概から書物の内容、又その優劣を批評してあるから、最もその価値[br]
が高く、清の章学誠が「校讐通義」の序において、[br]
劉向父子、部次条別、将以辨章学術、考鏡源流[br]
といった如く、これを新しいことばで云えば、正しく「学術史」を以てその理想とすべく、この意味にお[br]
いて、劉向父子が「別録」「七略」においてひとり分類を試みたばかりでなく、「漢志」に見える各[br]
類の小序といい、今の「荀子」や「晏子春秋」にわずかに残っている劉向作の解題の如き、すべて後世[br]
までの規範を示したのは偉大な見識というべきであり、同時にこの学問を発達せしめて、[br]
能(よ)くその大をなし細をきわめた「四庫提要」の功労に対し、深い感謝の意を表しなけ[br]
ればならず、元来、目録の盛衰は学術の盛衰を卜するものといわれ、即ち清朝学術のいかに盛んであったかということを証明することにもなると思う。[br]
然るに、ここに一人の目録学者で、目録には解題が不用であると考えた人物[br]
がある。それは宋の鄭樵である。その主張した目録は、即ち「通志」の「藝文略」であって、こ[br]

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れと目録学の理論にあたる「校讎略」の二者は、極めて意識的な著述として注意すべきも[br]
のである。その分類は、経史子集の中から更に特技に関するものを抜いて独立させてあって、[br]
即ち経の中から礼楽・小学をとり出し、諸子の中から天文・五行・藝術・医方・類書をと[br]
り出したのは、みな専門を尚ぶ考に外ならず、即ち劉向父子の兵書・数術・方技を附庸[br]
とした精神である。而かも、更にその中を見ると、「易」にも「書」にも十六の種類があり、道家[br]
には二十五目、五行には三十目という如く、実に微細なる分類である。支那に目録あって以来、かくの如く細かい[br]
分類を加えたものはないのである。加之(しかのみならず)、この「藝文略」は、決して従来の官府の書目の如く現に所[br]
蔵され存在しているものの目録でなく、昔からの「藝文志」「経籍志」にある書籍を存佚に拘らず、[br]
全部カード式に集めてその分類を考えたものであるから、その目的は分類にあり、自[br]
分自身も書籍の分類は軍隊を指揮するようなもので、条理さえ立てばいくら細かくても[br]
差支ない、分類が細かくなると、たとえば讖緯の学は東漢に盛んであり、音韻の学は江左に[br]
伝わり、伝注は漢魏に始まり、義疏は隋唐に完成するという如きことが明瞭にわかり、[br]
たとい原書は亡びても、学問の源流を知ることができるという考えである。それ故[wr]「崇文総[br]

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目」[/wr]の如く毎書の下に解題を加えたものをそしって「繁」といい、「分類を見たら自然に分かるもの[br]
を」と称している。所が料(はか)らず、清の朱彝尊が寧波范氏天一閣に至り「崇文総[br]
目」を見たところ、ただ目録だけあって、解題など一つもない。そこで、これは鄭樵の意見によって[br]
大切な解題を削られたのだ、ということを考え、「四庫全書」の「提要」では、鄭樵は「通志略」を[br]
以て空前の大著述としようという野心を抱いたが、田舎もののことで宮中の立派な本[br]
を見る資格がないので、一計を案じて「崇文総目」の解題は無用だという説を唱えて時の[br]
天子を動かした悪だくみであるといい、元の時にできた「宋史藝文志」の出来がわるいのも、鄭[br]
樵のこの悪だくみの影響であると極論している 八十四「崇文総目」 が、これはいささか見当ち[br]
がいで、余嘉錫氏の云う如く、「宋史」のことなどは全く飛んだ側杖である。[br][brm]
今一つ、解題がなくして実に好くできた書目は、清の張之洞が作ったことになってい[br]
る〔実は繆荃孫(びゅうせんそん)だとも云う〕「書目荅問」であって、学者が学問の道に分けい[br]
るために、如何なる書物を備うべきかということを周到に考えたもので、やや高級にすぎる[br]
嫌いはあっても、決して鄙俗の作ではない。特に、分類的に云えば、叢書類を独立せしめた[br]

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こと、「別録」としてもっとも初学者の入門的読本をあげたことであり、これらはいづれも解題を要せず、[br]
否、解題どころか、自分で精密に読破すべきもので、細部の分類も実に巧であり、いわば[br]
清朝において大成した支那学の一覧表として、また支那学の鳥瞰図として、無二[br]
のものである。[br][brm]
最後に、民国以後における学術の変遷はさらに重要なる変化を目録学に加え、[br]
近代化した著述を立てて一門とすることは絶対必要となったことは、今試みに本学支[br]
那哲文学研究室の分類表を以て、その大体を察知されるならば、思い半ばにすぐ[br]
ることで、詳しい説明は省略する。[br][brm]
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「漢書」の「藝文志」には最初に「六藝」の目を立てているが、疑いもなく後世の六経である。ただし、[br]
その内容としては「易・書・詩・礼・楽・春秋・論語・孝経・小学」の凡そ九種類に細別されて[br]
いるが、その所謂六経とは「易」より「春秋」までを指す。而して、他の三者は附庸にすぎない。今専[br]
ら所謂六経について考うるに、六経がこのような順序をとっていることは、容易にその理由を知[br]
ることができる。即ち「易」は宓戯(ふくき)氏が八卦(はっか)を作ったに始まり、六経の中、最も淵源の久しいもの[br]
であり、「書」は堯より秦までのことを記載し、「詩」は殷から魯までを採集し、いずれも周以前の[br]
古書と認められ、「礼楽」は周に至って初めて備わり、「春秋」は孔子が魯の史記によって編訂を加えた[br]
ものであるから、つまり、これを年代に応じて排列したまでである。即ち、この当時までには幾何(いくつ)の古典が[br]
経に歯(し)されるかということが既に確定し、その位置が他の古典に比し斬然として擢んでていたという[br]
事実とともに、その相互の間に於てはもはや軽重優劣の差をつけることができず、ただその年[br]
代による相違のみが唯一の順序となっていることを示すものである。しかし、恐らくかかる順序の[br]
未だ定まらない中は、支那の古典の評価はむしろ内容的に定められていたものの如く、たとえば[br]
「荘子外篇」の「天運」や「天下」に「詩書、礼楽、易・春秋」という順序を以て六経を説いているが如きは、[br]

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たとい「荘子外篇」の書かれた年代は何時にもあれ、六経がもっと内容的に評価を別にしていた[br]
ことを示すべきもので、就中(なかんずく)「詩」「書」の二者、特に「詩」が筆頭にあげらていることは、三百篇が如何に[br]
古くから支那人の教養として重んぜられたかを示すものであり、「論語」をはじめ、先秦の諸書に最も数[br]
多く「詩」が引用されていることも、正しくその証拠であり、これに反して「易」が十分高い位置を示さ[br]
ず、先秦の諸書にもあまり引用されず 「左伝」に引かれるほか 、「論語」にも一箇所だけ「五十以学、易可以無大過矣」(述而) とはあ[br]
るが、魯論のテキストでは「五十以学、亦可以無大過矣」とあったらしく、恵棟の説によれば漢[br]
の「外黄令高彪碑」に「五十以斅」とあるのがその傍証だというくらい、最初は必ずしも一[br]
様に重んぜられたわけでないに違いないが、今ここに経として問題になることは、既に六経が斬[br]
然として擢でた時代、即ち経書が互に優劣のなくなった以後のことである。時代で云えば大体、[br]
漢の中季以後と云って好いと思われる。[br][brm]
漢の経学を知るについて最も重要なことは、今古文の問題で、今古文とは今文すなわち[br]
隷書で書かれたテキストに拠る学統と、古文すなわち隷書以前の文字で書かれたテキス[br]
トに拠る学統とである。尤もこれを今文というのは、後に古文が現れたからそれに対して今文とい[br]