講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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唐における政書として特に注目すべきものは、杜佑の「通典」であって、この書物は貞元十七年801に成っ[br]
たが、その著作には前後三十餘年を費やしたといわれる。尤も、この書に先きんじて開元の末に、劉秩と[br]
いうものが「政典」三十五巻を著わし、杜佑はこれに刺戟されて「通典」二百巻を作ったという。杜佑は唐の徳宗・順[br]
宗・憲宗三代の宰相であったが、この書はいわば正史の「志」を独立して通史の体としたものであって、一種の文化史であるが、その食貨・選挙・職官・礼・楽・刑・州郡・辺防と[br]
いう編纂の方法を用いた所を見ても、この書の目のつけ所を知ることができる。特にその文化史的観[br]
念が、世と異っていたことは、夙(つと)に宋の朱子や王応麟以来注意されたことで、又、そのためにいろいろ[br]
の批評もあるが、中でも、支那の古礼には野蛮人の風習が残っていて、祭祀に尸を立てたり、人を[br]
殉葬したり、毛を喰い、血を飲み、巣居穴処したり、葬るに封せず樹せず、手でまるめた飯をく[br]
い、同姓をめとり、名を諱まぬ等はみな後世の進化に及ばないと云ったことは、即ち支那が周囲[br]
の蛮夷に比べて文化が進歩した所以を解明したものであって、その点、徒に先王の礼に固執して、[br]
その中に弊あり利あることを忘れている腐儒の到底及びがたき所で、杜佑にありては、経は一つ[br]
の土俗的史料であって、信仰の対象ではなかったのである。このことは内藤湖南先生が夙に[br]
表章された所で、昭和六年1931、御講書始には、このことを進講された 「支那学」六‐二。「狩野教授還暦記念」。[br]

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 宋になっても「重詳定刑統」即「宋刑統」があり、又「慶元條法事類」があり、いろいろの政書も[br]
作られ、「通典」につぐものとしては、鄭樵の「通志」と馬端臨の「文献通考」ができたが、前者[br]
は通史としての大規模な計画であったが、結局裁制に足らず、ただ考史の学にして、実際[br]
の政治には益がなく、後者も策学〔考試の策論用〕のためのもので、類書に近づいた嫌いはあるが、史料は極めて豊富である。以上を合せて「三通」といい、後に「九通」と称する。なお政[br]
書として扱うべきではないかも知れないが、王応麟の「玉海」は、辞学の書物で、故事をひき出すためのものであるが、一面[br]
極めて斬新な文献的研究法を行った名著であるが、当時の史料を保存整理した点に於て[br]
しばしば利用される。いわゆる会要も、「唐会要」「五代会要」は宋の王溥と李攸(りしゅう)の撰であり、「宋[br]
朝事実」は宋の李攸の撰であるが、「宋会要」は清の徐松の輯めたもので、近年はじめてその[br]
稿本から景印された。[br][brm]
元にて有名なものは、「大元聖政国朝典章」六十巻いわゆる「元典章」であって、それが元らしく[br]
一種の白話文で書かれていることは興味のあることである。その内容も、この極めて特異な朝代の[br]
制度として、ことに蒙古人が色目人・漢人などを待遇したやりかたが、後の清朝の制度の藍本[br]
とされている。[br][brm]

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明の制度は「大明会典」に示され、刑法も「大明律」が残っていて、その研究はわが徳川時代の学者の[br]
課題にもなり、「大明令」も残っているが、清朝は正にこれを継承し、「大清会典」が、康煕・雍正・乾隆・嘉慶・光緒と五回[br]
にわたって編輯され、溯っては「唐六典」の旧を襲ぐものであるが、それともに各部院の則例が夥[br]
しく作られ、又、嘉慶・光緒の「会典」には事例や図が附録され[br]
ているし、礼については「大清通礼」が少くとも乾隆・道光の二種あり、「大清律例」も、順治・康煕・雍正・乾隆・嘉慶・[br]
同治等の勅撰本がある。右の中の則例は、いわば会典を綱とすればその目にあたるものであって、[br]
会典を憲法とすれば則例は法律にあたるもので、則例は一時の必要に応じて制定され、[br]
それが永久動かないほど重大であると、次の会典編纂の時に会典の中にふくまれ、又は、一[br]
時会典の規定を中止して、則例によって代用されることもある。これと同じく律は永久不変の[br]
根本法であり、例は時によって変通できる。元来、唐の宰相にあたる官は、さきにも云うように、尚書とか中書とかいうが、これは漢時代には、いわば天子の秘書官にたいする官名にすぎなかった。それが後世になると宰相となった。さらに唐の末に枢密使が設けられてから、中書・門下の権限が枢密に移り、五代を経て宋・金には、枢密使が兵事を掌り、宰相と分立し、これを両府といった。元の時には、中書省が軍国のことを総轄したが、明の太祖が胡維庸を誅した後に中書省を廃しておかずに、すべて六部が天子に直属したが、かくては天子がその煩にたえないので、永楽中に内閣ができた[nt(050150-1430out01)]。これが中書省の復活と同じことになった。その後、天子が旨を太監に授けられたので、その太監が専横を極めて内閣を凌いだのは、ちょうど唐の枢密使と同じようになった。清朝は、宦官が政治に手を入れることを禁じたので、内閣が必要になった。しかし内閣は責任制ではなく、単に国政全般につき天子の指令を伝えるだけのものにすぎない。清朝の官制は明に倣って内閣大学士[br]
を首班とし、満漢各二人の合議制になっているが、後に軍機処ができてから、その権限[br]
はまったく軍機大臣の手に移った。これは雍正年間に兵を西北両路に用いた時、内閣は太[br]
和門外にあって、機密を漏洩する虞があったので、隆宗門内に軍需房という局を設けて、[br]

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大学士

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内閣、中書の中から謹密なるものを選んで入直させたところ、天子に近いため、自然に権力を[br]
おさめたのである。内閣の下には行政官庁としての六部は、唐制とかわりなく、ただその中の司には相[br]
当の異同がある。さらに咸豊十年1860には総理各国事務衙門ができて、外交・貿易・関税[br]
ならびに公使・領事の任免を掌ったのであるが、軍機処的な性質をもって権限が強大となった[br]
に対し、遂に光緒二十七年1901には改めて外務部とし、新設部ではあるがその地位は六部の上[br]
に立った。又、商務部・学部も一時設けられた。六部の外には、理藩院・都察院・翰林院・大理[br]
寺および国子監があり、これに内廷関係の宗人府・内務府・欽天監・太常寺・太僕寺・鴻臚寺・[br]
太医院を加えれば、中央官庁はほぼこれに尽きる。[br][brm]
地方制度は、はじめ元の時に天下を一統すると共に、全国に行中書省を設け、その下に路・[br]
州・縣をおき、大体中央政府の直接監督をうけず、地方行政を行った。今支那の某省とい[br]
うのはその名残である。明の初めにも行中書省を置いたが、洪武九年1376にやめて左右布政使[br]
を設けたが、実質は行省と同じで、官としては侍郎から布政使となり、布政使(藩司)から尚書とな[br]
るのが常で、明には十三の承宣布政使司を設けた両京と東三省をのぞく。なお、布政使と並んで各省に[br]

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提刑按察使および都指揮使をおき、三者鼎立していたが、その下には道があってそれぞれの[br]
事務を監督した。清朝では都指揮使を廃し、布・按の二司をおいたが、更に明時代に臨[br]
時設けられた総督、巡撫を常任官としたが、各地の中で、督・撫をともに設けたのは陝西、江蘇・[br]
安徽・江西、湖南・湖北、雲南・貴州、浙江、広東・広西の十一省で、江蘇・安徽・江西の各[br]
巡撫を両江総督が統轄し、湖北・湖南の巡撫は湖広総督が総轄し、雲南・貴[br]
州は雲貴総督、広東・広西には両広総督があった。また陝西には陝甘総督あり、[br]
浙江には閩浙総督あり、六総督十一巡撫ということになるが、清朝末には相当改廃を[br]
加えた。督・撫以外に全省の職務にあたるものは、布政使・按察使および督糧道・塩[br]
茶道など各特定の道官で、その下には府・州・縣をおいた。清朝末年には、地方と外国[br]
との関係が頻繁になったので、直隷総督は北洋大臣を、両江総督は南洋大臣を兼ね、[br]
それぞれ北洋水師・南洋水師をすべた。北洋水師は日清戦争で全滅したが、直隷総督[br]
は依然として北洋大臣を称した。[br][brm]
文官出身の途は正途と偏途とあり、正途には科目を第一とし、郷試・会試・殿試の三つ[br]

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のいわゆる科挙を経由する。はじめ童生が縣や府の試験を経て、学政の試験に及第する[br]
と、これを生員(秀才)といい、生員は郷試に応じて挙人となり、挙人は会試および殿試に[br]
応じて進士となる。郷試は各省で行い、会試は北京で、殿試は太和殿において皇帝[br]
親臨を以て行われる。殿試合格の進士の中、一甲一名を状元といい、翰林院修撰をさずけ、二[br]
名を榜眼といい、三名を探花といい、翰林編修を授けられ、その餘は翰林庶吉士、六部主[br]
事、または知縣に任用される。[br][brm]
以上の如き正式の職官乃至制度の書物の外に、政治に関する掌故を雑記した著述も少[br]
なからず、又、一般の随筆の中にも散見している。〔たとえば宋の沈括の「夢渓筆談」にも、その始めには[br]
「故事」と題して朝廷の掌故をあげ、明には餘継登の「典故紀聞」などあり、ことに〕清朝にはその[br]
数多く、法式善の「清秘述聞」「槐庁載筆」、礼親王の「嘯亭雑録」、呉振棫石梁の「養[br]
吉斎叢録」、陳康祺の「郎潜紀聞」など、博雅の談柄に資すべきものが多く、〔或は地[br]
理というのが適当かも知れないが、北京の内外にかけて、名所古蹟とともに掌故をあげた震[br]
鈞の「天咫偶聞」の如き、文章から云っても捨てがたい。〕[br][brm]

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支那の政治に於て、人民の生活を安定させることは、極めて重要な項目になっていることは、「洪[br]
範」の「八政」でも、「一に曰く食、二に曰く貨」とあり、孔子も「先づ食を足す」と云っているからして、経済[br]
問題のことは食貨ということばで代表されている。これは支那の実際的政治家が、富国強[br]
兵を策するばあいには、尤も重視したことであり、かの管仲が斉の桓公に事えて、これを五霸の[br]
筆頭たらしめたのも、その「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る。」という根本[br]
方針に本いているに違いない。しかし、この経済問題をとりあげて一篇としたのは、司馬遷の「史記」[br]
の「平準書」に始まり、ついで「漢書」には、これを承けて「食貨志」の名を立てた。これは武帝時代に[br]
国家の膨脹とともに、経済界が著しく発達し、自然、従来とかく圧迫を加えられがちの商[br]
工業者が大手を振って歩くようになったからで、はじめ高祖の時代は、天下大乱の後とて、米一石が[br]
万銭、馬一匹が百金という暴騰ぶりであったので、高祖は商人が絹をきたり、車に乗ったり[br]
することを禁じ、重税を課してこれを抑えたが、孝恵・呂后の時になって天下が治まったので、商[br]
人をやや解放したが、しかし子孫はやはり仕宦して吏となることを許さなかった。文帝の時にはじめて物価に即応して半[br]
両銭 四銖なり を鑄、人民が随意に鑄造することを許したので、呉王などは銅山によって銭を[br]

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鑄て、遂に呉楚七国の乱をおこすほどの力を貯え、鄧通なども盛に銭を鑄て金をたくわえ[br]
たので、再びその禁制を発布した。この頃は漢の国力の最も富んだころで、いたる所物資[br]
が豊かであり、京師の銭は巨万をかさねたが、銭さしの縄が切れて数えることができなかっ[br]
たり、太倉の粟があんまり積みあげられて、遂に外に露積し、腐敗して食えないほどになって[br]
しまったりした。かくして奢侈の風もおこり、人民の間に成金(なりきん)もできて、その宮室・輿服は上を[br]
僣するに至った。ちょうどこの頃から、辺境の経営が始まり、国家の財政はふたたび困難に[br]
なり、政治も次第に金次第となり、遂に経済界から政治界に現れる人物を生じた。即ち東[br]
郭咸陽、孔僅が大農丞となって塩鉄の事を掌り、桑弘羊が計算によりて侍中(用事?)〔以[br]
計算用事侍中の臣〕となったが、咸陽は斉の大煮塩であり、孔僅は南陽の大冶であっ[br]
たことは、当時の重要な産業は塩と鉄であったことを証明する。また、弘羊は洛陽[br]
の商人の子であったが、心計に巧みなため、年十三にして侍中となったのであるが、この三人のや[br]
ることは極めて細かく、利益を搾る方法であったという。而してその政策として実行されたの[br]
が、鉄器の製造や煮塩のことを禁じて政府の専売とし、自然これらの商売のものは吏に[br]

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任用するということになって、官紀も紊乱を見た。かくして商人の跋扈を見たので、再び算緡[br]
銭即ち営業税     を重くして之を抑えたので、富豪はみな収入を隠して脱税をはかった。そ[br]
こでさらにこれを告発することを奨励したため、商家は非常な打撃をうけた。さらに桑弘羊[br]
の献策によって、大農の属官が郡国に出で物資をあつめ、これを公定価格によって朝廷[br]
から売り出すということを試み、かくして富商も大利を貪る餘地がなくなり、物資も暴[br]
騰を免れることとし、これを“平準”の法と称したわけである。とは云え、これは理想にすぎずして、官製[br]
の品物は粗悪であり、価も高く、船車の課税によって物資の運搬が円滑を缺いたため、[br]
結果としてはやはり物価騰貴を見るに至った。その後この塩鉄の専売や平準法をめぐる[br]
論争がしばしば朝廷にくりかえされ、制度もしばしば変更されたが、この論争がかの桓寬の「塩鉄[br]
論」にまとめられ、支那における経済政策の資料として宝貴されている。「漢書」の「食貨志」はそ[br]
の名の如く、食と貨の二部にわかれ、貨においては、「平準書」によって、経済政策とその実行の得[br]
失を述べているが、食については、専ら農業政策乃至田制について詳述してある。元来、井田[br]
の制度は孟子の力説する所であるが、戦乱の際には実行困難であり、魏の李悝の如きは、地[br]

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力をつくすという増産政策をたてたこともあり、秦では商鞅の法を用いて、阡陌をひらき耕戦の[br]
法を考えたが、三国の魏においても屯田の法が行われ、兵を農に寓するとい[br]
う政策が多く採用されたが、晋の統一とともに占田・課田の法を設けて、政府の屯田地を人民[br]
に分配するように試みたらしいが、やがて争乱相つぎ、果してどれだけ実行されたかもわからない。ここ[br]
に北朝の後魏孝文帝は、多くの文化政策を採用した進歩的君主であったが、やはり土[br]
地国有の精神によって均田法を実施し、これが北斉・北周・隋を経て、唐の田制の源を[br]
ひらいたことは、やがてわが国上古の田制にも影響したものとして注意を要する。[br][brm]
南北朝を統一した隋の文帝は、国力を休養することを努めたので、その経済状態はよく安定[br]
を見たが、次の煬帝に至って豪奢を極めたため、遂にその国を亡ぼしたが、ただその残した事業と[br]
して大運河の開鑿は支那の交通政策の上に重大な貢献をなしたのも面白いことである。[br][brm]
唐はそのはじめには、前述の如く均田法を採用して国力を養ったが、均田法は戸籍の厳正が生[br]
命であるため、なかなか実行は困難であった上に、玄宗の時に安禄山の大乱が突発して、[br]
まったくこの制度が崩壊し、有力者は荘園を占有して、大地主があちこちに出来、[wr]私[br]