講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

pageId:050150-2510

かかる間に西洋の医学が支那に伝わり、宣教師で医学を心得ていたものが、或は内廷に[br]
まで進んで医療に従い、或は一般人民の施療にあたった。ことに聖祖の瘧疾が西薬[br]
金鶏納によって平愈したことなどは、いたく天子の信任を増した。かくして外人経営の病[br]
院が支那各地に設立された。[brm]
支那人の生活が農業を基礎とすることは前にも述べたとおりで、神農の説というものがか[br]
かる方面でも標準とされていたことは、神農の名からも推知すべきであり、その道の書物も伝わって[br]
いたらしいが、今知るべきものとしては、後魏の賈思勰の「斉民要術」が最も古く且つ興味[br]
ある資料である。その内容は、耕田・収種・種穀にはじまり、種種の穀菜から果物そ[br]
の他、有用植物・牧畜・養魚から醸造・つけものに至るまで、一切の農産物について[br]
の精密なる記事であり、かねて外国の産物にも及んでいるので、自然、歴代の為政者が[br]
これを重んじて、しばしば刊行され、わが国にも京都高山寺にその宋刊本が伝えられている。[br]
下っては南北宋の間の陳旉の「農書」もあるが、元の王禎の「農書」に至っていろいろ図解[br]
を加え、更に明の徐光啓が「農政全書」を著わし、殊に西洋水利の法を採用して、一新[wr}紀[br]

pageId:050150-2520

元[/wr]を劃した。もとより熊三抜の「泰西水法」をとりこんだものではあるが、当時としては斬新なゆき[br]
かたであったに相違ない。農学は、「四庫提要」にも云うとおり、明の鮑山の「野菜博録」など、動物学・植物学にも関係し、[br]
唐の陸羽の「茶経」以来の茶の研究や、その他飲[br]
膳にも関係し、明の宋応星の「天工開物」のような機具にもおよび、又、崔寔の「四民月令」の如き時令にも及び、又、救荒のために政治・経済にわたりな[br]
どして、影響極めて広いのは、やはり人民生活に至近であるからに相違ない。[br][brm]
支那の建築は古くより発達して、たとえば「文選」に見える賦などが多少誇張しているにもせよ、[br]
偉大なる建築が行われたことは云うまでもなく、ことに美術的な意味をもった宮殿・園囿などに名[br]
作が多く、やがて仏教が伝来すると、塔のごとき特種建築も試みられ、唐人の詩にも、慈恩寺[br]
の塔に上った作が見えるが、偉大なる建築家の名はほとんど残っていない。これはつまり、学と[br]
してでなく技芸の末として考えられ、学者はその作を嘆美するだけで、如何にして作られたかを考えなかったからに相違なく、ただ一つ宋の李誡の「営造法式」が建[br]
築の方法を詳しく書き残したのが、支那としては稀に見る文献である。また明の計成などは[br]
「園冶」を著して造園のことを説いている。かの清朝の円明園は郎世寧の設計であり、[br]
その庭園の噴水は蔣友仁(Michel Benoit)の設計であった。[br][brm]

pageId:050150-2530

支那学における一つの特色は綜合性にあること最初に申述べたとおりであるが、かかる綜[br]
合的性質を如実に示したものとして、秦漢の諸子は一つの特色を持ち、又、「史記」「漢書」以後の[br]
歴史も亦、その独特の地位を持つものである。かかる性質を持った書籍が、子にしても史にしても、[br]
秦漢の際に現れたことは、これに先きだつ支那文化の高次なる発達と、支那帝国の統一的[br]
存在に負うものと考えられる。而してその文化と政治とが天子に帰属し、天子はさらに天命を[br]
以て万方に君臨する以上、かかる文化にはかぎりなき光被性が賦与されているわけで、自[br]
然、雄大なる構想がその間に湧いてくるのも道理である。「史記」が本紀・表・書・世家・列[br]
伝という構想に立つことは前にも説いたが、諸子では「呂氏春秋」が十二紀をたてて、十二月に[br]
よる分類を考えたことは、一つの構想であって、八覧・六論がそれぞれどれほどの立意に[br]
本づくか、今ははっきり知りがたいにもせよ、五行的観念によって一切を包括せんとする心も[br]
ちだけは窺える。「淮南子」はこれに一歩を進めて、「原道」「俶真」から「天文」「地形」「時則」という型[br]
が早くもその萌芽を示している。すべて全体の問題をとりあつかおうとすれば、必ず天[br]
地から考えてゆくのが支那人の常であり、したがって六朝のころに、いわゆる類書として、全[br]

pageId:050150-2540

般の書物のために索引ともなるべき編纂が行われた時も、恐らくはこういう分類の型[br]
が考えられたと思う。類書のはじめは魏の文帝の「皇覧」だといわれるが、明かでなく、六朝にも[br]
「修文殿御覧」というものがあったと云うが、これも伝わらない。ただこれらの名称から見て、天子の参[br]
稽にそなえたものだということがわかる。それが今に伝わっているのは、唐の欧陽詢の「藝文[br]
類聚」、虞世南の「北堂書鈔」、徐堅の「初学記」、白居易の「白氏六帖」などで、当時[br]
の名臣の手に成るものが多いのは、当時の文章が典故を列べた駢体文であったので、こう[br]
いう書物によって、それを嚢中から探ったものと思われる。もっとも今日では、その出所が一[br]
一示されていることから、已に佚した書物を復元する時にも、しばしば利用されている。こ[br]
の類のものでいわば集成されたのは、宋の李昉の「太平御覧」一千巻であって、五十五門[br]
に分かち、一千六百九十種の書物から採用した大著述であった。このころはそういう意味の[br]
大編述が行われた時で、小説を集めた「太平広記」もあり、地理の「太平寰宇記」もあり、[br]
ことに「册府元亀」は歴代君臣の治蹟[br]
を類輯している所に特色を持っている。南宋の王応麟の「玉海」の如きも、その意味か[br]

pageId:050150-2550

ら更に発展して、各項ごとに細かな目をたてて、そこに一切の資料を網羅するしくみ[br]
で、もっとも科学的な方法であった。明には「永楽大典」という尨大な編纂が行われ、歴代の書[br]
籍を、あるいはほとんど全部輯録し、あるいはその中から語句を摘んだりしてあるが、中[br]
に宋ごろの戯文という如き、卑俗と認められるものまで多数に採り入れられていた。しかるに、[br]
この書物はあまりに尨大なため印行ができず写本として保存されたのであるが、特に清[br]
朝で「四庫全書」が編輯された時、この中から夥しい佚書を復元して「四庫」に加えられたこ[br]
とは始めにも述べた。惜しいことに原本が次第に散佚し、ことに北清事変の時に翰林院[br]
におかれてあったので、西洋人に奪われたものも多く、今日ではただそのどの部が存するという[br]
ことが調査されているにすぎない。清朝でも、事がらによって選ばれた「淵鍳類函」や文字[br]
の熟語を集めた「佩文韻府」「駢字類編」などが作られている 「古今図書集成」  。[br][brm]
これと並行して、書物の索引や抜萃でなくして、多数の書物を集めて彙刻する、いわゆる[br]
叢書の編纂も行われた。尤も経における五経・九経・十三経、史における七史・十[br]
七史などの如きくわだては、何れもその特種な例というべきであるが、特に何の書ということ[br]

pageId:050150-2560

を定めぬ叢書としては、宋の兪鼎孫・兪経の「儒学警悟」に始まるといわれるが、[br]
その実これはわずか六種の随筆を彙刻したに止まり、真に叢書の形を具えたものと[br]
しては、左圭の「百川学海」を待つ。これも後世いろいろ編印しなおしたり増補したりした[br]
ものもあるが、およそ十集に分たれ、ある集には専ら詩話をおさめ、ある集には書画論、[br]
ある集には風流韻事というように類集してある。叢書として特に有名なのは元の[br]
陶宗儀の「説郛」で、凡そ一百巻に分たれ、七百数十種という多数の書物を集めて[br]
いるが、その実、その一つ一つは抜萃であって、中にはほとんどその中の一、二の佳句を摘んだに[br]
すぎないものもある。これには続編というものができて、普通あるのは正続を合せたものである。[br][brm]
明になっても、嘉靖・万暦のころから叢書を刻することが流行し、「両京遺編」[nt(050150-2560out01)][br]
「漢魏叢書」「古今逸史」が旧書を輯録するしごとを継続し、「記録彙編」が[br]
史料を網羅し、「鹽邑志林」が地方叢書の源をひらいたようなことがいろいろと行[br]
われたのは、天下太平であって、経済にゆとりのあったお蔭であろう。中にいわゆる「唐[br]
宋叢書」とか「五朝小説」とか「明六十家小説」とかは、いずれも「説郛」の版を利用して、その中の小説的な[wr]部[br]

[050150-2560out01]
陳継儒「宝顔堂秘笈」

pageId:050150-2570

分[/wr]をまとめたもので、「説郛」の影響が如何に大きかったかを見るべき資料ともなる。これ[br]
らの叢書類は、近ごろ「影印元明善本叢書」として複製され、容易に見れな[br]
いものを見ることができるようになったのは喜ぶべきことである。[nt(050150-2570out01)][br][brm]
清朝になって有名なものは曹溶の「学海類編」で、経史子集に分けて、得がたい書物[br]
を彙めておいてくれることもありがたいし、清朝初期の零砕な著述は張潮の「昭代叢[br]
書」にあつめられている。しかし何といっても重要なことは「四庫全書」の編纂であって、そ[br]
の原本は、最初に述べるように鈔写されて七閣に分庋されていて、今もその若[br]
干は儼存しているが、近年しばしば影印のことが問題になりながら、その実現は[br]
全く望みがない。しかもその中の特に珍しいものは、すでに乾隆年間に「武英殿聚珍[br]
版書」として出版されているし、又、近年さらに「四庫」の中で他に伝本がなく重要[br]
なものを選んで、「四庫全書珍本初集」として影印されているので、「四庫全書」全部[br]
を出板する必要はますます乏しくなった。この「四庫全書」の編纂は清朝の[br]
学風に重要な影響を及ぼしたのであるが、それだけに清朝の有用な著述は、む[br]

[050150-2570out01]
明の最後に出でた汲古閣常熟毛氏は、「十三経注疏」「十七史」などを刻して、世に稗くる所大きく、近世文化史に燦然たる光彩を放っているが、その雑叢としての「津逮秘書」は、万暦中の沈士龍・胡震亨の「秘冊彙函」の流れを承け、後の「学津討原」の源をひらいたものとして忘れられない。

pageId:050150-2580

しろ「四庫」以後に出でたものが多い。その意味で近年わが北京の東方文化事業部[br]
で「四庫全書提要」の続編を作ったことは極めて有意義なしごとであるが、その[br]
成果は公表されていないし、できたものは提要だけで、「四庫」の原本はない。もっとも[br]
東方文化事業の図書館には、そういう著述がおびただしく集められている。[br][brm]
こうして単に遊戯的な書籍を集めるとか、自分のこのみで抜萃したものを出すとかいうような所[br]
から躍進して、清朝風の有用な叢書が一時に輩出した。中でも盧見[br]
曽の「雅雨堂叢書」は、数こそ少ないが、有用な書物を精密に挍合したものとし[br]
て、今日もよく利用されるくらいで、当時はたしかに破天荒のものであったと思う。この[br]
盧見曽は、山東徳州の人、両淮鹽運使という肥缺にあたった人物で、多く門下に人材をあつめ、[br]
この叢書もそれらの門流の手に成ったというが、ここに山東曲阜の孔子の後裔たる孔[br]
継涵は、同じく乾隆年間に「微波榭叢書」を刻し、ことに「算経十書」の善本を[br]
出したり、戴震の遺書を合刻したりしている。これにもまして有名なのは、蘇州[br]
の鮑廷博の「知不足齋叢書」であって、この鮑氏は、乾隆帝が「四庫全書」を編纂[br]

pageId:050150-2590

された時に、特に多数の珍本を進呈して御感にあずかり、恩賞をたまわった家がらで、[br]
その進呈した「唐闕史」と「武経総要」には乾隆帝の御題をたまわり、又、「古今図書[br]
集成」一万巻を下賜されている。その中に集められた書物は、多く有用でもあり珍ら[br]
しくもあって、「知不足齋」の名は天下に喧伝した。中にも「孝経孔伝」や「論語義疏」さては岡[br]
田挺之のあつめた「孝経鄭注」などが日本から舶載されてこの叢書に加えられたことは、初めて日[br]
本の支那学が支那に注意された記録といっても好いことで、山井鼎の「七経孟子考文」[br]
や太宰純の「孝経孔伝」が「四庫全書」に著録されたのと相まって、愉快この上もないことで[br]
ある。当時はこういう意味の蔵書の風が大(おおい)にひろまり、ことに江蘇・浙江にはあまたの[br]
蔵書楼がたてられたが、その中最も古いのは、寧波范氏の天一閣であって、四庫を建[br]
てる時にも、この天一閣の建築に效ったと云われる。その外、杭州の汪氏の飛鴻堂など[br]
も有名であったが、ことに蘇州には、その富により文化により、黄丕烈・汪士鐘の如き、宋[br]
元本の集輯に生涯の力を極めた人も現れ、それらの人の集めたテキストが、当時流行の[br]
挍勘学者によりて利用されたのみならず、黄丕烈の如きは「士礼居黄氏叢書」を刻[br]

pageId:050150-2600

して、重要にして貴重なる宋本を覆刻した。士礼居とは、宋の厳州本「儀礼」を珍[br]
蔵していたからで、すべてあまりに宋本を珍重したので、自分も百宋一廛と号し、又人も[br]
これを佞宋とまで称した。又、詞曲の類までも襲蔵の手を伸し、詞山曲海の名にならって、学山海居と称した。[br]
大正年間に京都帝国大学で覆刻された「元槧古今雑劇」の如きも黄氏の故物で[br]
あったという。しかし、かくまで宋本を集めることは容易のわざでなく、遂にその生存[br]
中から、次ぎ次ぎにその尤物が汪士鐘の藝芸書舎に移された。嘉慶ごろの蘇[br]
州の蔵書家といえば、黄丕烈のほか、周錫瓚 香厳 、袁廷檮 壽階 、顧之[br]
逵 抱冲 が数えられたのであるが、それらがほとんど汪士鐘の家に吸収された。かの「儀[br]
礼疏」の宋本を覆刻したのも、この汪氏であった。そしてこの黄・汪二家の蔵書楼[br]
に出入りして、希代の挍勘学者となったのは顧千里その人である。ついでながら、その蔵[br]
書も咸豊の争乱にあって散佚し、多くは、聊城楊氏の海源閣に帰し、あるいは[br]
常熟瞿氏(鏞)の鉄琴銅剣楼に伝わり、その他、丁氏の善本書室・陸氏の皕[br]
宋楼などが天下の蔵書家としてきこえたが、皕宋楼はわが岩崎氏の[wr]静嘉堂[br]