講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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る、と賛成しているとおり、支那民族の伝統の社会生活乃至家族生活の中から抽象された[br]
倫理であるだけに、その点は表面から反対する理由は毛頭なく、又、その学説がいわゆる六[br]
経、即ち支那民族最古の古典を根拠とし、支那の社会および家族生活上、最も重[br]
要なる仁と義を中心とし、一面からはこの民族の特色たる己から人に及ぼす見かたを立て、一[br]
面からはこの社会の規範となるべき法則よりして個人を律しようとする両面を貫いている[br]
点は、たしかに最も高い道徳の理想に合致するものであろう。ただし、これがあまりにも実践的[br]
であり、又、伝統そのものであることは、思想界の変化が最も烈しい時代には、少からず陳腐に思わ[br]
れたことは疑いもなく、ことに儒の字そのものが、濡や懦の如く、常に柔かいという意味をふくんで[br]
いて、当時の思想界からは、一種旧弊にして優長なる学者として嘲弄されたような心もちを[br]
持つものと云われる。それ故司馬談も、博にして要すくなく、労して功すくない、と述べているし、儒[br]
家に属する学者は、孟子の如き、あれだけ闘争心があっても、どこに行っても用いる君がなかった[br]
と云うことも、よくこの間の消息を伝えるものといえよう。ことに、当時の君主に嫌われたことは、司馬氏[br]
のいうように、人主をば天下の儀表として立てるため、自然、主が倡えて臣が和し、主が先んじて[br]

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臣が随うという風に、主が労して臣が逸するという点にあったと思われるのみならず、一般に[br]
は、多くの古典を学習し、繁瑣な礼法に束縛されるという所から、自然、その内容の穏当な[br]
ことは認められても、急の間に合わないという感じを免かれなかったに相違ない。かくの如く、儒家[br]
の学説が他の諸子と並べあつかわれたのは、曽子または子思以後のことで、「論語」は経[br]
の部に収められている。いわば「論語」に現れた円満な思想が、儒家の中でもそれぞれ分派を[br]
生じ、かの七十弟子といわれた中の曽子や孔子の孫の子思の如く、道徳の内在的方面に沈潜したもの[br]
と、子夏・子游の如く、道徳を外面に示した礼貌方面から著手したものとに分れたらしく、これは[br]
なお自然の分派であり、互に協助するものといってよいが、更に時代が下って、孟子が性善説を唱え、荀子が性悪[br]
説を唱うるに至って、その主張に急なるあまり、鮮明な対立を見せるに至ったことは、即ち当[br]
時の学界の潮流が相当激烈だった影響ではないかと思う。即ち同じ儒家の間である[br]
にもかかわらず、「荀子」では、「非十二子」の中に子思・孟軻を攻撃し、子弓 武内義雄氏云う子游の誤か を推尊して[br]
いることでもよくわかるが、つまり、子思・孟子の主観派と子游・荀子の客観的とが、儒家の[br]
中でさえ、氷炭相容れなかったのである。[br][brm]

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墨家は他の諸家と違って、その学統の祖師である墨翟の名をとって学派の名として[br]
いるほど、ある一定の主張というほどのないもので、「漢志」にも、貴儉・兼愛・上賢・右鬼・非命・上同[br]
の六つをあげてその特質としている。司馬談も特に、未開文化に固執して時代とともに推移でき[br]
ないことを非難しているが、同時に、素朴を守り社会の基礎を強固にする点をあげて、人給家[br]
足の道であるといい、この点だけは他の諸家が及びのつかないものと云うている。「孟子」によれば、[br]
天下の議論は「もし楊に帰せなければ墨に帰する」といい、楊は我が為にするから君をなみ[br]
するものであり、墨は兼ね愛するから父を無(な)みするものであるとまで云っている所を見[br]
れば、相当よく行われたものと思われるが、特に今伝わる「墨子」の中には、論理学や光学[br]
その他、物理的なこと、又、幾何学的なことが見えていて、支那の学者の間では、西洋の自然科[br]
学は、墨家の子弟たちが西に赴いてその術を伝えたものだという位に、極めて斬新なものがあ[br]
る。ただ、これがかかる古書の間に隠れて、これを拡充発達せしめなかったことは惜しむべき限りで[br]
ある。[br][brm]
法家はむしろ政治理論に属するもので、いわゆる信賞必罰によって、国家の綱紀を維[br]

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持しようとするもので、もし国家の紀綱が乱れて振粛を必要とするばあいに、君臣の分を[br]
正し、職域を分って整頓するならば、たしかに一時の計とすることができようが、とかく冷酷に[br]
流れて貴賎・親疎を問わず、専ら法によって処断しようとする結果、長く用いらるべ[br]
きものでないと称せられる。つまりこの派の政治哲学はあくまで冷徹・峻厳であって、李悝・[br]
商鞅・申不害・慎到・韓非などがその代表的学者で、ともかく一時は富国強兵を致し[br]
た実例もあるが、商鞅の如く自分一身が生命を失い、世に「商君の法」とまで云われるの[br]
は、恩厚の点に缺けたからである。[br][brm]
名家は普通に論理学者といわれているが、当時の如く思想家が林立して互に討論を[br]
交わした頃には、いかにして他人の説のあげ足を取り、又、自分の説の妥当性を証明するかと[br]
いう攻防の技術が発達することも当然であって、これが発達は全く文字・言語の遊戯に[br]
さえ落ちんとした。支那語の如き、一字の有する意義がややもすれば茫漠として[br]
曖昧になりやすいものについては、これを技巧的に領導すれば、白を黒といいくるめる道も[br]
考えられるわけである。由来、支那語は一つの概念の中に、これに関係するすべての概念を[br]

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含み得るのであって、仮に易をとっていえば、変易も易であり不易も易であるということ[br]
が成立する。ただ普通のばあいと特種のばあいとを区別すれば区別できるだけのことで、もし[br]
その極端と極端とを結ぶならば、+と-とが等しくなるようになる筈のものである。それ故[br]
その逆を行けば、有名な白馬非馬というように、特種な馬と一般の馬とが同じ文字で表されることを[br]
利用すれば馬は馬に非ずという論理が成立し、本体を示す文字と作用を示す[br]
文字とが同じ形で表現されるとせば、その動的観念と静的観念とが混乱して、目不[br]
見とか火不熱とかいう意想外の結果を生ずる虞れもあろう。支那では古く文字の[br]
ことを「名」といったが、文字と言語と概念とが全く共同するこのことばにおいて、名即ち文字[br]
による概念遊戯が試みられたことも無理ないと思われる。更に、時間の観念を極端に[br]
小さくして「飛鳥之影、未嘗動也」というようなことを考えたり、長さの観念を極端に小さくして[br]
「一尺之捶、日取其半、万世不尽」というようなことを考えたりして、時間空間の問題にも面白[br]
い示唆を与えたことは、今日から見てもよほど形而上学的傾向を持つものである[br]
が、かかる議論があまりに抽象にすぎて、実際的な支那人には更に抽象化した法則を[br]

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導くだけの同情を許さなかったのではないかと思う。[br][brm]
道徳家はすべて消極哲学であるが、なるべく精神を統一し、少によりて多を得、静を以て[br]
動を制せんとするもので、反面から云えば、超積極哲学ともいえる。その始祖老子が「道徳経」五千言[br]
を著したので、これを道家また道徳家というのであるが、そのいわゆる道とは、世の常の道ではな[br]
いといって、相対を捨て、絶対を立てようとする。この絶対の道から見れば、人間界の差別はす[br]
べて仮りの現象にすぎず、この現象よりして絶対に帰するには、高きをさけて卑きにつき、栄[br]
誉をさけて詬弱を守り、強剛を辞して柔弱に就くことを必要とする。というのは、つまり差別を滅却[br]
することが自然に帰着する捷径であるからであろう。老子の後にも、荘子・列子がついで極[br]
めて放胆な想像を以て、是非を一如にした説を述べ、ことに「荘子」はその文章の妙によって、後[br]
世に多くの影響を及ぼした。かの楊朱のごときも、道家の一派として考える人もあり、自己完成[br]
の学説が、自分のためという方向に流れやすいことを示している。[br][brm]
以上六家の外に、「漢志」にあげた従横家は、蘇秦・張儀の外交論策であり、雑家は後の[br]
「呂氏春秋」や「淮南子」の如く、各家の折衷綜合を試みたもので、当然、学派分裂後に起る[br]

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べきものと云える。農家に至っては、神農の道に托して耕桑のことを勧めたもので、「孟子」にも許行[br]
のことが見えているし、小説家は街談巷語で、まとまった学説をなしていない。[br][brm]
更に「漢志」では、兵書として五十三家の書籍を録しているが、これは当時やはり、軍部の職[br]
責に関するものとして、一般の思想とは、区分してあつかわれ、その編輯も、劉向・劉歆の手によ[br]
らずして専門の軍人を煩したことは前にも述べた。その有名なるは、孫・呉の兵法であるが、後[br]
世の如き技術に詳しいものではなくて、抽象的な理論を設けている点が多い。[br][brm]
これらの秦までの諸子の中で、「孟子」の如く今日では経書に列しているものを除き、その他の[br]
ものの中、今日に存在するものは、「荀子」儒、「墨子」墨、「管子」「韓非子」法、「老子」「列子」「荘子」[br]
道、「呂氏春秋」雑、「孫子」「呉子」兵などは著名であり、その他にも、「孔叢子」儒、「慎子」「商子」「鄧析子」[br]
法、「尹文子」「公孫龍子」名、「関尹子」「文子」道、「尸子」「鶡冠子」「燕丹子」雑、「鬼谷子」従横  、[br]
「計然万物録」農、「司馬法」「六韜」兵などの断片が整理されている。「荀子」は唐の楊倞の[br]
注があって、「古逸叢書」にもその宋本を収めてあるが、清朝の中期に諸子の考訂が初まる[br]

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と、乾隆年間に謝墉がこれを挍刊し、また王念孫の「雑志」、劉台拱・郝懿行の「補注」もあり、ことに王先謙[br]
の「集解」は、よく各家の説をまとめている。「墨子」には明板以上のものを聞かず、清朝では畢沅[br]
の挍本が典拠とされ、王念孫の「雑志」もあるが、最後に孫詒譲の「墨子間詁」ができて、これで一応まとめら[br]
れた。「管子」には、鉄琴銅剣楼に伝わった唐の房玄齢注実は宋の尹知章注の北宋[br]
刊本、海源閣に伝わった南宋刊本などの善本があり、清朝では、王念孫の「雑志」、洪頤煊の「義證」、戴[br]
望の「校正」あり、又「地員篇」には王紹蘭の注があり、「弟子職」には荘述祖の「集解」があり、わ[br]
が安井息軒の「纂詁」は、かの地でも有名であり、安井家にはそれが支那に伝わった[br]
時に応宝時が書いた跋文を伝えている。「韓非子」も、宋の乾道本が著名であり、清[br]
朝の嘉慶年間に呉鼒の刻したのは、顧千里がこの乾道本によって挍正したということに[br]
なってる。王先謙には「集解」もあるが、むしろわが太田全斎の「翼毳」を推すべきである。[br]
「老子」には、ふるく王弼と河上公との二種の注を伝えているが、そのいわゆる河上公本は、今の[br]
河北省易州の龍興観に存する景龍碑と、江蘇丹徒県の焦山定慧寺に存[br]
する廣明幢の如き石本をはじめ、わが国にも多数の旧鈔本を伝えているし、王弼本は、[br]

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燉煌出土本をはじめ、道蔵本その他を伝えているが、清朝では、畢沅の「考異」が著明であ[br]
る。「列子」は、晋の張湛注本の北宋刊本が伝えられ、殷敬順の「釈文」と合わせて、汪継培の[br]
湖海楼挍本などがあり、又、盧重元注には、秦恩復の石研斎本がある。「荘子」は晋の郭象[br]
注があって、宋本もあるが、明刊本はかなり多く、清朝では郭慶藩の「集釈」ぐらいのものであ[br]
るが、近年わが高山寺の旧鈔本や燉煌本が景印された。これらの諸子が合刻されたの[br]
は、たとえば道家関係のものが唐以来「道蔵」に収められ、その名も「冲虚至徳真経」「南華[br]
真経」などと改められたのを始め、明には〔吉府の二十家子書本〕、顧春の「世徳堂六子」[br]
〔張登雲の「中立四子集」〕、清では「十子全書」〔「百子全書」および〕浙江書局の「廿二子」が[br]
あり、尤も善本と称せられている。[br][brm]
漢の初めは、かの大戦乱を承けた復興時代にあたったため、政策として法家の学説が多[br]
く勢力を占めたが、或は秦の時代からの遺産であったとも云えよう。その後文帝・景帝のころ[br]
は、戦後の休養が叫ばれたため、自然、黄老の説が尚ばれ、司馬談の如きも道徳を最高のものと称した。黄老とは老子の上に黄帝を加え[br]
て、その学説の古さを誇ったもので、ちょうど周公・孔子の学が堯・舜まで溯るにたいして、更に[br]

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五帝の首まで溯ったものと見える。しかるに武帝が立つと、「公羊春秋」の学者・董仲舒を登[br]
用し、専ら儒家の説によって政治を行うことを規定し、自然、儒家以外の学説は一切禁絶さ[br]
れることになり、かくして儒家の学説は長く国家の教化を司ることになり、一尊の地位を止め[br]
たことは、やがて儒教として国教の首位に居ることになったわけである。董仲舒の根本思想[br]
は天人相関の道理であって、ためにその武帝に上った対策は、天人対策とさえ呼ばれているが、[br]
この思想は実に支那民族の間に深く根をおろした信仰に本づくもので、かかる思想が[br]
教学の中心に在ったことは、自然、この方針の支那民族に対する適合性を示すとと[br]
もに、支那の君主を尊厳にし、その国政を総攬するにも最も好都合であったわけで、その後[br]
とも儒教の地位が揺ぐことはなかった。是において、儒家の伝えた経典の研究は最も重要[br]
なる課題となり、これが漢の経学を堅めた原因と云えるであろう。しかしこれとともに、在来[br]
儒家と霸を争った諸家はすべて蟄伏してしまい、支那の思想界は、一時極めてわ[br]
びしい状況を呈した。やはり武帝のころ、淮南王安の作った「淮南子」は、種種の学説を盛[br]
った雑家の書で、「呂氏春秋」の後を承けたものであるが、これらさえ極めて例の乏しいものに[br]