講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
唐の初めには太宗の晋祠銘があって、始めて行書で書かれ、その後高宗の万年宮銘・[br]
紀功頌・英国公李勣碑なども行書で書かれているが、特に太宗は王羲之の書[br]
を好んだため、懷仁の聖教碑が圭臬(けいげつ)とされた。後に、玄宗は八分を好んで、自ら石[br]
台孝経などを書かれたため、当時の豊碑はおおむね八分で書かれたと云われる。又、こ[br]
れよりさき、則天武后が天下を奪ったとき、十九の新しい文字、 、 、 、 、 な[br]
どを作ったので、当時の石刻は、たとえば万歳通天造象などの辺境に至るまで、悉く則天[br]
文字を厳守しているのも注目すべきことである。特に唐の太宗の昭陵は、陝西省醴泉[br]
縣の九嵕山にあって、雄大な規模のもとに作られ、ここに陪葬された名臣の穹碑が相望む[br]
壮観で、拓本蔵はすべて昭陵二十九種というと云う。たしかに唐代石刻の淵藪と称すべき[br]
で、後にこれを研究した人も少なくない。[br][brm]
これよりさき、先秦の鼎彝は、漢になって往往地中から発掘され、たとえば武帝の時に元鼎と[br]
改元したのも、鼎を汾水のほとりで発見したからであった。又「郊祀志」には、天子が所有の故銅器[br]
について李少君に問うたところ、少君は、斉の桓公十年に柏寝に陳したものだと云った。よくその[br]
銘をしらべると、たしかに斉桓公のものだったとかいう話はいろいろ伝わっていて、鼎彝の類は漢では[br]
相当珍重されたらしく、その文字についても若干の研究があったらしいが、「説文」にはあまり影[br]
響が見えない。ただ、秦の刻石だけは、 ( )、 ( )、 ( )の三字が引用され、而かも前者に[br]
は、嶧山と明記されている。その後、南朝の梁の元帝が「碑英」一百二十巻を著したことが、その[br]
著述たる「金楼子」に見えているが、これこそ金石学の専著の始めであろうといわれるだ[br]
けで、今は伝わらない。尤も、これと同時に劉之遴というものが、荊州で古器数十百種をあつめて[br]
東宮に献じたというが、多くは秦漢時代の器にすぎない。北朝では酈道元が「水経注」を作っ[br]
た時に、漢魏の古碑を引いたり、顔之推が秦の鉄権によって文字を考えたりしたようなことも[br]
あるが、金石学というべきものは宋に至って始めて興った。[br][brm]
宋の劉敞は長安において先秦の古器数十を得、その文字の奇古なるを愛し、よっ[br]
て三代の制度を考えて「先秦古器記」を作り、欧陽修は「集古録跋尾」を作り、四百餘篇[br]
をおさめたが、当時、楊南仲が古器の学に於て劉敞と名を斉しくしたので、古器の銘を得る[br]
ごとに、南仲に命じて挍釈せしめたと云う。これ亦、単に嗜好のため玩んだだけでなく、或は礼制を[br]
明かにし、或は文字を訂し、または史実を補うという学問的方面に活用した。これについでは、黄伯思[br]
の「東観餘論」にも、洛陽の名家に伝わる三代・秦漢の彝器を録し、薛尚功は、「歴代鍾[br]
鼎彝器款識法帖」を作り、董逌は「広川書跋」を著し、ことに趙明誠は「金石録」を著[br]
して著録につとめた。当時は徽宗の大観・政和・宣和のころで、北宋の文化が爛熟し、天[br]
子がすでに藝術家であった位であるから、宮廷の貯蔵の古器物もおびただしいもので、尚方の[br]
器は六千餘にのぼり、それも三代の法物であって、秦漢の品はよほど特別なものでないと収[br]
めなかったと云われる。さらに後には、手をひろめて万餘に達し、宣和殿・保和殿に貯えて一[br]
時の盛を極めたが、忽ち金の兵に敗れて、珍什も亦ことごとく散佚してしまった。然しその中[br]
の特にすぐれたものは、「宣和博古図」に載せられ、その器のかたち・模様から銘文まで、今日に[br]
伝わっている。この「博古図」は、少しく前の呂大臨の「考古図」に倣ったもので、当時としては[br]
斬新な方法で、今の図録の源流となるものである。[br][brm]
南宋に於ても、王厚之の「復齋鐘鼎款識」、王俅の「嘯堂集古録」など、金文についての著述も少[br]
くなく、特に洪适の「隷釈」「隷続」は初めて漢碑の文を一一収録して、之を釈し、碑の形式[br]
まで詳に示した。これは当時、石煕明という者が碑を多く集めたので、その力によってできたの[br]
で、かの熹平石経も石氏が摸した千九百餘字について、会稽の蓬莱閣で之を翻刻した。又、劉[br]
球は「隷韻」を著し、漢碑百六十通を引き、さらに婁機は之を承けて「漢隷字原」を作り、[br]
検索に便し、陳思は「宝刻叢編」を著して、古碑の著録につとめた。[br][brm]
金・元・明の三代は、この学問も中ごろ衰え、ことに金文については一向振わなかった。ただ、[br]
都穆の「金薤琳瑯」、趙涵の「石墨鐫華」など[br]
が、ややその名残りを止めていた。しかるに清朝に入ると、清代学術の開祖たる顧炎武よりして[br]
「金石文字記」〔および「石経考」〕を著わし、自序にも、史伝を抉剔し経典を発揮し欧趙[br]
二録の具わらざる所を具えたと称し、朱彝尊も、「曝書亭集」の中に多くの金石題跋[br]
をのせ、その考拠の精確なること相匹敵し、後学のために法門をひらいたが、清朝の内府にお[br]
いても、乾隆のはじめ蒐羅した古器の目録を著して「西清古鑑」といって、まさに「博古図」の[br]
後を継ぐものと云える。降っては呉玉搢の「金石存」も、篆隷碑を多く録したが、殊に乾[br]
嘉の交は、この学も一時の盛を極め、銭大昕の「金石文字跋尾」は、王鳴盛も古今金石学[br]
の冠冕とまで絶賛しているが、その王鳴盛は常に銭氏と行蔵をともにし、北京に居った時、一碑[br]
を得るごとに互に示しあって品評したと云う。翁方綱も亦北京にあって、金石の学を以てきこえ[br]
「両漢金石記」を著し、又、広東学政となって「粤東金石略」を著した。[br][brm]
かように金石を地方的に研究することは、その当時の新しい傾向であり、ことに畢沅の如き、ふたた[br]
び陝甘総督となった人が「関中金石記」を著して陝西の奇秀を網羅し、又、河南の巡撫となって[br]
は「中州金石記」を著し、又、山東巡撫としては「山左金石志」 阮元と共撰 を著したが、たとえば「関中[br]
金石記」の如きは、孫星衍・銭坫・洪亮吉の如き有名な学者が幕中にいて、編纂に従[br]
事したのである。その孫星衍は「寰宇訪碑録」を著して、全国の石碑を地方別に著録[br]
している。ことに王昶は「金石萃編」の大著を成して、従来の金石の書物を集大成したと[br]
称せられる。阮元も、前に云う如く山東学政であったとき、畢沅とともに「山左金石志」を著し、[br]
又、浙江巡撫として「両浙金石志」を著した。ことに従来の学者が石に偏して金にうといので、[br]
薛尚功の体にならって、「積古齋鐘鼎彝器款識」を輯め、特に朱為弼に嘱して考[br]
釈を加えたもので、その巻頭にあげた「商周銅器説」や「兵器説」は、金文の学の大綱をあげ[br]
たものとして今日も必読の文字である。[br][brm]
道光以後の蒐蔵家として有名なのは、劉喜海であって、常に「金石萃編」に収めてない[br]
碑を捜ることを目的とし、遂に「金石録苑」ならびに「海東金石苑」を著し、呉式芬は「寰宇訪碑録」を[br]
挍定増補して「攟古録(くんころく)」を作り、陳介祺の如きは、金石の収蔵に於て海内随一と[br]
称せられ、ことに毛公鼎を以て最も有名とした。その外、三代の沙器数百件、周印数十[br]
方、漢印万餘、秦詔版十餘、魏晋六朝の造像数百というわけで、古今にも比[br]
稀れで、金石家は山東に集まるようにも見えたが、浙江の呉雲も亦、阮元たちの金[br]
文が長髪賊の乱後に散佚したのを買いあつめて「両罍軒彝器図釈」などあまた[br]
の著述をのこし、江蘇の潘祖蔭もしきりに古器をあつめ、盂鼎・克鼎・斉侯鎛の如[br]
き重宝を貯え、「攀古楼彝器款識」を著し、呉大澂も数百種の彝器を貯えて、[br]
「恒軒吉金録」「愙斎集古録」を著した。北方でも盛昱や王懿栄の如き、この[br]
学に熱心な人があった。ことに王懿栄は、当時はじめて光緒二十六年1900 河南省湯陰縣の近[br]
郊で掘り出された亀甲獣骨をば、商代の遺物と認めた人で、殷虚卜辞が有名に[br]
なったのは王懿栄に始まる。ただし王氏はやがて庚子の乱に殉難し、その遺物はほとん[br]
ど劉鶚の手に帰し、「鉄雲蔵亀」として世に公にされ、かの孫詒譲は、これによって「契[br]
文挙例」を著した。なお、清朝の革命の時、四川省で殉難した端方も、収蔵を以てき[br]
こえ、陳介祺の蔵品は多くその手に帰し、「陶斎吉金録」を著し、又、「陶斎蔵石記」[br]
などもある。最後に羅振玉も金石に詳しく、ことに亀甲獣骨については、特に人を[br]
派して数千枚を求めしめ、これを「殷虚書契」と称して印行し、これを助けた王国維は、[br]
近代無比の精博な学者で、これらの考釈に努めたほか、「三代秦漢金文著録表」「国朝[br]
金文著録表」なども著した。なお金石学をおさめた人の伝記については、「金石学録」[br]
以下の著述があり、又、その著作は「金石書録目」などの専著もある。ことに葉昌[br]
熾の「語石」は、石についての空前の名著であって、恐らくこの一部の書に精通すれば、こ[br]
の学問の大半は明かになると思う。又、普通いわゆる金石以外にも、古泉の学問[br]
は宋の洪遵の「泉志」以来ひろく行われ、清朝でも李佐賢の「古泉滙」のような[br]
大部の著述もある。又、古の陶の類も同治・光緒の際に、山東・直隷で発見され、[br]
陳介祺・王懿栄などが之をあつめたが、その遺品は劉鶚の手で、「鉄雲蔵匋」として[br]
刊行された。又、瓦当文をあつめる人もあり、ことに道光ごろから封泥が発見され、呉式芬・[br]
陳介祺の共著に成る「封泥考略」ができた。封泥と表裏をなす璽印も、たとえば[br]
明の顧従徳の「顧氏印薮」以来、いろいろの著述がある。[br][brm]
これを要するに、かかる遺物の研究は、史学・文字学に重要な関係を持つので、清[br]
朝に至って極めて流行した学問の一つとなり、これに骨董的蒐集の興味も加わったため、[br]
相当な学者で之に関心を持たないものはほとんどなかったが、近年に至り、更に考古学[br]
的研究法が輸入され、単にその遺物だけを問題にせず、その出土の状態、又、ともに出[br]
土した品物まで詳しく吟味され、かの殷虚の発掘の如き大規模のものまで企てられ[br]
たのである。[br][brm]
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哲学が支那人の間で如何に発達したかは、極めて困難な研究問題であって、今はただ哲学に関する[br]
文献を通じ、如何なる派別を生じ来ったかを見るに止める。支那に於て思想家を派別によって分[br]
類した中の最古ともいうべきものは、司馬遷の父・談が、いわゆる“六家の要指”を論じたもので、これには、陰陽・儒・[br]
墨・法・名・道徳の六つに分けて、それぞれの特長をあげ、その得失を評論している。かの「漢書藝文志」[br]
では、この儒・道・陰陽・法・名・墨と従横・雑・農・小説の十家を以て「諸子略」を構成し、[br]
実は見るべきものは九家であって、みな王道が衰え諸侯がそれぞれ政治に力め、さまざまの方針が行われたに[br]
乗じ、それぞれ得意の学説を以て諸侯の好みに合わせようと試みたもので、実は水と火のように互[br]
に滅しあうかに見えて、互に生じあうものであって、要するに六経の末流である、と論じている[br]
が、つまり太古の単純であり包括的な思想世界から、複雑であると共に、個別的な特長を[br]
発展させた思想家が、春秋戦国時代の自由競争の空気の中にのびのびと育ったことを意[br]
味するものと思う。従って、かくして発達した思想界は、勢い互に派別を生じ、自然そこに[br]
激烈な論争や冷酷な皮肉がくりかえされたわけであり、又、これが刺戟となって、如何様にか発達[br]
を助けたことも十分理解される。その最も著しい例は、「孟子」一部を蔽う所の闘争的精神で[br]
あって、いわゆる異論者の排撃に対して餘力を残さぬ点は、「論語」に現れるものとは格段の相[br]
違であって、これがいわゆる諸子時代の特色を形づくるものであり、同時に「孟子」七篇が元来諸[br]
子であったこともうなずかれると思う。[br][brm]
就中(なかんずく)、陰陽家の学説は、今日では全部亡びて伝わらないが、「史記」の「孟子荀卿列伝」に述べられた[br]
騶衍の学説は、現実の世界を極めて小さく考えて、時間的空間的に極めて広大無辺な世界を考[br]
え、ひとり現実の世界による因果以外に、更に広大な因果関係を仮定して、一種の世界観[br]
または歴史観を与えたものであったらしく、司馬談も「陰陽之術、大祥 一作「詳」 」といっておるとおり、[br]
ある点には科学者的精密さを持ったものであろうと思われ、「漢志」にも、日月星辰を象り、民の時[br]
を授けるといっているが、当時は科学知識の普及しない時代とて、これを迷信的に利用すれば、相当[br]
の利用価値があったに相違なく、ために世人がこれに拘束され、人事を忘れて鬼神に任ずると[br]
いう弊をかもしたと云われる。[br][brm]
次に儒家の学説は、もっとも人と人との倫理道徳に重点をおいてあって、一種の実践倫理学であっ[br]
たから、司馬談も、儒家の云う君臣父子の礼を序し、夫婦長幼の別を列することは、絶対の真理であ[br]