講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
ここに今、大まかということばを用いたが、このことばは又支那文化のある様相を捕えるに必要なも[br]
のであって、われわれが始めて支那人に接した茫洋たる印象、又それよりも支那の土地における、[br]
所謂地大物博という通り、ことばのみでもその大概を卜することができる。尨大なものが、細部[br]
まで神経質に行かないことは理の当然であって、支那の学術にどことなく、神経の弛緩した点[br]
を発見するのは決して偶然ではない。これと同時に、その大きなものは動作が緩慢になり易い[br]
道理により、支那の学問は相当の停滞性を持つものと評価される。これには勿論、種種の原[br]
因が考えられることで、たとえば先きにあげた社会の安定ということの如きは、まさに文化の停滞[br]
を促がす絶好の条件であること、試(こころみ)に最近における支那社会の動揺が文化の[br]
急速な展開を促がし、その動揺が深刻なるあまり、展開も亦常識を外れていたことを見るならば、容易に[br]
証明できよう。[nt(050150-0110out01)]清朝までの読書人は、その漢字を駆使する能力により、古人[br]
を友とする特権を持ったのみか、その社会人としての地位も安全に保証されていたため、専ら古[br]
をたっとび、習慣を重んじ、而かもこれを改めんとすることを極度に嫌悪した。読書人とはいえな[br]
いが、清朝最後の専制君主として豪奢を極めた西太后の如き、支那における孝道の[br]
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動静 文化の歴史の長短
尊重に乗じて、あらゆる改新の主張を弾圧してかえりみず、結局、その祖先の廟を荒[br]
廃する時を早めた。これは大なり小なりあらゆる家庭に行われていた事実で、西太后の物語[br]
も「紅楼夢」の賈母と考えれば好いわけである。かかる雰囲気において、長い伝統を守りおう[br]
せた支那社会が、学問の停滞性を生じないはずはない[nt(050150-0120out01)]。しかしその所謂停滞性は、一面には、[br]
外国文化の刺戟を受ける機会に乏しかったからという原因も考えられることであり、勿論、[br]
支那文化の及ぶ範囲は古くから外国文化との交渉もあり、天文学や仏教など外国[br]
の文物が支那に流入し、又、その文化を牽制し影響した事例は枚挙に暇ないくらいであ[br]
り、唐の長安の如き、当時の支那文化圏の中心でありながら、西から来た文化が大手を[br]
振って濶歩していたさまを知ることができる。しかし、これらの文化は大体支那人の生活を[br]
豊富にする役に立ち、かれらの土産ものとして珍重もし愛玩もしたが、支那人の文化[br]
を奪い、その位置を脅(おびやか)すような虞れはなかった。それは、時勢もなお緊張せず東西の交[br]
通も容易でなかった時代のこと故、そのものの価値の問題よりも、その土地における過去の地[br]
盤が牢乎として失われなかったからである。しかるに清朝末年以来の西洋文化は、これとま[br]
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ポオル・ヴァレリイの支那説(高橋廣江「文化と風土」、三三三頁)羅針盤ヲ発明シナガラ磁力ノ科学マデユカズ、探検隊モ出サズ、火薬ヲ発明シナガラ化学ヲ研究シ大砲ヲ作ラズニ花火ニシテシマフ ハヨーロッパ人ニワカラナイ「印刷」「羅針盤、火薬」
ったく性質を異にし、直ちに支那文化の缺陥を衝いてその位置を奪うものであって、その一面に[br]
おいて到底抵抗できないことを喩るとともに、支那文化に対する絶対的尊信に大きなひびが[br]
入ったわけである。支那では元来、その文化の光被するところをすべて、その国土と考え、而かもその文化[br]
が当時は周囲の民族に比して著しく優位にあったために、多数の民族が、政治的覊絆(きはん)は[br]
ともかくとして、星辰の北斗に向う如くこれを尊崇しこれに朝貢した。支那ではこれを天下と称し[br]
て、その文化圏をすべて領域と考えた。従ってその他に別の文化圏あることも考えず、自然、自分[br]
と対等なるべき国家、乃至天下が他に存在しようとは考えてなかった。しかるに、近世に至って、西洋[br]
諸国が支那と対等なる条約を結んだことは、支那の数千年の誇りを一擲したものとして重要[br]
な意味を持つものであり、支那文化の再検討も必要になり、支那学にも重大な変化が求めら[br]
れたわけである。[br][brm]
曽ての支那文化は、ひとり東洋諸国に及んだのみならず、遠くヨーロッパ、特にフランスに伝わり、文[br]
学、美術の方面においてルイ十四世時代に巨大なる影響を及ぼしたことは著名な事実である[br]
が、こうして大きな反省を要求されるや従来の賛辞や尊敬が俄にその影をひそめ、これと共に[br]
支那文化に対する侮蔑なり少なくとも憐憫なりが加えられ、而かもその極は絶望の声すらもきかれ[br]
る 林語堂「我国与我民」 。又その一つの辯解として、支那文化は古代において発展して、早く衰頽の域に[br]
入ったので、その間に西洋文化が発生し―支那文化のおかげにて―常に優秀の地を占めたとい[br]
う考えかたも起る。従って、支那の文化は単に古代研究によってのみ知られるという考えかたとなり、[br]
丁文江の指摘する如く、グラネ教授が古代支那の研究をそのまま「支那文明」と名(なづ)けたようなこ[br]
とは、ひとり西洋のみならず、わが国にもその例に乏しくない。しかし、果して支那文化は古代以後発[br]
達しないであろうか。支那学の範囲は大体古代に限定されるべきものであろうか。私はこの点[br]
についてむしろ反対の意見を持つものであって、支那文化はたえず発展し、支那学もたえず[br]
発達して来たことを確信するもので、ただ前述の如く支那文化に内在せる停滞性は十分に[br]
承認しなければならない。余がこの講義にたいして「支那学の発達」と題したのも、正にこの主張を[br]
表明したに外ならない。[br][brm]
[br]
[br]
支那学が、過去において如何なる発展を遂げ、又将来如何にして近代化した学術と歩[br]
調を合せてゆくかということを考える根本史料は、申すまでもなく支那人自身が書き残[br]
した文字によって知るべきであり、その文字を数限りもなく並べた書籍こそ、われわれが支那[br]
学を治める上に先ず検討すべきものである。とは云え、支那の書籍は世に汗牛充棟の[br]
諺もある如く、全く限りもなき夥しさであって見れば、これを一一読破することはいうまで[br]
もなく、その概観を得るだけでも容易なことではない。ここに於て、如何にしてその流別を知り根[br]
源に溯るかと云うことを考え、いわば幹を押えて枝葉をさとり、一を聞いて十を知るという方法[br]
を利用せざる限り、到底その效を奏しがたい。これは、独り我我が困難を感ずるのみなら[br]
ず、支那人といえども、ある尺度を以てしないかぎりこれらの書物を自由に駆使することはできない。[br]
加之(しかのみならず)、真に読む場合でなく単にこれを貯えるにあたっても、この夥しき書籍は、必ずある条[br]
理を逐うて整然と排列せぬかぎり、いざ某巻をとり出そうという時になって、単に機械的記憶[br]
に頼る外はない。そこで、書籍を貯えたという歴史あってこのかた、これを分類するという[br]
方法が、これに伴って行われ、而かも西洋流の著者名のアルファベット順とか、書名のアイウエオ順というも[br]
のでなくして、支那流の内容による分類が採用され、同じ内容については、自然、時代によ[br]
る先後の排列が行われた。これが支那における目録分類の方法であり、もしこれによって[br]
行けば、大綱から細目へと截然たる分類が行われ、某の学科について如何なる書物が[br]
あるかということも、大綱から流(ながれ)に順って下るとき、自然に求むるものを探りあてることができよう[br]
し、逆にある書物は如何なる性質のものであるかを知るには、その所属の細目から流(ながれ)に溯[br]
ってゆけば、大綱にまで達し、大体の展望をつけることもできる。この方法が具体的に確[br]
立したのは前漢の末であって、今の「漢書藝文志」に見えるものがその成績である。[br][brm]
「漢書藝文志」は、後漢の班固の撰んだ「漢書」の中、その志類〔律暦・礼楽・刑法・食貨・郊祀・天文・五行・[br]
地理・溝洫・藝文〕の一つとして挙げられたもので、蓋し、班固がこの歴史編纂の観念にお[br]
いて、暦法とか政治とか経済とか宗教とか信仰とか地理とか水利とかいうものと合せて、[br]
図書、乃至著述を重要なものと考え、その目録を取って歴史の一部としたのであるが、[br]
この材料となった目録は、前漢の朝廷に於て書籍をあつめ、又、整頓された際にできたも[br]
ので、これを「七略」といった。その編纂者は、劉向およびその子の劉歆であって、劉向は専[br]
らそれぞれの書物の解題を作り、これを「別録」といったから、「別録」「七略」を合せて「録略」[br]
という辞も行われている。「七略」とは、輯略・六藝略・諸子略・詩賦略・兵書略・数術[br]
略・方技略を総称したものであるが、輯略がどういうものであったか、いろいろな議論があって、或は既に亡びたと云い、或は今日の藝文志に[br]
見える各(おのおの)の分類の小序が即ちそうだと云う説もあるが、つまり、全体の総論であったろうから、これは暫く措くとして、次の[br]
六藝略・諸子略・詩賦略の三者は、劉向自身が担任し、その次の兵書略は歩兵校[br]
尉任宏に、数術略は太史令尹咸に、方技は侍医李柱国に分担せしめたという[br]
ことは、即ち始めの三つと後の三つとはやや重さを異にし、前者は、自然、最も重要にして[br]
支那の読書人の教養として缺くべからざるもの―即ち古典と思想(学説)と文藝―をあ[br]
げてあり、後の三者は附録として、特殊技能に必要なるものをあげてある。しかもこの類別[br]
において、いわゆる自然科学も軍事教練も、すべて一般教養以外に推出されていること[br]
を見れば、今日の軍事教練の強化、自然科学の奨励という世界の状況とは全く正[br]
反対な立ち場にあり、その意味において、支那が世界富強の競争において落伍者たることも、い[br]
われなしとは云われない。同時に、支那学は最初の分類において既に極端とまで精神科学[br]
尊重を示しておることは、興味ある事実である。しかも前漢の末において、これだけの夥し[br]
い書籍が朝廷の書庫に貯えられ―六略、三十八種、五百九十六家、万三千二百六十九[br]
巻―ていたことは、支那の学術がこの早い時代から隆盛を極め、而かも、流派を[br]
論ずるまでに進歩していたことを物語るものとして、意味のあることであるが、さて、この[br]
夥しき著述の中で、今日までともかく伝えられたのはどのくらいあるかと云えば、ごく大略のとこ[br]
ろ四十家を越えまいと思われるのみか、その四十家さえも「漢志」に見えるものと同じものかど[br]
うか、後人が偽作したものではないか、巻数などは果して一致するかどうか、たとい数は一致しても[br]
実際に合っているかどうか、况(ま)して書物の内容が漢の旧を伝えたものがどれだけあるか、と[br]
云うことを一一考えて見る時、書物の脆弱性というものに慄然たらざるを得ず、而かも、かかる[br]
安心のなり難い書物を唯一の手がかりとして古代の研究を試みるということが、如何に不安定[br]
なものであるか、智者を待たずして容易に知ることである。さりとて、かかる脆弱なる書物も努めて[br]
これを挍定し、これを保存し、できるだけ安全に後に伝えることを希(ねが)うのは学者の務めであって、このしごとこそは、[br]
劉向・劉歆以来、長く続けられるとともに、その分類の方法も次第に変化を生じて行った[br]
わけである。[br][brm]
漢の朝廷に夥しき書籍が集められ、その挍訂に、保存に、後漢の有名な学者たちが勅命[br]
を受けたことは「後漢書」に屢(しばしば)見えていることで、蘭台(らんだい)や東観(とうかん)に貯えられた書籍は夥しいものであったらしい[br]
が、忽ち漢末の大乱に遭い宮中の書籍はすべて軍[br]
人に奪われ、帛は囊に作りかえられるという惨状を呈したが、魏が天下を定むるに及び、[br]
遺書を蒐め鄭黙が之を整理して「中経」を作ったというが、この目録は後に伝わらず、次の晋の荀勗[br]
の作った「中経新簿」の目録がその分類法だけを伝えている。これによると、全体を[br]
甲乙丙丁の四部に分かち、甲は六藝・小学、乙は古諸子家・近世子家・兵書・兵家・術[br]
数であり、即ち「漢志」の六藝と諸子とに相当し、丁も亦かの詩賦に相当するが、[br]
ひとり丙部は、史記・旧事・皇覧簿・雑事というもので、「漢志」に見えなかった「史」が新に目録[br]
学に登場するに至ったのである。これは直接に云えば記録類が年とともに尨大になって、[br]
これを他の分類に附属せしめがたいためであるが、一面その根本原因として史学の独立的[br]
発展が存するわけであって、はじめ「漢志」の時にも、後世の史学の祖先たる「史記」は既に[wr]存[br]
在し[/wr]、著録されていたけれども、それはただ「六藝」の内の「春秋」に附録されていたにすぎない。それが[br]
以後のあらゆる史学の源流ともなり、記録や掌故の拠りどころともなったために、以後の夥[br]
しき文献が古典にもあらず、思想にもあらず、文藝にもあらざる一つの分野を形成するに[br]
至ったのである。そして、これが四部分類の草分けとなった。[br][brm]
その後、西晋の末年、いわゆる永嘉の乱によって再び書籍が散亡し、更に東晋において之を[br]
復興したとき、李充が之を整理したのは、五経が甲、「史記」が乙、諸子が丙、詩賦が丁となってい[br]
たらしく、後世の経史子集の順序はこのころから定まったらしく、たとえば、史学を「乙部之学」な[br]
どという雅称の淵源になっている。このころ、例えば宋の王倹の「七志」は、やはり「七略」の例を襲(つ)い[br]
ではいるが、「輯略」がなくて「図譜」を加えてあるのは、いかにも書物の特大形のために特別の地[br]
位を定めながら、七つという数に合せたらしく、而かも同じ王倹が別に四部の分類を試みた[br]
証拠もあって、四部の形式が次第に固定して来たことが知られる。ことに梁の阮孝緒の[br]
「七録」などは、表面は七つであるが、実際は経史子集のあとに「術伎」と「仏」と「道」とを附録[br]
し、四部と七略との折衷に出づるもののようである。「漢志」から以後、阮孝緒「七録」[nt(050150-0200out)]までは完全に[br]
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唐、釈道宣「広弘明集」