講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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対照せしめていて、理と気とを包む太極があるとともに、心とはさらに性と情とを包むものであったから、性即理であっても、心即理とは云[br]
えなかった。これは直截でないかも知れないが、極めて複雑であり、而かも整頓されていたため、倫理哲学[br]
としての重要な地位を占めることができた。[br][brm]
これと同時に出でて朱子に対抗した陸象山は、心を以て中心とし、心即理の説を唱道し、心の[br]
作用を完全にするには「行」の工夫が大切であった[nt(050150-1910out01)]。「行」の工夫によって煉成された心の命令の[br]
下に直截な行動を取ろうとするもので、朱子の知を重んじたに比して行の方に重きをおい[br]
たので、有名な「六経はみなわが注脚」といったように、書物を読むことには重きをおかなかった。かく[br]
して朱・陸の二思想家が同時に現れたことは、たしかに一つの偉観であって、朱氏の門人は学問に[br]
秀で、陸氏の徒は実践に長じた。尤も陸子の徒でも、楊簡慈湖  の如きは、心の澄明な[br]
方面を求めて、鋭利なる践履については、やや疏いものがあったらしい。つまりこれは宋代の思想[br]
界がとかく知的方面に傾きやすく、仏教でいえば華厳に近くして禅にはなりきれなかった[br]
ため、自然、学究になり上品になり、かの強烈なる実行的意慾が自ら制限を受けたように[br]
思われる。[br][brm]

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鵝湖之学会 浙東学派 (陳亮 葉適)

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かくの如く宋代には、一時に哲学的傾向の学問が花をひらき、支那において稀な光彩を放ったが、[br]
これも六朝以来久しきにわたって仏教乃至は道教さえからも訓練された支那人が、改めてその[br]
刺戟によって支那的な思想の前進を試みたわけで、単に前代のきまり切った疏解に満[br]
足していた読書人にとっては、たしかに近代的な新鮮さを以て受けいれられたに相違なく、経[br]
書の許す範囲に於て自由な展開を示したことは、極めて興味のあることである。ただし[br]
さすがに支那思想であって、経書の疑うべからざる部分は決して指を染めることはでき[br]
ず、又、これと矛盾するような学説を立てることも許されず、ただ在来の注釈を適[br]
当に取捨塩梅して、近代的解釈の下に新しき宇宙観、人生観乃至修養実践の[br]
理論的温床としたのである。それと同時に、経書からして新しき宇宙観を紬ぎ出すことは、[br]
ここに於て全くその事業が完成され、これ以上の展開は将来とも期待しがたいことで、朱[br]
子はまさにこのしごとを担任し、完了した人物であったとともに、ちょうど仏教思想が華[br]
厳から禅へ流れたように、知識に飽きた儒家の徒は、次ぎの明に入って、一層直率な実[br]
際方面に突入した。[br][brm]

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明の初めまでは、程・朱の学が全盛を極めていたが、その中の呉與弼康斎の門人の中から、[br]
婁諒一斎と陳献章白沙の二人が出て、禅宗に近い静坐の工夫を試み、ことに婁一斎に[br]
は、陸象山的傾向が強かったから、その門に王陽明を出したのも怪むに足らない。王守仁[br]
ははじめ一斎に接し、陸学に興味を覚え、心即理の思想がさらに強い行の工夫の上[br]
に立つことを認めた。即ち、知は行の目的であり、行は知の手段であって、知と行とは互蔵[br]
的であり、渾一的構造であり、かくしてこそ、その工夫は生きて実行力を持った。この知行合[br]
一の立場はその門人において、やはり行に傾くものと知に傾くものとに分かれ、結局、王畿龍渓・王艮心[br]
斎の如き活動的なものと、鄒東廓・羅念庵のごとき静虚的に向かったものとができ、その活[br]
動的なるものが醗酵して、遂に李卓吾の如き倡狂なる行為となって現れ、曽ての実践哲[br]
学がかえって道徳的に世の指弾を蒙り、かつての知的立場がまったく典拠を失った放慢[br]
な思想に置きかえられた。一面か云えば、これは支那思想そのものの形骸を洗いさって、真[br]
の批判を下して可なる時期に到達したものとも云える。典拠を尚ぶ学風では到達しえない[br]
赤裸裸の思想がここに発展しようとした。[br][brm]

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およそこれまでの支那の思想界は、上流の階級を対照としたものであって、一般大衆とは関係のな[br]
いものであった。それ故、焦循も良知論「紫陽之学、所以教天下之君子、陽明之学、所以教[br]
天下之小人」といい、何人でも感発できる点を指摘しているが、普通一般人のみならず、不具者をも[br]
教導することは陽明も実行したことであり、李卓吾に至っては、その講説の時に帰人が来聴し[br]
たことがあって、ある人は女なんて見識がないから道を学ぶ資格がないと云ったら、「人に男女がある[br]
ということはさしつかえないが、見識に男女があるという法はない。見識に長短があるということもさしつ[br]
かえないが、男の見識が長じ、女の見識が短であるという法はない」と云ったという位で、在来の[br]
拘泥した見解を一掃したことを卜すべきである。勿論今日にありては普通のことにすぎないにし[br]
ても、当時かかることを大胆に言い切り、あらゆる社会面と接触したことは、たしかに人を驚か[br]
すだけのものがあったと思う。[br][brm]
しかるに、清朝になると、ふたたび程・朱の学がオーソドックスとなり、さらに元明の間の反動として[br]
求是の学が流行した結果、学問が復古的に向かい、いわゆる漢学が盛になるにつれ、宋学[br]
者との間に葛藤を生じ、又、これを協調させるような学者も現れたが、清朝全体の傾向とし[br]

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ては、思想的にはどの道新しい展開を期待できず、わずかに漢宋両学の争闘史を見るにす[br]
ぎない。漢学と宋学とは、江蘇の学者ではかなり厳格に区別されたが、安徽省はむ[br]
かしの朱子の郷里でもあって、宋学の臭いが濃く、江永が「近思録集注」を著したり、戴[br]
震が「孟子字義疏證」を著わしたりした如きことが多く認められ、降ては、当時の夏氏の兄弟の[br]
如き、みな漢宋兼採であり、又それぞれ一家の見をなしていたし、桐城派の学者はこと[br]
に朱子学の義理を重んじたので、方東樹の「漢学商兌」の如き反動的著述も[br]
現われた。これというのも江蘇の学者が漢学を鼓吹して宋学の心臓をつき、たとえば阮元[br]
の「性命古訓」のように、宋学者のいう性命の解釈が古訓と合わないことを指摘されては、ともかく古典に[br]
根拠を求めている宋学には、やはり相当な深創に相違ないので、勢い抵抗に出づること[br]
もあったであろう。尤も漢学の比較的起こらなかった陝西あたりでは、依然として宋学を墨守[br]
し、新しく学問の入った広東あたりでは地盤もないので、漢宋折衷の陳澧あたりが牛耳を[br]
執った。要するに、既に一度淘汰された注釈を根拠として思想を立てるかぎり、近代思[br]
想としては物足りないこと云うまでもなく、この研究法が一段落を告げたころから新に起[br]

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こったのは、近代国家としての自覚であって、これがために最初にかつがれたものは「公羊春秋」[br]
の如く社会進化論に応ずるものでなければならぬが、更に海外からの影響が日を逐うて[br]
深酷になり、或は富国強兵を説き、或は平民教育を説き、あらゆる部門における革新が堰[br]
を切って落とされ、かくして西洋思想が淊淊として支那に漲ったわけである。[br][brm]
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支那の古代における文藝作品として指を屈すべきものは、いうまでもなく「詩経」と「楚辞」とであ[br]
る。この両者がいずれも韻文であることは、まさに世界の文学史において常に韻文が最古で[br]
あるという道理にはずれないものであって、而かもその両者の詩体が著しく違うことは、たといその韻[br]
律が久しく亡びた後からでも、決して同一の源から流れ出たものでないことを物語るものであ[br]
る。「詩経」は三百篇あるが、その大部分は四言を以て基調とし、極めて整頓した偶数型[br]
の詩であり、中でもいわゆる「国風」には、ややこの型をはずれたものも認められるが、「雅」に至[br]
っては、ことに整頓されている。つまり、「国風」は当時の民謡を蒐集したのであるか[br]
ら、時には拍子や囃子のぐあいもあったであろうが、「雅」になると、多くは士大夫の創作[br]
であって、自然、荘重な趣きを持つわけである。ひとり「頌」、ことにその「周頌」は、ほとんど韻の[br]
さだかでないものもあり、極めて型が違っているが、清の阮元などは、頌とは容であって、舞[br]
容を伴う歌で、自然、曲が悠長であり、韻もはっきり認められないのだ、と云っている。もっと[br]
も「頌」でも「魯頌」「商頌」などは、「雅」とほぼ同様であり、自然、「周頌」とはまったく別個の存[br]
在である。これに反して「楚辞」は、その型式が単数型であり、たとえば「離騒」にしても、[br]

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  帝高陽之苗裔兮 朕皇考曰伯庸[br]
  攝提貞于孟陬兮 惟庚寅吾以降[br]
のように、○○○△○○△という複雑な型式になっていて、これは更に「九歌」の、[br]
  五音紛兮繁会 君欣欣兮楽康[br]
という型式に本づき、即ち○○○△○○を二重にたたんだものであることは推[br]
定できる。すべて音楽における四拍子の型と三拍子の型とは、整斉と複[br]
雑、沈着と活溌というような重要な差別を見るべきもので、これが結局、支[br]
那古代の二大文学作品たる「詩経」と「楚辞」との性格を形づくっている。ことに詩[br]
は大体において、黄河流域の地方を背影にし、たとい十五国風の差はあっても、[br]
要するに、変化に乏しい北支那の風物と、そこに自然とたたかう勤勉な人民生[br]
活をうつしているが、「楚辞」は、かの風景うるわしく天産に恵まれた揚子江沿[br]
岸を舞台とし、生活を離れた奔放な詩想をほしいままにしている。それ故、青[br]
木正兒教授も早く指摘されるように、「詩経」においては、天なり自然なりは恐るべく敬[br]

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うべきものであるが、「楚辞」においては、あらゆる自然現象は人とともに居り、人は天と[br]
ともに楽しむ。たとい「離騒」の如く、窮極にはうれいにかかり、身を汨羅の水に投じて果[br]
てようとも、その歌はあくまで楽しみ、あくまで飾られている。ただあまりにも奔放な[br]
想像を逞しくしてあるため、その中に言わんとすることの核心がつかまえにくく、又、あまり[br]
にも長篇であって、前後の連りもはっきりしない点が多い。〔しかし、「詩経」のように早くから経書に[br]
祭りあげられて、いろいろ教訓的な注釈を加えられないだけ、たとい王逸のごとく、必ず善[br]
鳥香艸は忠貞に配し、悪禽臭物は讒佞(ざんねい)に比するといった趣旨の「章句」がで[br]
きても、その害はなお深くない。〕かの「漢書藝文志」では、詩三百篇はすでに高く経書[br]
としての地位をあたえられているが、「楚辞」は詩賦家の筆頭に、「屈原賦」「唐勒賦」「宋玉賦」[br]
としてあげられる。「藝文志」では賦というものを定義して、不歌而誦ということばを引いて[br]
いるが、つまりその頃の考えかたでは、賦はすべて朗誦すべきもので、音楽にかけるものでは[br]
ないことになっていたらしい。その実、「詩経」にしても、「国風」や「楚辞」にしても「九歌」などはたしかに[br]
歌われたに違いない。ただし、「詩」も春秋時代になると、歌わずに朗誦した話しが[br]

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多く、「楚辞」も「離騒」などは、そういう意味で創作されたと考えても好い。まして「楚辞」[br]
の後をついできた漢以来の賦の如きは、もっぱら朗誦を目的としたものであることは明[br]
きらかで、「藝文志」にも「楚辞」のすぐ後に、賈誼・枚乗・司馬相如などの賦を列記して[br]
いる。これらは勿論、はじめから歌う考はなく、すべて朗誦によって詠歎の心もちを発し、競[br]
うて長篇大作を出した。それ故、前漢末の揚雄の如きは自らその作者でありながら、[br]
遂にこれを批難する口吻をもらし、後世までいくたびか議論の種を蒔いた。しかし、[br]
賦の作者はいよいよ絶えず、はなはだしきは左思の「三都賦」の如く、十年の日子を費し、[br]
家の垣根でも便所でもカードをさげて、一こと思い出したらすぐ書きつけて材料にする[br]
というほど、この賦作と格闘したものも現われ、主題もはじめは都邑とか狩猟とか[br]
いうような壮麗なものに限られていたのに、後には文とか恨とかいう繊細なものにまでその[br]
範囲を弘めた。これらが後の「文選」において、ほぼその三分の一を占める夥しい賦として残[br]
ったもので、しかもそれが「文選」の巻頭から始まっていることは、この体の文学について、如何に[br]
尊重の念を持っていたかを卜することになるであろう。[br][brm]