講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
受けて帰納的方法を活用した段玉裁と、史学に不敗の地歩を占めた銭大昕[nt(050150-0510out01)]とが、それ[br]
ぞれの学風を以て対立したことはたしかに一代の偉観であって、曽て北京において銭大昕、[br]
戴震が並び峙った時にもまさるありさまである。それ故、李兆洛もその「説文述誼叙」にお[br]
いて、「説文」ことではあるが、[br]
自分が先師盧抱経に学んだ時、先生は読書には先ず字を識ることが大切であるといわれて、[br]
「説文解字」は最も精密に研究されたが、そのころ銭大昕・江声・段玉裁はすべて、呉郡[br]
に集まり、たえず手紙をやりとりして研究しあっていたが、銭大昕は「引申其義」が得意であり、[br]
江声は墨守し、段玉裁は「攻治其所失」であり、先師は銭大昕を推奨された。[br]
と云っているのは、移して当時の経学の状況を推すことができる。その頃の逸話として興味のあ[br]
ることは、かつて南宋淳熙四年1177に撫州において挍刊されたいわゆる撫本「礼記鄭注」二十巻ならびに[br]
「釈文」四巻が、徐乾学の伝是楼を経て、顧之逵抱冲 の小読書堆に帰したところ、その死後[br]
に之逵の従弟の顧千里が揚州にあって、時の知府、陽城の張敦仁にすすめて影写復刻[br]
させたことがある「釈文」は通志堂本にとりかえた 。その時に張敦仁の名を以て「考異」二巻が作られたのであるが、[br]
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銭坫「論語後録」
実は顧千里の代作であった。この書物ができたのは嘉慶十一年1806のことで、翌十二年1807に段玉裁[br]
が手紙を顧千里に送って、その誤謬を指摘した。それは「礼記」王制に周の学校の制度をとい[br]
て「虞庠、在国之西郊」とあり、「祭義」の鄭注に「四学謂周四郊之虞庠也」とある矛盾について、早く孫志祖が「読書脞録続編」の中で、「西郊」は「四[br]
郊」のあやまりであることを論定しているに対し、顧千里は逆に「四郊」は「西郊」の誤であるといって孫説を抹殺したにたいし、[br]
段玉裁が孫説によって、顧氏を反駁したことに始まるものである。この手紙にたいし、顧氏は[br]
早速書を上って自説を弁じたところ、段氏は一旦採用したらしいが忽ち又「礼記四郊[br]
小学疏證」というものを書いて、猛然逆襲に転じた。顧氏も負けておらず、先生は自分に[br]
不都合のことがあれば、経でも注でも「正義」でもみな誤字だといって棄てられるのは了解しがたい、[br]
と強硬に反対した。しかもこの反対はさらに段玉裁を刺戟して、その返書は激烈を極[br]
め、しまいには朱子の「小学」でも読んで修養したほうが好いとか、「狂趮之人」とか、人身攻撃にま[br]
で発展した。これにたいし顧氏の方も「学制備忘之記」を草して、更に研究をすすめる。[br]
段玉裁は毎日のように手紙をかいて詰問する。しまいに「西」か「四」かは忘れて、問題はそれからそ[br]
れへと発展してとめどもなく、遂には蔵書家の黄丕烈が仲に入って、先生は礼を説くこと[br]
のために争端をひらかれたのもどうかというようなさわぎになって、つまり学問が精密を極めたあ[br]
まりのことである。その他、特色のある学者はさきにあげた盧文弨が博覧をもってきこえ、特[br]
に「羣書拾補」など校讎のことで名だかく、程瑶田は安徽の生れで「通藝録」を著わし、名[br]
物度数のことに通じて一時に盛名を博した[nt(050150-0530out01)]。更に高郵には王念孫が出て、後の揚州学[br]
派の源をひらき[nt(050150-0530out02)]、常州には洪亮吉、孫星衍、さらに張恵言[nt(050150-0530out03)]、臧庸などが生じたが、大[br]
体このころの学者は江蘇にあらずんば安徽の出身であって、概して云えば江蘇の学者は多[br]
く宋学的に見られることを好まなかったらしく、阮元の如き「性命古訓」を作って、宋儒の用語[br]
が経に合わないことを指摘し、いわゆる「その室に入って戈を操る」という態度であったが、安徽[br]
の学者は、あるいは宋の大儒朱子の故郷であったからかも知れないが、江永にしても「近思録[br]
集注」を作り、戴震にしても「孟子字義疏證」を作り、程瑶田にも「論学小記」があるというぐ[br]
あいで、一面はきわめて煩瑣な天文、歴算、音楽の如きことに通ずるとともに、一面は大義を[br]
通論するというような風があった。これに反して、江蘇の学者はあまり通論を好まず、自分の[br]
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金榜「礼箋」、金鶚「求古録礼説」
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王引之「経義述聞」
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「儀礼図」
特殊研究のみを最高級の方法で発表し、あとは学者の追随にまかせるという、いわば最も[br]
老熟の態度をとったのは、やはり文化が最も早く発達していて、古典研究にも深い地盤がで[br]
きていたからに相違ない。[br][brm]
清朝の漢学はこうして精密を極むるに至ったが、これは久しく長江の下流に培われた教養の上[br]
に立ったものであるが、同時にこれが発達を遂げるにつれて、二つの分解作用が起こった。その一つは地方的[br]
分解であって、従来ほとんど経学者を生まなかった地方からも自然、学者が生まれてき[br]
た。たとえば、人材の全くなかった貴州に鄭珍というような精密な学者が出て、「儀礼私箋」の如き著述をし、広東に[br]
漢宋の折衷態度ながら、陳澧の如き相当博洽な学者が出、また山東では孔広森あり「大戴礼記補注」、「春秋公羊通義」、福建にも、それぞれ[br]
若干の学者を出した。まして江蘇では揚州を中心として、塩商の富力による学者の集[br]
団といい、高郵王氏以来の培養といい、幾多の学者を出すことができた。凌廷堪の「礼[br]
経釈例」の如き、汪中の「述学」の如き、焦循の「六経補疏」の如き、劉台拱の「論語駢枝」、その他[br]
の名著が出た[nt(050150-0540out01)]。ことに唐の「五経正義」に代わるべき清朝学者の「正義」が、江蘇、安徽の学者によ[br]
って作られたことは興味のあることで、古くは江声の「[wr]尚書集注音[br]
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阮元「詩書古訓」、阮福「孝経義疏補」
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馬瑞辰「毛詩伝箋通釈」、胡承珙「毛詩後箋」
疏[/wr]」[nt(050150-0540out02)]、孫星衍の「尚書今古文注疏」、邵晋涵の「爾雅正義」ならびに郝懿行の「郭注義疏」、[br]
焦循の「孟子正義」あるいは段門の陳奐の「詩毛氏伝疏」、胡培翬の「儀礼正義」などが相次いで[br]
完成したが、揚州の学者達の間にその他の経について、それぞれ義疏を作る企が起り[nt(050150-0550out01)]、[br]
劉文淇は「左氏伝」を担任し、劉宝楠は「論語」を、陳立(ちんりゅう)は「公羊伝」を担任し[nt(050150-0550out02)]、遂に「春秋公羊[br]
伝義疏」、「論語正義」が前後できあがったが、「左伝」だけは[nt(050150-0550out03)]劉文淇の後、その子毓崧、[br]
孫寿曽、曾孫師培を経てなお完成しない。一方、「周礼」は浙江の孫詒譲の「周礼正義」[br]
ができて、一つの結束を見た[nt(050150-0550out04)]。浙江では黄以周一家の学―「礼書通故」など―、兪樾[nt(050150-0550out05)]など[br]
とともに清朝経学の掉尾を飾った[nt(050150-0550out06)]。一面その分解作用は、単に経典の忠実なる疏解を[br]
いうばかりではなく、たとえば浙江の龔自珍や湖北の魏源の如く、旧来の学問の型にはまらぬ人物[br]
を出し、経学は古典を信奉する態度から、次第に古典を批判する態度にうつり、学説も[br]
漢唐の注疏にあきたらずして、西漢の今文を探らんとするに至り[nt(050150-0550out07)]、皮錫瑞の如き精密[br]
なる今文の学者も現れた[nt(050150-0550out08)]。尤も皮氏の如きは、今文の学説を疏解したわけで、その[br]
[br]
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翟灝(たくこう)「四書考異」、周広業「孟子四考」
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鍾文烝「穀梁経伝補注」
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劉文淇「左伝旧疏考正」
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杭世駿「続礼記集説」
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「羣経平解」
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黄式三「論語後案」
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劉逢祿「春秋公羊経何氏釈例」、皮錫瑞「發墨守疏証、箴膏肓疏証、起廃疾疏証」、「今文尚書考証」、蘇輿「春秋繁露義証」
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「経学通論」
為学の方法は結[br]
局、乾嘉の余風を帯びているが、こういう学風とともに在来の繁瑣な学問がふたたび[br]
反省されて[nt(050150-0560out01)]、直截に傾き批判にむかい、かくして経学は漸く史学や哲学、文学に吸収されんと[br]
する傾向を示してきたことは、最も重要なことである。とは云え、支那における長い経学の[br]
歴史と経の尊信さとは、未だ容易にその位置をくつがえすことはできず、ことに古を尚ぶこ[br]
とに慣れた支那人において、古典を重んずる習慣は勿論相当長く継承されることであ[br]
ろうから、単に歴史的研究としてのみならず、経を如何に把握するかということは、経を史料と考[br]
え、又は思索の拠りどころと考え、また古典文学として鑑賞する以外に、今日以後もその意義を見出して好いことであり、少[br]
くとも支那学における無二の教養として、将来の学者が必ず経由すべき道となるであ[br]
ろう。[br][brm]
[br]
[br]
[br]
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張錫恭「喪服鄭氏学」
支那における小学という学問の分派は、実に往昔の小学において、教科用にあてられた書[br]
籍の総称から始まる。支那の学問は、礼楽射御書数などという分類はあっても、実際[br]
上最も重要視され、自然、普遍的に強制されていたものは書の一門であって、少なくとも一般[br]
の士人の入門としては書を知らずしては立ちゆかない状態であった。「周官」の「保氏」に国子を養って[br]
六書を教えるといってあるのも、その思想のあらわれであり、苟(いやし)くも官庁に就職するほどの人は、必[br]
ず文字の試験を通過しなければならないといわれたのは、それが実用的にも如何に大切であったか[br]
を物がたるものである。それ故、これらの書物の中、最も古いものとして今はその名のみを伝えている[br]
「史籀十五篇」は、「藝文志」によれば、周宣王の時の太史の作ったもので、周時代の史官が学[br]
童に教えた本であると云うが、その文字は後に孔氏の壁中から発見された古文とは体が[br]
違うという。さらに別の系統をなすものとしては、秦の李斯の作った「蒼頡」、趙高の「爰歴」、[br]
胡毌敬(こぶけい)の「博学」などの書は秦篆で書かれていて、史籀篇のいわゆる大篆とはかなり違[br]
うといわれる。漢になると、秦の時の「蒼頡」以下を合せて、六十字一章、凡そ五十五章にまと[br]
め、更に司馬相如の「凡将篇」、史游の「急就篇」、李長の「元尚篇」など、これらの摸擬、又は[br]
続補の書物が続続現われ、前漢末の揚雄が「訓纂篇」を作って「八十九章」に整理し、[br]
さらに班固がその続篇「十三章」を作り、すべて一百三章(?)あるという。この記事は大体「漢書藝[br]
文志」によって述べたものであるが、さすが班固自体がその作者であるからか、記事はとりわけ[br]
明瞭である。ところが、かかる小学の教科用ともいうべきものを司馬相如、揚雄、班固の如き、[br]
当時の有名なる賦の作者で、「文選」の巻頭に轡(たずな)を並べている人たちが、わざわざ編纂した[br]
かと云えば、つまり当時の文学の王座を占めた「賦」はすべて文字を縦横に駆使して、いわゆ[br]
る漢字の効果を十分に発揚した華麗雄渾なものであったため、自然、文字の教養とい[br]
うことが文学意識以上に重んぜられたからであって、しかもその文字たるや、六藝はじめ諸(もろもろ)[br]
の書物に見えたものを理解もし、活用もしなければならないわけであるから、即ち六藝の[br]
附庸として「藝文志」に於て六藝の九類の最後に列せられたのであろう。[br][brm]
そもそも当時の文字はいかなる体裁であるかというに、少くとも班固のいう所によれば、孔氏の壁中[br]
古文と「史籀」の大篆と「蒼頡」の秦篆と、そして後の隸書と、四とおりあったらしく、「説文」の[br]
「叙」では蒼頡 人名 が古文を作った後に、宣王の大史籀が大篆を作ったが、孔子が六経を[br]
書いたり、左丘明「春秋伝」を述べたりした時は、みな古文を沿用した。その後、天下乱れて言語も[br]
声を異にし、文字も形を異にしたところ、秦の始皇帝がこれを統一して、秦文、即ち小篆と合わぬ[br]
ものをやめたが、その小篆とは、「史籀」の大篆を省改したものである、と云っている。これは古文―大篆[br]
―小篆というものに、時代的の変化を考えたものであるが、近世王国維先生はこれにたいし疑問を抱き、[br]
第一大史籀という人名はあやしい、これはその書物の首に四字一句で「大史籀書」とあったの[br]
をとってその書名としたまでで、「籀」とは「読」とか「繇」とか「紬」とかいう文字と一類である、と称する。[br]
ちょうど「蒼頡篇」のはじめに「蒼頡選書」とあって、「蒼頡篇」と称するのに、後世は蒼[br]
頡が作った本だというようになったと同じことである。既に人名として疑うべしとせば、時代は当[br]
然疑うべきで、その残字が「説文」に残っているものを見ると、殷周の古文に近からずして秦刻[br]
石に似ているから、恐くこれは秦の文字 籀文ハ 、即ち周より秦にわたる間に西支那に用いられた文[br]
字で、「説文」に見えている古文、即ち孔子の壁中から出たものは周より秦にわたる東支那の[br]
文字の系統で、つまり史籀とは春秋・戦国の間に秦人が作って学童に教えたもので、東方[br]
には行われなかった。たとい秦は西周の故地だとするも俄にこれを宗周の書と断定でき[br]
ないと云い、近代発見の金文を用いて論定している 「史籀篇疏証序」「戦国時秦用籀文六国用古文説」。これは年[br]
代的の関係を地方的に引き移して説いた新鮮な説であって、古代のこと、その真相は容易に[br]
知りがたいものの、ともかくこれを以て旧説の缺陥を補うことはできる。[br][brm]
すべて以上のいわゆる小学書は、四字若しくは七字を以て一句とし、学童の諷誦に便したもので[br]
あり、その句の間には互に重出した文字のないように編纂されたもので、ただ熟誦するだけで、い[br]
わゆる科学的分類は施されていなかった。然るに前漢の末から古文の経典が重視されるに[br]
至り、単に賦家と小学との密接な関係以外に、古文学者との関係が深く 王国維「両漢古文学家多小学[br]
家説」、つまり経が多く古文で書かれている所から、その解釈には小学の助けを求めざるを得ず、又[br]
その異字は自然に小学の資となったのであって、張敞が「蒼頡」を読んだとともに「左氏」をおさめたり、鼎の銘文をよみわけたりし、[br]
杜林は有名な漆書古文を持ちあるいた人であるが、「蒼頡」「訓纂」などを作り、ことに古文家として[br]
有名な賈逵の門に出でたのが、「説文解字」の著者たる許慎その人であったことも、決して偶[br]
然の事ではない以上、王国維先生説。この「説文解字」は、支那の文字がその形によって分類されたと覚[br]