講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
有田制[/wr]とともに無産者を認めるに至った。かくして従来の租・庸・調の制度も破れ、楊炎の両税〔夏と秋戸地〕の[br]
法が行われたが、当時の財政家としては劉晏、第五琦〔塩の専売〕などが活動している。この両税法に[br]
対する強硬なる反対は、陸贄の「陸宣公奏議」に見えているが、この奏議は、美しい[br]
文体を以て先王の道をふりかざしたもの故、後世まで多くの愛読者もあるが、如何にせん、[br]
戸口の厳正を期しがたく、均田の法の実行しがたき支那の税法として、両税以来の道はな[br]
いわけで、陸贄の税は勿論実行されるわけには行かなかった。[br][brm]
これよりさき、支那の社会制度は、六朝の貴族制によって支配されていた。即ち、天子もその貴族[br]
の中から交代に選出されるようなもので、そのため六朝の王室は猫の目のように変った。あらゆる[br]
支那の官吏は、その貴族の定めた特異の推選制度、いわゆる九品中正の制によって決定され、[br]
九品の名の示すように、家柄が尤も重視され、教育も亦、家を中心として施行された。これが[br]
唐になって、次第に君主が尊厳を増し、しかも李氏は塞外から現れて漢人を統馭したた[br]
め、その結果貴族が消滅して、天子のみ独り尊く、人民は直接天子の官によっておさめられ、[br]
その天子の官は人民のかの科挙の制度により、非常な努力の下にかちえられた一代かぎりの[br]
栄典であった。しかしこの栄典にあたった人人は、自らの教養を高くし、文雅の道にたけ、政治上の責任は[br]
すべて天子に帰し、自分はただその職責とする部門における徳化を中心として、天子の政治道徳[br]
を輔佐するに止まり、また実際の政務は、その下に胥吏があって代行し、極めて寛容な政治形態を取っていた。又、官吏以外の社会には古く[br]
からいう人民の共同自衛の制度が発達し、かの遊侠の如きものは、政治の寛容なる間隙を埋[br]
めるためにも極めて必要な存在であった。かくして人民における人格の自由や財産の私有[br]
が認められ、国家の生活と人民の生活とは、必ずしも同じ軌道に乗らねばならないことはなか[br]
ったし、人民が国家の政治に口を出す必要もなく、たとい口を出しても取りあげられる道もなか[br]
ったから、人民はいよいよ国家に対しては無責任になり、たとい前朝の権臣で新朝の叛臣[br]
でも、一旦戈をおさめて蟄居し、官につかないかぎり、自分としても操が足り、朝廷としてもこれ[br]
を追求することはなかった。人民の国家に対する義務はただ租税だけである。従って国家も[br]
格別人民のためになるような施設をしてやるでもなく、人民も国家から期待せず、官吏も[br]
その職責さえ尽くせば好いというわけで、あらゆる制度は抜けあなだらけである。これが如何に支[br]
那が近代国家となることを妨げたかは云うまでもない。[br][brm]
かかる社会における経済状態も、農業本位であることと相待って自由であり、平等で[br]
あり、比較的均勢のとれた社会に反映して、努力がある程度報いられ、生活が甚しく圧[br]
迫されることもなかったから、発展というべきものも期待されなかった。これが近世までに支那の[br]
経済学が一向発展しなかった原因である。尤もこの間に、国家の非常時にあたって政府の活[br]
力を増進せんがために、たとえば宋の王安石の如く、いわゆる新法を実施した宰相もあるが、[br]
結局かかる社会を改造せずして新しき施設をする所に無理があって、ために社会を混乱せしめ[br]
たに止まり、自分も拗相公とわる口をいわれ、散散な目にあった話が「京本通俗小説」に出[br]
ている。[br][brm]
貨幣については、唐の初に五銖銭を廃して「開元通宝」を正貨として二銖四纍用い、これがわが国[br]
に入って、その一文(もん)だけの目かたを“一匁(もんめ)”というようになった。また商業の団体が隋・唐を経て次第に作られて、都市[br]
には行というものがその組合であって、今の“銀行”というのはその名ごりである。近年まで広東貿[br]
易が十三行によって維持されていたのも、重要なる事実である。ことに唐宋にかけて、長安より[br]
の西方交通路と、広州・泉州、揚州・明州、登州などの海外貿易も盛に行われ、これが[wr]上[br]
流階級[/wr]の奢侈を誘した。宋では紙幣が現れ(交子)(銭引)(会子)遂に硬貨に代って[br]
完全な流通力を握ってしまったが、これもはじめは銅銭乃至鉄銭をたすけただけであるが、後に銅鉄の缺乏とともに銀[br]
が地金のまま用いられ、同時に紙幣が力を保ったが、紙幣が行われた記録は支那が最も古いといわれ[br]
る。この宋銭もわが国に流通して、そのままわが国の正貨となったが、今の経済と比べると今[br]
昔の感にたえない。元代は大体、「至元宝鈔」の如き紙幣が行われ、その後も明貨が日本にも流通していた。[br]
しかるに明の末年から、西洋の貿易船が次第に兵力を背景として、マカオに根拠をすえた[br]
ポルトガルを初め、スペインはルソンを征服してマニラを建設するに至り、清朝に入るや、康煕年中に外国貿易[br]
が公許され、かの十三行を仲介として盛に外国貿易が行われ、その外国商人との葛藤から、ア[br]
ヘン戦争を起こし、香港を奪われ、かくして支那が未曾有の変革に直面するに至った[br]
わけであり、西洋の資本主義が支那にその手をひろげることになったのである。[br][brm]
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支那の古代人は、その文化の程度と生活の様式に応じ、さまざまの器物を作ることを知り、又、そ[br]
れらの器物乃至天然の岩石や骨片などに文字を彫刻もしておいた。その最も古いものは、殷の時[br]
代に卜筮の目的から亀甲乃至獣骨に所要の条件をきざみ、丁度その裏面にあたるところ[br]
に深い穴を穿ち、その穴の横に、更に之に接した小さい穴をあけ、あらかじめ焼いてあった堅い木の尖[br]
端をその小穴にあてて熱する、或は更に空気を送って熱度を強める。そうするとその熱の力により、[br]
さきの深い穴のために薄くなった表面に、多少の亀裂を生ずる。それを専門の卜を司るものが[br]
判断して吉凶の占いをする。これは「周礼」にも、太卜という官があり、詳しくそのやりかたを記録してあ[br]
り、わが国でも、今に神道においてその儀式を伝えている。ともかく、かくして使用した亀甲・獣骨に刻[br]
まれた文字が、恐らく今日見得る支那文字の最古のものと云えるであろう。[br][brm]
又一面、金属を鑄て造られた器物は極めて豊富に存在し、中でも鼎とか彝とか鐘とかは、一[br]
方では実際にこれを庖厨に用いたことがあり、これを鳴らして音楽に用いたこともある。たとえば「儀[br]
礼」の中には、祭祀の儀節をあげてあるが、まず門の外に鼎を据えて、大牢または少牢の調理を行[br]
い、それからその耳に棒を加えて中庭に舁きこみ、その中の肉をば匕を用いて俎にのせることが詳[br]
しく述べられているし、「左伝」に、鄭伯が酒を好み、窟室を作って、夜そこで酒を飲み、鐘を撃ち、朝の[br]
時刻になっても止めなかったという話が見えているが、これと共に一面は、国家の重要な装飾乃至[br]
は象徴として重視し、むかしから国を立てるには鼎や彝を分け与えるということもあり、諸侯や[br]
大夫が入朝すれば鼎や爵を賜わり、小国が大国に賄賂を送るには鼎や鐘をもってゆ[br]
き、大国が小国を討伐するときに、戦利品としてその鼎や盤を奪いとるなどという話しがいろいろ[br]
伝わっている。又、為政者がこれに文字を刻んでこれを坐右銘としたことは、「大学」に「湯盤[br]
銘」として、「苟日新、日日新、又日新」という金言をのせたことでもわかるし、「左伝」には、鄭で刑法を鼎に鑄[br]
こんだ話しが見え、政治の厳正を期したことになっている。それ故鼎の如きは、国家を代表するもの[br]
として重んぜられ、かの「左伝」にも、周の王室が衰えた時、楚子が周の畿内近く兵を進め、鼎[br]
の大小・軽重を問うたところ、王孫満がこれに答えて、徳にあり鼎にあらずといったという有名な[br]
話しも見えている。元来、かかる器物はその形状から云ってもさまざまあり、又、その紋様と[br]
いい、文字といい、いろいろの問題を提供しているが、大体を云えば、殷時代の器は、銘文といっ[br]
ても簡単な図形にすぎないようなものが多い。しかるに周になると、いわゆる「郁郁乎として文[br]
なる哉」で、極めて文字の数の多いものができていて、中でも毛公鼎などは、四百九十七字という長[br]
文で、文章も極めて典麗になっている。その他、盂鼎とか散氏盤とか云うものも著名である。[br][brm]
これに対して、石に刻したものは、石鼓が最も有名である。これは、唐のはじめに陝西省鳳翔[br]
縣で発見されてから急に有名になり、唐の韋応物や韓愈がその歌を作って、周の宣王[br]
の旧物であるといって詠歎した。その後、宋になってから鳳翔より東京、即ち今の開封に[br]
移して、辟雍に安置したが、金の軍が宋を破り開封を陥れてから、これを燕京、即ち今の北[br]
京に移し、元の時には国子監の大成門の左右に置き、明、清、民国を通じて、ここに保存さ[br]
れたが、近年は遂に南方に移されたと云う。その石の数はすべて十個で、直径は約三尺、上が小[br]
さくて下が大きく、頂上は丸く、底は平で、四周はやや角ばったものと正円のとあるが、銘文は[br]
何れもその四周をめぐって刻まれている。就中(なかんずく)、ある一つの石は、宋以前に何者にかによって[br]
上部を切断され、中央に穴を穿って石臼に用いられたらしく、若干の文字を失っているし、さ[br]
なくとも、多年の風雨なり、又は運搬拓工などの禍にて文字の明かでないものが多いが、大体[br]
は詩経体の四言詩が刻まれていて、狩猟のことを詠じてある。而かも「詩経」の小雅の「車攻」[br]
と全然同じ文句さえ認められる。その「車攻」の詩は、周の宣王のことを歌ったもので、序によ[br]
ると、内は政治をおさめ、外は夷狄を攘い、文武の国境を克復し、かくして車馬を修め武[br]
器を具え、諸侯を東都に会して田猟し、それによって車徒を選んだというので、これを宣王の[br]
詩と考えたわけであり、これを鼓形の石に刻したのは、文徳は鼎に書し、武事は鉦鼓に刻す[br]
るからであると云い、或は之を猟碣といって、狩猟の記念碑とも考えている。ただし、世にはこれ[br]
を秦時代のものだと云う人もあり、漢のものだという人もあり、甚しいのは北朝の宇文周の時[br]
の物とさえ云われているが、先年、北京大学の馬衡教授が、これを秦刻石とする説を発表[br]
して、学会の注意を惹いたが、それによれば、石鼓というのは誤りで、単に石に刻んで田猟の盛[br]
事を記録したにすぎないと云う。秦の始皇帝の時は、刻石が一番よく行われたらしく、東巡の時も[br]
六種の刻石を行った。即ち鄒嶧・泰山・琅邪・之罘・碣石・会稽であるが、今は琅邪台だけ[br]
が諸城縣の海神祠内に存しているといわれる。泰山の二十九字は、はじめ嶽頂の玉女池上[br]
にあったが、後に碧霞元君廟に移され、乾隆五年1740に焼けて今の残石は十字しか存し[br]
ない。之罘・碣石・会稽はともに久しく亡び、嶧山ははじめ之を拓する人が多かったので、邑人[br]
がうるさがり、薪を集めて之を焼き、残缺せしめた。それ故杜甫も「李斯八分小篆歌」に於て「嶧[br]
山之碑野火焚 棗木伝刻肥失真」といって嘆いている。[br][brm]
前漢時代の石刻は極めて少なく、確なものは魯孝王五鳳石刻など二、三点にすぎないが、東[br]
漢になると各地に官吏や名人のための頌徳碑や墓碑などが多くなり、特に漢の熹平[br]
年間に洛陽の太学にたてられた石経は、蔡邕の書と称せられ、極めて有名である。つい[br]
で魏の正始年間には、三体石経が作られ、熹平石経が隷体で書かれたに対し、毎字、[br]
古文・篆・隷の三体で二十八碑書かれたことは、特に興味がある。漢石経は夙に知られて、宋の時からそ[br]
の残字が翻刻もされたが、近来は夥しく発掘され、その結果、碑の文字の配置まで[br]
ほぼ見当がつくようになり、従って作偽の徒がますます横行している。三体石経はあまり[br]
多く知られなかったが、光緒の末年に始めてその一部分が発掘され、それ以後陸続として[br]
断片が現れ、曽てはほとんど一石の三分の二以上に近いものすら発見されたが、運搬に困難[br]
だと云うので、無残にも中央から打ち破られてしまった。ついでながら、その後、唐の開成石経、[br]
孟蜀の石経、宋の嘉祐石経、南宋の高宗の石経、および乾隆の石経と相ついで作られた[br]
が、清朝のものの外、開成石経十二経は、今も西安府学に存しているが、文字は大分改竄されて[br]
いる。[br][brm]
その他、魏では孔羨碑が有名であり、呉の天発神讖碑はすでに亡びたが、禅国山碑は[br]
完全に伝わっている。魏の武帝は碑を立てることを禁じたので、晋まではみだりに碑を立[br]
てない風があり、晋の碑はわりあいに乏しく〔建甯太守爨寶子(さんぽうし)碑などが顕れている〕、[br]
南朝もわりあいに碑に乏しく、ことに今に伝わるものは少ない。銭大昕のいう所によると、明の太[br]
祖が南京の城をこしらえた時、すべての碑を集め、街道をこしらえたので亡びてしまったというそ[br]
うであるが、近来なお土中から発掘されている。北朝は土地がら碑板がよく行われ、また[br]
その土地が文化に霑わなかっただけ拓本にもされず、迷惑もかけなかったため、倒したりこわされ[br]
たりする憂もなく、今日でも西北各省には北魏・北周・北斉の碑が夥しく伝わってい[br]
るし、仏教道教関係の碑も、このころから目だって現れている。ことに山西・山東などの大規[br]
模な石仏や石窟の如き、仏教に対する信仰が如何に熱烈であり、いかなる圧迫にた[br]
いしても抵抗しようという堅き決意を今に物語っている。[br][brm]