講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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ありさまで、まさに、当時の史家司馬遷が特に「酷吏列伝」を立てたような状勢になったが、[br]
要するに為政者の理想としては、寛厳よろしきを得て、治安の確保と人民の福祉とを目標としたさ[br]
まざまの政策が述べられている。しかし、当時の実際の刑法は、もとより存在せず、「藝文志」の中にも、法家[br]
者流の学説を述べたものはあっても、刑法の條文をあげたものはない。ただ、古書の中に漢律を引いたも[br]
のは多く、たとえば後漢の許慎の「説文解字」にも、漢律を引いたものが多く、後の学者でかかる断[br]
片をあつめた人はいろいろある 汪之昌「青学斎集」漢律遺文 。その後、漢より晋を経て行われた刑法は、程樹徳[br]
氏の「中国法制史」によれば二系にわかれ、一つは南朝の宋斉以来伝えた晋律であり、一つは北[br]
朝の元魏に於て漢律をそのまま用いて、自然、魏晋以後の改正を認めないもので、たとえば、流や徒が[br]
刑名に列せられたり、死罪に斬絞の別があったり、十悪が律に入ってたりしている如き、南朝と同じ[br]
からず、その系統が唐に流れこんだといわれるが、その史料は決して十分とは云えない。因に程氏には「九朝[br]
律考」の名著があって、その方面では第一人者といわねばならない。[br][brm]
これと同時に、支那の政治には、典礼ということも重要な地位を占めるので、天子が宏壮な宮殿を営んだ[br]
のも、帝王の威厳を示して、万民のみならず、八紘を帰服せしめようとするに外ならない。漢の高祖が[br]

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天下を取って、天子の貴いことを知ったと称したのも、その威厳の自ら典礼に存するからで、始めひとし[br]
く卒伍の間から起こって爾汝の交をした将領たちが、君臣の分をわきまえたのも、この典礼によるも[br]
のである。もとより、礼楽によって個人の徳を磨き、団体の調和をとることは、古く唱道されたことである[br]
が、司馬遷も「史記」の八書に、「礼書・楽書」を巻頭に据え、国政の根本として立ててあるのは、たしかに東[br]
洋的な考えかたである。ただ、「礼・楽」二書とも今は伝わらず、前者は「荀子」の「礼論」をとり、後者は「礼記」の[br]
「楽記」をとって補亡してあるにすぎない。「漢書」では礼楽を一つの志に合せて、賈誼、董仲舒、王吉、劉向等の[br]
論奏を採用してあるが、もとより、細かい儀制にはふれていない。しかし、「礼志」では、かの叔孫通がはじ[br]
めて礼制のもといを開いたことが著るしく見えているし、「楽」では、武帝の時に楽府をたて、李延年を以[br]
て協律都尉とし、司馬相如等の詩賦を管絃にかけ、正月の甘泉圜丘の大祭に、童男女七十[br]
人に合唱させ、夜から朝にかけて、神光か流星のように祠壇にとどまり、天子は竹宮から望拜され、[br]
百官の侍祠者数百人、みな粛然として心を動かしたといい、楽官の人数や組織についても、詳細[br]
な記事が見える。と同時に、楽の性質として、いわゆる鄭声の淫なるものに流れるおそれもあり、こ[br]
れを廃せんとしたこともあるが、朝廷の楽官はむしろ楽府系統よりも儀制の方面に属すべき[br]

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で、その後の「礼楽志」も、多くはこの方面のみを説いている。今の「後漢書」には、「礼儀志」の外に「輿服志」[br]
が作られ、一切の典礼に関する細目が事こまかにあげられているのも、制度の完備を物がたるものに外[br]
ならない。「宋書」においては、特に「楽志」が出色であって、音楽に関する最もたしかな記録として、珍重[br]
すべきものと思う。[br][brm]
さらに祭祀に関しても、早く「史記」には「封禅書」が設けられ、当時の信仰としての自然崇拜の儀[br]
礼が事こまかに叙述されているのは面白いことで、これを宗教というよりは、むしろ政治の一端として考[br]
える方が適当かと思われる位である。このことは「舜典」にも、泰山、衡山、華山、恒山、嵩高の[br]
祭りのために巡狩した話しが出ている位で、降って秦が諸侯となっていた時に、白帝のために西畤[br]
以下の祠をおこし、中でも鄜畤(ふじ)の祀は著名であった。又、斉の桓公が泰山に封じ、梁父(りょうふ)に禅した[br]
こともあり、秦より漢へと鉅大な費用を投じてこの祭祀を行い、しかも迷信を利用する方士たちが[br]
その間に出没して、実に複雑多岐を極めたもので、武帝の寵愛したる王夫人が卒した時、少翁と[br]
いうものがその幻を見せて御感にあずかり、文成将軍に拜せられ、しまいには帛書を作って牛に食[br]
わせておき、牛の腹の中に不思議なものがあると申したて、牛を殺して腹をさいたら、奇怪な文字[br]

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が現れた。しかし天子は筆蹟に見おぼえがあって、遂に発覚して殺されたような話がいろいろ[br]
出ている。司馬遷が特に「封禅書」をたてたのも、かかる点に戒むる微意があったのではないかと[br]
思われる。これが「漢書」では、そのまま「郊祀志」に採録されている。その後はこういう状況も冷めて、[br]
「後漢書」以後の「祭祀志」は次第に儀礼化してきたが、「宋書」に至っては、新に「符瑞志」を創め[br]
た。これは従来の「五行志」に輪をかけて、国家の祥瑞をあげたものであるが、これこそ「封禅書」的信[br]
仰が帝位の簒奪と結びついて、種種の仮託を生み、政客の暗中策動の口実となったもので[br]
あるから、王鳴盛の「十七史商榷」では、「五行志」が「洪範五行伝」に本づいて、「春秋左伝」の災異を[br]
並べたて、かねて秦漢以後の事に験を求めているのは、唐以前の各史みな然りで、これはいたし[br]
かたもないが、でも極めていとわしいのに、符瑞の如き、「志」を立つべからざるものまでを志としてあげ、而か[br]
も一代だけで好いものを五帝三王まで溯ってあるのはいとわしい限りだ、と罵っている。[br][brm]
兵制についても、「史記」の「律書」は、半ばは兵を説き、半ばは音楽の律を説いたもので、兵が数〔科学〕による[br]
べきことは、当時の信仰に出づるものであるらしく、王者が事を制するには、一に六律に本[br]
づき、その六律は万物の根本であるが、特に兵械において最も重視すると称している。ただし、[br]

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これは「漢書」にも承けつがれているだけで、後世は次第に分離され、「新唐書」に至ってはじめて「兵志」[br]
というものができている。[br][brm]
支那の制度法典が完備して、而かもそれが相当はっきり今日にも認められるのは、唐であって、唐はそ[br]
の国力の膨脹とともに、広く影響を後世および近接の諸外国に及ぼしている。唐の成文法に[br]
は、律・令・格・式の四種あるといわれているが、律は刑法であり、令は憲法、行政法、民法であり、格は臨[br]
時法であり、式はそれらの細則であるといわれる。又、別に礼があって、宮中より民間までの儀礼を定めてあ[br]
る。唐の法典の中でも著名なものは、高宗の永徽年間に編纂された「永徽律令格式」であって、[br]
これがわが大宝、養老の「律令」の藍本になったものであり、而かも当時早速、法学者を招いて、その注[br]
疏を作らせたのが、今に存する「故唐律疏議」の源流をなすものである。尤も、今の「故唐律疏議」[br]
は、開元の「律疏」であると云う。その後も、玄宗の開元年間にもしばしば律令格式を編纂し、格[br]
に至っては、その後もしばしば続輯され、宣宗の大中年間には、刑律の間に格をはめこんだ「大中刑律[br]
統類」を作り、天下に頒行した。その今に存するものは、「唐律疏議」以外には完全なものはないが、唐[br]
令はわが国の学者が古くからその遺文を拾うことに努め、遂に仁井田陞氏の「唐令拾遺」において、ほぼ[br]

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大成された。なお、令格式などの断片は、燉煌からいろいろ出土しているので、断片ながら実物に接[br]
することも許されている。唐の礼は、幸にも、開元中に作られた「大唐開元礼」一百五十巻が完全に[br]
伝わっている。ことに大切なものは「唐六典」であって、この書も開元年間に作られ、実に十六、七年の[br]
歳月を費して作られたもので、単に唐の制度を要約したのみならず、それまでの沿革まで、手ぎわ好[br]
く叙述されている。その六典と称するのは、即ち「周礼」の六官に本づくこと明かであ[br]
るが、内容は政府の組織によって配列されている。その組織は、いわゆる三師三公の如き理想的[br]
存在は別として、中央官制の重要なものは、三省、六部、一台、九寺、三監、十六衛あり、三[br]
省とは、尚書省・門下省・中書省であるが、就中(なかんずく)、実際の政務を統轄しているのは尚書省[br]
で、尚書左右僕射・左右丞があって、吏・戸・礼・兵・刑・工の六部をすべていた。この六部には、尚書侍郎の下にそれぞれ四の司が設[br]
けられ、郎中・員外郎がこれを司り、吏部は官吏の任免・褒賞・考課[br]
などを掌り、戸部は天下の戸口・賦税・出納など掌り、礼部は礼儀・祭祀・貢挙を掌り、[br]
兵部は武官の任免・武備・駅伝などを掌り、刑部は刑法・徒隷・関禁などを掌り、工部[br]
は営造・漁猟・河渠などを掌った。これらの尚書省は南方にあったので、南省といわれたに対し、[br]

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門下・中書の二省は北にあったので北省といわれ、その門下は左にあったので左省といい、中書は右に[br]
あったので右省といわれた。この事は例えば、杜甫の詩で「奉宿左省」といえば門下省のことで、杜甫[br]
は当時、門下省の左拾遺の官にいたことからすぐ了解できる。この門下・中書二省の権限は、あん[br]
まりはっきり分かれていないが、門下は詔令を覆奏し、中書は詔令を宣奉するといわれ、[br]
門下省の侍中、中書省の中書令が、尚書左右僕射とともに国政を燮理(しょうり)した。[br]
北省では門下侍中の下に、黄門侍郎・給事中があり、中書令の下に、中書侍郎・中[br]
書舎人があり、以下は両省大体同じ官を、門下は左、中書は右として区別している。次に御史台[br]
は、秦の御史大夫を承けた監察官で、長官はやはり御史大夫で、その下は台院〔侍御史〕[br]
、殿院〔殿中侍御史〕、察院〔監察御史〕に分かれていた。九寺とは、太常・光禄・衛尉・宗正・[br]
太僕・大理・鴻臚・司農・太府の九つで、それぞれ卿がその長官である。太常は宗廟の礼[br]
儀を司り、光禄は宮殿門禁のことを司り、衛尉は屯衛を、宗正は宗室を、太僕は輿馬を、[br]
大理は刑獄を、鴻臚は蕃客を、司農は園囿・米穀を、太府は財貨・市易を司った。五監[br]
とは、学問の国子監、百工技巧の少府監、土木の将作監[br]

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であり、十六衛は、左右衛、左右武衛以下の禁衛であった。「六典」にはなお、秘書省と[br]
いうものがあるが、これは中書省から独立した形で秘書図籍を掌り、政治上の関係はない。[br][brm]
地方制度は、唐の初めに天下を十道(関内・河南・河東・河北・山南・隴右・淮南・江南・剣[br]
南・嶺南)に分ち、巡察使または按察使をおき、後には十五道となり、特に辺境には節[br]
度使を置いて、兵馬の大権を授けた。地方の中、京兆・河南・大京の三府だけは、特別のものとして、[br]
牧または尹を長官とし、その他は州を単位として、州ごとに刺史〔時には郡太守〕をおき、州と[br]
道との間にあって、数州を管轄するものを都督府(内地  )または都護府(辺境  )といい、州の下には縣が[br]
あり、縣令がこれを治めた。唐の官吏登用法は、いわゆる選挙であって、これを重視したこ[br]
とは、「選挙志」が「新唐書」に始めて表われたことでもわかるが、およそ出身には三つあって、学館[br]
を経由するものを生徒といい、州縣より貢挙するものを郷貢といい、天子の親しく試みられたも[br]
のを制挙といい、学館は京師の六学〔国子学・大学・四門館・律学・書学・算学〕と二[br]
館〔弘文館・崇文館〕と京都学、以上九つと、府州縣の府学・州学・縣学で、これらのものと、[br]
州縣から貢せられたものとが、礼部で科試をうける。その科目は、秀才、明経、進士、[wr]明[br]

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法[/wr]、明字、明算の六つで、これは即ち、一面、人材の分類ともなるわけで、人人これにむかった結果、唐一代[br]
の学問風気がこれにこれによりて大な影響をうけた。財政においては、かの口分田の制度による租代[br]
調庸の納税は、わが国古代の国家財政組織にも、極めて大きな影響を及ぼしているが、唐代[br]
の中世から、均田は荘園となり、租調庸が両税となり、遂に国家が倒壊するに至った。礼制[br]
としては、吉・凶・軍・賓・嘉の五礼および服制について、詳細なる規定があり、兵制としては、は[br]
じめ府兵の制を置いて、一種徴兵制度を布いたが、後にこれがくずれて、一時彍騎となり、遂に方[br]
鎮の健兒や地方の団兵がこれを担任した。刑法は、名例・衛禁・職制・戸婚・厩庫・[br]
擅典・賊盗・訟・詐偽・雑・捕亡・断獄の十二篇に分ち、罪を犯すものは、笞・杖・徒・[br]
流・死の五刑に処したが、法の精神としては、冤罪を生じないように注意され、道徳を基幹と[br]
したものであるから、民事裁判のみあって、刑事裁判というものがなかったし、なるべく死刑を少なくす[br]
るために、春夏は死刑を行うことは厳禁されたことも、極めて興味ある事実であった。工制に[br]
ついては、別にいうべきこともないが、「六典」の特長としてあらゆる典制に関することが、どこかに示さ[br]
れているので、唐の宮殿の制度などが詳しく示されている。[br][brm]

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