講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
る位であるから、朱思本の原図にはかかる地理学の影響があったかも知れないが、詳しいことは[br]
わからない。ともかく、朱思本は黄河河源の研究等、当日の地理学に貢献した人物として記憶[br]
されて好い。[br][brm]
明末より清初にかけて、ゼスイット派宣教師が支那に来て、西洋地理学の知識を以て重大なる[br]
影響を及ぼした。即ち利瑪竇(Matteo Ricci)は欧文の世界地図の説明を漢文に訳し万暦十二年1584、(かつてChri[br]
stoforo Clavioについて学んだため)これを支那に弘め、一つには科学によって支那人の注意を[br]
喚起し、布教の方便ともした。果してこの世界地図は、支那各地にわたり非常な勢で伝播さ[br]
れ、欧洲文明東漸の尖兵となった。ここにおいて経緯度の概念が初めて支那に入った。しかし支那の[br]
地図を西法で作りだしたのは、少しおくれて、康熙帝が耶蘇会神父たちに命じて北京附近の地図を作らしめた[br]
ところ、昔の図よりずっとすぐれていたので、四十七年1708に命じて全国の地図を測量せしめた。即ち白晋[br]
(Bouvet)、雷孝思(Reqis)、杜徳美(Jartoux)たちが長城を測量し、以後夥しい人人[br]
の手で康煕五十七年1718にこれを完成した。かくして乾隆の「大清一統輿図」や「皇輿西域図志」[br]
の如きものができて、「大清一統志」(乾隆二1737、嘉慶)と相待って重要なる典拠となった。[br][brm]
これより先き、明末に起った文献学的研究は、あたかも明の滅亡とともに支那の学界を刺戟し、[br]
中でも顧炎武の如きは、今の所謂「地政学」的立場に於て自ら全国を踏査し、「天下郡国[br]
利病書」「肇域志」の如き大著をなしたが、ただし充分に推敲されたものではなく、恐らくはなお稿[br]
本の域を脱せざるものの如くである。後に「天下郡国利病書」は、顧祖禹の「読史方輿紀要」ととも[br]
に行われたが、「肇域志」は未刊のままである。当時、顧炎武の甥の徐乾学が、勅を奉じて「一[br]
統志」を修め、胡渭、黄儀、顧祖禹、閻若璩を延いて分纂せしめたが、その胡渭は「禹貢」の[br]
地理を研究して「禹貢錐指」二十巻を成し、殊に治水の点について深く思いを致した。顧祖禹の「読[br]
史方輿紀要」は歴史地理学の大著述であって、これ亦地政学的な特質を持つものである。これらは[br]
何れも清朝初期の学術と表裏するものであるが〔胡渭の如きは、裴秀の地図学のことも考[br]
えた〕、その後、乾隆・嘉慶に入って学問が純粋の科学的方法に沈潜しはじめたころ、尤も多くの[br]
学者の注意したのは「漢志」及び「水経注」の研究であって、「漢志」は全祖望が早く研究に着手し、[br]
銭大昕がこれについだ。「漢志」について、はじめは郡国その他行政区劃の研究が試みられていたが、[br]
後には水道の研究に傾き、自然「水経注」の研究を促がしたのである。「水経注」も最初は[wr]全[br]
祖望[/wr]がこれに着手したが、溯れば明の朱謀瑋、清の黄儀なども着手したが、全氏は専[br]
らその挍訂につとめたが、書物は光緒中にやっと出版された。これと同時の「水経注」学者は趙一[br]
清であって、全祖望とも親しく、全氏の説もいろいろ採用して「水経注釈」四十巻を作った。この[br]
書物はその死後はじめて刊行されたが、これより先き、戴震もその挍正を試みていたが、その[br]
仕事の最中に四庫館に召出され、たまたま「永楽大典」に引用された「水経注」を見て、これと挍[br]
合してできたのが「戴校水経注」四十巻であり、早く出版された。しかるにその後、趙氏の「水[br]
経注釈」が出版されると、その挍正が全く符合する所あるため、いろいろ疑問が起り、趙氏[br]
の書を出版した梁玉縄などは戴震が趙一清の本を盗んだように疑ったので、戴氏の門人[br]
段玉裁は、先師は決して人の書を盗まぬと抗議したりしたという。これよりさき、「直隷河渠[br]
書」についてもちょうど同じような関係にて、趙氏のやめた後に戴氏が代って自分のしごとのように出版[br]
したこともあるため、どうも評判がわるく、張穆などは趙氏の本が出版されぬまに、戴氏が盗[br]
んだもので、「永楽大典」で挍正したなどとはまっ赤な譃だと結論している。ついでながら、その後に[br]
も「水経」には董祐誠あり(若くして死ぬ)、又近くは王先謙も合挍本を出したが、最も好く研究したのは[wr]楊[br]
守敬[/wr]で「水経注疏」を作る考であったが、遂に完成しなかった。しかし「水経注疏要刪」および「水[br]
経注図」はすでに出版されているが、清朝の水経学は楊守敬に至って完成したといえる。これと相[br]
応じた「漢志」水道のことは、洪頤煊の「漢志水道疏證」があり、近くは陳澧の「漢書地理志水道図説」があり、(その「水経注西南諸水考」と共に)現在の地理に本づいて研究し、相当の[br]
成績をあげた。かくの如く現代の水道を研究した書物も少なくなく、古くは黄宗羲の「今水[br]
経」というものもあるが、これを承けて最も有用なのは斉召南の「水道提綱」であって、かの康煕の内府[br]
地図を利用したものという。極めて精確を宗とし、文学とは道を異にした純科学書というべき[br]
である。又、馬徴麟の「長江図説」の如きは純然たる海軍地理学である。[br][brm]
これよりさき、歴史地理の方面においても、やや杜撰ではあるが、洪亮吉の「補三国疆域志」「東[br]
晋疆域志」「十六国疆域志」のごとき専ら正史の缺を補ったものもあり、その子洪齮孫も[br]
「梁疆域志」を著したが、特に正史の地理志について李兆洛が「歴代地理志韻編」を作ったの[br]
はまさに今日の索引にあたり、さらにその門人六厳の図と李氏の「紀元編」などとともに、「李氏[br]
五種」合刊として世に流布した。その図はまさにかの朱墨套本の法を用いている。この沿革図[br]
に於ても、楊守敬の「歴代輿地沿革険要図」は極めて精細なものであり、「水経注」の研究ととも[br]
に、不朽の名を残したものということができる。[br][brm]
古蹟研究については、古くは朱彝尊の「日下旧聞」があり、これを乾隆帝が増補して「日下旧[br]
聞考」としたのが清朝初年の有名なことであるが、乾隆頃になって畢沅の「関中勝蹟図志」の如き[br]
は、その土地が長い都の蹟であったため、従来たくさんの地志があったのを巧に取捨してこの名著を[br]
なし、材料のとりあつかいも理想的と云われる。これと類似のものには、徐松の「唐両京城坊考」[br]
があって、長安と洛陽とのあらゆる史料を駆使したもので、亦名著と推される。揚州については □所録 [br]
汪中の「広陵通典」があるが、これは史料を彌縫して一篇の雄健なる文章に書きあげたもので、[br]
文学地理とでもいうべき意味の名著である。光緒に入りて、呉汝綸の「深州風土記」の如きも[br]
のも桐城の文を以て行った地理書で、方志の中に異彩を放っている。すべて地方志の編[br]
纂は清朝に最も盛んであって、そのために方志の学が進歩し、その編摩についてもいろいろの[br]
主張が行われたが、章学誠の「永清県志」の如きは、その理想とは必ずしも合致せず、むしろ繆荃孫(びゅうせんそん)[br]
の「光緒順天府志」の如きものが名著と歌われている。[br][brm]
なお乾隆以後は、国威の進展につれて西北地理学が起り、張穆を筆頭に徐松の「西域水道[br]
記」以下の名著があり、沈垚(しんぎょう)に「落帆楼文稿」あり、さらに魏源の如き海外の地理をおさめて「海国[br]
図志」を著し、北辺には何秋濤「朔方備乗」があり、さらに清朝末年には盛昱・李文田「朔方備乗札記」・文廷式・沈曽植・洪鈞「元史訳文證補」の如き学者が輩[br]
出したのは、あたかも辺疆の騒然たる時機にあたるだけ、学者の心をも刺戟したに違いない。[br][brm]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
支那における政治組織が君主中心の原理に本づいている以上、三代の官制も最近世の官制も、[br]
要するに一つの系統であり、殊に支那の政治が理想を古代におき、実際[br]
の要求があってさえ、なるべく因襲的にすましているが、と云って、[br]
その間に自ら時代による変化が生じ、いろいろの点に相違を来したこというまでもない。古代の[br]
記録、ことに「詩」とか「書」とか、あるいは降って「春秋」などに見える職官はさまざまあるが、全体として[br]
中央政府の官制を述べたものは、云うまでもなく「周礼」に始まる。「周礼」は経書と[br]
して高く位置しているのであるが、学者によってはその制作年代に疑問を挟むものもある。それ[br]
は一つには、世に現れた際の状態が明確を缺き、少くとも他の経書のように早くから確実な地位を占め[br]
ていなかったこと、二つには、その内容が微に入り細を穿ち、あまりにも理想的であって、古代に於て[br]
実行しがたいこと、三つには、王莽などがこれを利用してその施政を飾ろうと努めたことが、[br]
却って袈裟までにくむ結果を促したであろうと思うが、むしろ「周礼」の価値は、制度として理[br]
想的であるということに存し、あるいは理想の中にかくまで微細な実際問題を折りこんだ点を[br]
買ってやるべきで、勿論、周公のむかしに実施されたものでもなく、恐らく周公自身のあずかり[br]
知らぬものであったに相違ない。しかし支那の官制は理想が高いことを表榜する以上、[br]
また少くとも周公と結びつけ、「周礼」と称せられるかぎり、後世にあたえた影響は決して少なくない。[br]
この制度はいうまでもなく、天地春夏秋冬の六官に分ち、それぞれ冢宰・司徒・宗伯・司馬・[br]
司寇・司空の六卿が邦治・邦教・邦礼・邦政・邦禁・邦土を分掌するしくみになっているが、漢[br]
が起った時はむしろ秦の制度に因循し、ずっと簡易なものであったことは、「漢書」の「百官公卿表」[br]
を見ても明らかである。即ち百官公卿の首たるべき相国または丞相・太尉・御史大夫をはじ[br]
め、大多数は秦の官なりと注されていて、これがむしろ実際的な制度にかなっていたらしい[nt(050150-1280out01)]。[br]
[br]
今、漢の制度によって見ると、相国乃至丞相は行政長官であり、太尉〔乃至大[br]
司馬〕は軍部にあたり、御史大夫は弾劾を司り、これが重要な大臣になるが、その外に、礼を司[br]
る奉常(①太常)とか、学問を司る博士とか、宮内(禁)を司る郎中令(②光禄勲)とか、刑罰を司る廷尉(⑤大理)とか、外[br]
交を司る典客(⑥大鴻臚)とか、財政を司る治粟内史(⑧大司農)や少府(⑨帝室) 古名 とか、治安を司る中尉とか、皇后・国王の太子づきの[br]
諸官や、営造を司る将作少府とか、山林を司る水衡(書室)都尉などがある[nt(050150-1280out02)]。[br][brm]
[050150-1280out01]
太尉 将軍 僕射 衛尉 御史大夫―大夫
[050150-1280out02]
漢 九卿制度 ③中大夫令(衛尉) 屯衛 ④大僕 掌輿馬 ⑦宗正(宗伯) 親属
地方は、諸侯王の領地である国と、政府に直属する郡とに分かれてい[br]
て、大体、中央政府を縮めた形になっている。「後漢書」に至って始めて「百官志」を立てているが、[br]
「漢書」が武帝時代の膨脹政策を反映しているに対し、光武以来の緊縮政策[br]
による制度を掲げている。尤も、かかる正史に見えたもの以外に、種々の制度がさまざまの典籍[br]
に見えていることが多いので、これをまとめて研究し、または資料をまとめたものは、宋の王応麟の[br]
「漢制考」あり、徐天麟の「西漢会要」「東漢会要」などがある。以上の漢制は、単に実際行[br]
政上の人員およびその沿革を表解したにとどまり、未だ法典たるべきものではなく、むしろ「周礼」の如[br]
き、法典的性質を持つものとは同日の談ではない。その点は、「漢律」が具体的な法典として成立[br]
していたのにさえ及ばない。[br]
これに反して、実際に使用もされ、又、法典としての規模を備えたものは、ほとんど唐の「大唐六典」を[br]
待たねばならない。[br][brm]
これよりさき、刑法に関することは、その性質上、世界各国とも、最も早く発達すべきものであって、現に[br]
「尚書」にも「呂刑」の如き刑法を述べた篇があり、その言い伝えによれば、呂侯というものが、天子の司寇を[br]
拜命した際に、穆王の命により、夏の禹王の贖刑の法を訓えたということになっており、墨・劓・剕・宮・[br]
大辟の五刑属三千と号しているが、そういう思想は「舜典」の中にも現われていて、厳重な刑法の[br]
記載とともに、それを実施するばあいの寛大なとりあつかいとが論ぜられているし、「左伝」に見える[br]
子産の〔刑書を鋳る〕物がたりによっても、刑を重要なる国政の要素としたことは明かである。それ故「周礼」の[br]
中でも、「秋官司寇」の職は、刑律と外交とを以て一官として、これを秋に属したものは、秋霜烈日にた[br]
とえたに相違ない。漢以後に及んでも、刑の重要性はますます昮まるわけで、[br]
「漢書」に至っては、特に「刑法志」を立てて、〔兵のことと共に〕詳かにその沿革と実情[br]
とを述べ、ことに漢のはじめ、高祖がはじめて入関したとき法三章を約し、「殺人者死、傷人及盗抵[br]
罪」という簡易に従って、兆民大いに説んだが、しかし国家の安定するとともに、漸く複雑に趣き、[br]
相国蕭何は秦の法を取捨して法九章を作ったが、その後も刑罰はその数も少なく、文帝の[br]
如きは、肉刑を廃するという仁政を行った。しかるに武帝に至り、国家の発展とともに、いろいろ[br]
刑罰の問題も複雑となり、律令三百五十九章、大辟四百九條、千八百八十二事、死罪[br]
決事比万三千四百七十二事に上り、文書は几閣に盈ち、典者あまねく目を通し得ないという[br]