講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
唐時代に発達を極めた短詩型は、そのままでは変化のゆとりに乏しく、ことに声調も一[br]
定していることは、当然の結果として、別に生面をひらこうとする勢を促がし、ここに長短[br]
句をまじえた新しい詩、即ち詞―それが詩から発生したために詩餘ともいう―の発[br]
生となったわけである。しかもその形は当時、もっともよく楽器にかけて演奏された七言絶[br]
句に最もよく似ている所から見ても、その淵源が推測できよう。はじめて詩餘らしい[br]
ものができたのは、李太白・白楽天からだという説もあるが、実は晩唐の温庭筠あたりに至って[br]
確立し、南唐の李後主あたりに至って、押しも押されぬ所まで成長したものらしい。かよう[br]
にいち早く当時の名家が筆を染めたということは、まさしく詩の餘であったからで、されば[br]
こそわりあい早く文学の中に歯されたのである。ただこのころはやはり、詩型としては絶句[br]
といくらも変わらぬものが多く、ただほとんどすべてが小令で、絶句の双畳式になっているだけである。しかるに[br]
北宋に入ると、いわゆる慢詞が盛に創作され、当時の複雑な楽曲に合わせた相当[br]
の長い詞ができ初めた。その初めをなしたものは、張先・柳永耆卿であって、ことに柳の作は、天下いやしく[br]
も井水のある所なら、その詞のきかれない所はないと云われたのは、たしかに音曲の力を借り[br]
たに相違ない。したがって、純粋の意味でいう詩餘の作者は、単に文字だけの文学者で[br]
なくて、実際に歌曲を演奏し、又は自ら作曲できる人物でなければならない。しかし作[br]
曲と作詞とには、自ら天分に差異のあることで、ことに作詞はできても作曲のできない人[br]
は少なくなかろうから、自然、そういう人たちは、既成の譜に合せて新しい詞を作る。而か[br]
もその譜は平入の式がいとも厳重に配列されているので、いわばその式に合うように文[br]
字を埋めてゆくことになる。そこで詞を作ることを塡詞ともいうのである。自然、かくし[br]
て詩の名家が同時に詞の名家となることが多く、蘇軾・黄庭堅のごとき、又、秦観・[br]
賀鑄などの如きも、詞人として伝わっているが、中には自分の作曲もあると云われる。し[br]
かし最も楽曲に長じた作家は、当時朝廷におかれた大晟楽府の提挙であった周[br]
邦彦で、その「清真詞」などは、柳永よりも楽律が厳整であった。これも柳の如く坊間[br]
の流行を呼んだのでなくて、国家の楽官の作であったからであろう。[br][brm]
南宋になってからも、多くの作家が輩出したが、特に音律に詳しく、その「白石道人[br]
歌曲」には自作の曲が多く、而かも一一にその宮調を文字のわきに注してあるのは、まっ[br]
たく他にその例を見ないものである。すべて南宋の詞は周邦彦の影響を蒙り、曲律も細[br]
かく、描写も艶麗であった。元来、詞は詩と違って華麗な詞を出し、纏綿たる情[br]
を画くことを本色としたもので、東坡のように感慨をこめた作などは、いささか見当ちがいで[br]
あるが、しかしそういう一派も長くつづいて、詞の調子を借りて詩の意を現わすものもあったこと[br]
は、やがて詞があまりにも艶麗に陥ることを避けるはたらきをもなしたわけで、南宋の張[br]
炎の「詞源」の如き、詞の批評や楽律を論じた書物にも、浮艶をしりぞけ、清空ということを提[br]
倡している。しかし、詞が清空を尚ぶというようになれば、当然の運命として次第に特定の階[br]
級にのみ愛せられ、一般的な流行や普及から隔絶され、而かも詩型が詩のように簡単[br]
でなくて学びにくいことは、一層早く特殊化して行ったわけで、金から元にかけて、元好問あたりの[br]
如き大家もあり、清朝になっても、朱竹垞・陳其年・王漁洋をはじめ、納蘭成徳・張恵言などの大家が出て、[br]
一時は相当な勢をもりかえしたが、このころはまったく譜を塡めるだけのことで、文字と意境[br]
とはあっても曲調の助けがないため、これ以上に発展する望みは全くないわけで、結局は詩[br]
と同じ運命におかれたのであった。[br][brm]
詩が発達を止めたころから詞が現れたように、詞が発達を止めると曲が現れた。詞といい、曲[br]
といい、はた詩といい、ひとしく“うた”であったが、ただその体裁に変化が起こると、どれかの“うた”と[br]
いう字をもってきてあてはめただけであるが、このたびの変化はおそらく演劇の発展に負う[br]
もので、演劇の如き長時間にわたる演奏に追伴すべき“うた”は、単に一闋として独立[br]
するだけでなく、進んで套数として、いわば編曲できるものでなければならない。しかるに民間[br]
の演劇に根ざした戯曲は、自ら地方色を持つのも当然で、北方には北曲がおこり、南[br]
方には南曲がおこったが、その文学として必要な歌曲の部分はまさに詞に源を仰いで[br]
いるのであって、詞のいくつかを組み合わせた套数が、劇の一幕に応じて活用された。[br]
それ故、曲は詞の餘であるというのである。就中、北曲は元の時代がもっとも隆盛であって、作者[br]
はおおむね大都人であり、その用いた文辞はまったく俗語を使用してかまわないため、[br]
自然、地方語の文学がはじめて大胆に登場したわけで、曲に至って南北の分ができ[br]
ることは、まさしく口語文学であり、地方文学だからであって、従来のように少なくとも文字の[br]
みから云えば、全国共通であった文語文学とは趣を異にした。勿論、詩や詞も[br]
口語を含まぬことはないが、元曲の如く赤裸裸に口語を用い、語法までもこれに準拠[br]
したものが、文学として鑑賞されたことは、支那においては一つの大変化といってよいこと[br]
である。北曲の名作としてやかましいのは[br]
「西廂記」であるが、これは、[br]
他の曲が大抵四折一本であるに対して、実に二十折五本という長篇であり、終始たる[br]
みのない技巧こそ、あっぱれ傑作の名に恥じず、作者王実甫こそは、支那文学の作者[br]
として第一流たるべきものであるが、当時のならいとして、戯曲の作者はあまり世に著名[br]
でなく、わずかに鍾嗣成の「録鬼簿」などによって、その一斑がわかるに過ぎない。この点は、詞[br]
の作者が多く名人であったのと比べて、著しいちがいである。北曲はやがて元の領土の拡張[br]
と共に、杭州までその版図をひろめ、元の末には杭州からも作者を出したが、同時に[br]
このころから北曲が衰えて、南曲がこれに代った。[br][brm]
南曲は、明一代にわたって多くの作者を出したので、明曲とも呼ばれるが、その源はふるく宋[br]
から存在し、南曲の傑作と歌われる「琵琶記」「拜月亭」のごときも、明のごくはじめにできていたよ[br]
うである。しかもその後になって、「琵琶記」のように曲辞の秀でたものと、「拜月亭」のように音[br]
楽によく調和するものとについて、それぞれ好む所について摸擬もし評論もするようになって、自[br]
然、南曲の作者には、曲辞に苦心するものと、音律を考究するものとができた。ことに湯顕[br]
祖の「牡丹亭還魂記」のごときは、たとい舞台で歌うものの喉がねじれてもかまわないという位な[br]
強靱な文辞のつかいかたを敢てし、種種の賛否を捲きおこしたわけである。清朝になっても、[br]
孔尚任の「桃花扇」や洪昉思の「長生殿」などは、やはり傑作というべきで、「長生殿」のごとき[br]
は、今日までも歌として愛誦されている。しかし、その後は次第に衰えて、単に読むための戯曲[br]
は書かれても、真に歌われるものは中中できなくなり、結局これも時代の波の中に姿を[br]
消してしまった。戯曲の評論としては、明の王驥徳の「曲律」をはじめ、清朝では李笠翁の[br]
「閒情偶寄」の中の一部に実際の演劇に伴うものが論ぜられているが、焦循の[br]
「劇説」などになると、むしろ読む方面に注重されているのは、やはり時代の関係からであろう[br]
と思う。[br][brm]
小説に至っては、はじめ民間の娯楽として起こったもので、宋の「京本通俗小説」の如きものがその[wr]代[br]
表的なもの[/wr]であり、語る技巧として神に入ったと思われるが、そういうものが集められたのが有[br]
名な「今古奇観」であって、これは世界的な流行を持った、支那文学としては珍しい記録を[br]
所有している。というのは、やはり文辞的でなくして、技巧的であったから、文辞は国語をか[br]
えるとよほど弱くなるが、技巧は必ずしもそういう弱みを持たぬため、世界に横行したわ[br]
けであるし、その内容も、支那の歴史とさえ十分に結びついていない、ごく国際的な性[br]
質を持っていたからである。これと同時に流行した講談的性質のいわゆる講史は、[br]
支那の歴史的事実とふかいつながりを持ち、それが支那の民心にしみこんでいて、民[br]
間教育にまで応用されていたので、ほとんど支那で最大多数の読者を持ったと思われ[br]
る「三国志演義」をはじめ、「水滸伝」なども、小説における不朽の傑作といえる。ことに「水[br]
滸伝」のごときは、長い語りものの温牀を経てここまで膨脹したため、「三国志」と並んで早く[br]
から文学上の地位が承認され、かの李卓吾の如き、この二書の評本を出し、特に「水滸」[br]
を第五才子書とし、戯曲「西廂記」の第六才子書と相並べて、支那文学の傑作と承[br]
認しているのは、万人の云わんとして云い得なかったことを大胆に言い切ったものとして、溜飲[br]
[050150-2170out01]
[荘・楚・史・杜]
のさがる想いがする[nt(050150-2170out01)]。勿論その内容から見て嚬 すべき一面もあるが、「金瓶梅」のごとき[br]
は、写実小説として早くも近代的な地位を占め、それだけ功罪ともにあるわけであって、これが恐ら[br]
く後の「紅楼夢」を呼びだしたものと思う。「紅楼夢」は、「儒林外史」とともに、清朝における小説界の二大傑作[br]
といってよいのであって、これには旧来の小説の型を抜けだそうと宣言して、はじめから結[br]
末の見えすいたような才子佳人小説を排撃しているが、同時に「金瓶梅」に比べては、要するに一邱の[br]
貉であって、ただ彼が市井の人を写すに対し、此は貴族の家庭をうつし、自然、卑俗[br]
と雅潔の差はあるが、その写実的態度は一である。しかるに「儒林外史」になると、ま[br]
ったくこれと趣を異にし、明代小説の殻をきれいに脱却して、単に写実によって読[br]
者の興味を引きずってゆくばかりでなく、社会の現象について、深刻な共感をその[br]
霊妙な筆さきから呼び出すのであって、かくして小説は楽しむものから教えるものへと[br]
転換したのである。しかも、「水滸」はもとより「金瓶梅」も、折折は賦に近い美文を用[br]
いて人物なり風景なりの描写を試み、かつての語りものの三味線に合わせた歌まじ[br]
りの一段からの遺物をのこしているし、「紅楼夢」に至ってもなおその遺物を伝えてい[br]
るが、「儒林外史」こそは、これをみごとに掃いのけて、真に読本としての小説の地歩を確[br]
立している。かくして小説こそは、他のあらゆる文学が蒸溜されきった後までも、真に社会[br]
に即して栄えたわけであって、こういう地盤あってこそ、西洋から輸入された小説―その中には[br]
曽て「今古奇観」などの刺戟をうけたものさえあるが―を消化して、新しい時代の波を乗[br]
り切ったわけで、又、口語文学のこれまでの貢献なくしては、新しい白話文学を建設する[br]
ことは思いもよらなかったに違いない。[br][brm]
[br]
支那の音楽については、古くから祭祀や宴会と結びついて相当な発達を遂げ、早く打[br]
楽器のほかに管楽器も作られていたことが、「詩経」「楚辞」などによって知られ、それが教化にまで[br]
も利用されるとともに、一面は性情を陶冶するはたらきを認めている。しかし人間の音楽生[br]
活が次第に複雑になると、古代の単純な音楽にあきたらずして、新しい繁声に向かうわ[br]
けで、むかし魏の文侯も、衣冠をつけ、四角ばって古楽をきいていると、倦んで眠りそうにな[br]
るが、鄭衛の音をきけば、面白くて倦むことを知らない、といっているとおり、いかなる世も、[wr]雅[br]
楽[/wr]として固定した音楽は、常に俗楽として賤まれるもののために敗れ去ってしまう。これは[br]
「漢書礼楽志」を見ても、河間献王が蒐集した雅楽は、ただ儀式の時にきまりとして演奏[br]
するだけで、所謂鄭声なるものが朝廷に満ちたさまがはっきり描かれている。この所謂鄭[br]
声を天子にすすめたのは、武帝の佞幸として有名な李延年であって、「新声変曲」という[br]
ものを譜したと云われている。しかるに当時の音楽についての記事の中には、空侯のよ[br]
うな西洋の古代音楽に現れる楽器の名が見えることは、やがて新声とはこれら西域[br]
系統の音曲ではなかったかと思われる。さらに「宋書楽志(一)」を見ると、 ・鼓吹・角の三[br]
種の楽器は、やはり西域系統のものであったらしく、 はつまり笳であって、かの“胡笳十[br]
八拍”というような悲凉な調子は、まさにこの楽器のねいろであろう。而して鼓吹というの[br]
は、むかしの軍楽たる短簫鐃歌であって、漢魏以来の楽章もあまた列記してあるが、[br]
長短句の錯雑したあたりから、たしかに演奏されたに違いない。おそらくこれらが漢[br]
の楽章であるかぎり当時の詩の型とちがっているだけ、その曲も新鮮なものと[br]
想像される。けだし曲に合せた歌詞は、いわゆる声 小字 ・辞 大字 ・艶の別があったに相違ない。[br]