講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
味[/wr]であるとすると、「水」の小さいのを「淺」といい、「金」の小さいのを「錢」といい、「反」して小さくなかったのを[br]
「殘」といい、「貝」の小さいのを「賤」というように、すべて小さいという意味を持つ、ということを提唱し[br]
たのは極めて重要なる見解であって、これらに一歩を進めたのは阮元の「釈矢」の如き研[br]
究で、例えば「施」といい「矢」というようなのはすべてその音から見て、こちらから真直に先方へゆく意味を示し、「尸」とい[br]
うのも人が死んで身を平に横たえたことを示し、人の糞を「矢」というのも真直に先[br]
方へ出すことであり、「矢」を「陳」というのも平に陳列することであり、「雉」というのも、その飛び形[br]
が「矢」の如く平であるからであり、「都城過百雉」というのも長い縄を平に引いて物の寸法を[br]
測るからである、という風に、単に一つの偏旁に拘泥せず、一般にある種の音韻はある[br]
一定の意義を持つべきものであるという、言語としての語原研究の一[br]
端を示すものとして、極めて注目に価する。阮元のしごとには、なお「経籍籑詁」の編纂[br]
という重要なものがあって、これはあらゆる古典等の注釈の中から、文字の訓詁を選び、[br]
これを一一その出処とともに、それぞれの文字に類集したものとして極めて便利な訓詁字典で[br]
あり、これより以後の学者にはこの上なき重宝とされたことは、いろいろの人の心から感謝している[br]
とおりである。[br][brm]
訓詁の源流としてあげられる「爾雅」に、邵晋涵の「正義」、郝懿行の「義疏」ができたことは、す[br]
でに経学でも述べたが、就中、「義疏」は音が同じく、又は相近いばあいに、その意味が通ず[br]
ることを中心として論述され、やや繁瑣ではあるが、その点に一種の特色を示している。又[br]
「広雅」については、王念孫の「広雅疏証」が最も精細であり、毎日文字の数を定めて疏証をするを日課[br]
としたという伝えがあって、「広雅」の如き、元来あまり好くない書物に、かかる立派な注釈[br]
ができたことは不思議というべきほどで、而かも銭大昕の弟、銭大昭にも「広雅疏義」[br]
があり、又、極めて精細であるということは、如何に疏証の学が当時の流行であったかを卜[br]
するに足ると思う。王念孫の子、引之の「経伝釈詞」は、経伝における助字を類集して、そ[br]
の解釈を試みたもので、劉淇の「助字辨略」に本づいて、更にその上に駕したものである。「説[br]
文」についても、なお、王筠や朱駿声がそれぞれ新しき機軸を出したほか、貴州では、鄭[br]
珍の「汗簡箋正」あり、広東では、陳澧の「切韻考」あり、江浙乃至山東の以外にも、その学[br]
問が普及した。特に蘇州の馮桂芬がその門人を指揮して作った「説文解字段注攷正」[br]
は、「説文段注」の一一の出処を調査して、その誤りをも正したものであって、「段注」がかくの如き精[br]
細な攷正を必要としたことは、決して杜撰を意味するのではなくて、それがいかに後の学者[br]
の必読書であったかを示すものとして、さすが一時の盛を極めた説文学においても、結局「段[br]
注」の右に出づるもののないことを知るべきである。[br][brm]
最後に章炳麟およびその弟子黄侃の功労も忘れてはならず、ことに黄侃が古韻を二[br]
十八部の平入に分ったことは、「広韻」と古韻とを共に精細に研究された結果であり、顧炎[br]
武が古音によって「広韻」を正そうとしたことを改めて、両者の相関関係を確立したし、章[br]
氏の「新方言」は、直ちに漢の楊雄の「方言」の後に列すべきであり、二家の努力により、旧小学[br]
家の学説が新たに認められたわけである。[br][brm]
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支那の史学が確立されたのは、司馬遷の「史記」を待つ。元来、支那の古典たる「六藝」も、広い意[br]
味においての史料たるのみならず、これも一種の史学的観念によって取捨されたに違いないことは、た[br]
とい内容は韻文の総集である「詩三百篇」にしても、自ら「風・雅・頌」に分たれ、更に「風」は十五国風に分[br]
たれ、いわゆる治世の音は「安以楽、その政は和」であり、乱世の音は「怨以怒、その政は乖き」、亡国の[br]
音は「哀以思、その民は困しむ」という如き政治の参考となり得るものであり、「書」に至っては、虞・夏・[br]
商・周の詔・勅・誥・命を集めたものであって、いよいよ国家の盛衰興亡に近く、ことに「春秋」に至っては、魯[br]
の史官の記録した編年史を孔子が修正したという伝説になっている。元来、史というのは、朝廷に[br]
おける記録を掌る官であって、「説文」にも、「史、記事者也」とあるが、その「 」の字は「中」と「又」とに从って[br]
いる。その「中」とは、何か手で持つべきものである所から、官府の薄書である 江永 とか、簡であるとか 呉大澂 、い[br]
ろいろの説もあるが、王国維先生は、射礼の盛算之器を「中」という所から、この「中」は射の時の数[br]
とりの器であると解いた「釈史」 。蓋し数というものは、最も記録の正確を必要とするものであって、専門[br]
の記録者を要すべきものであり、自然、天文現象の如く、恐るべく敬うべきものにあっては、その記録はことに[br]
正確を要し、又、年月日の如きものも、当然、正確なる記録を必要とするであろう。その[wr]意[br]
味[/wr]において、魯の史官の手に作られた記録が、四時を簡略にした春秋という名を負うていることも[br]
当然の現象であろうし、その「春秋」の中に夥しき天文現象が記録されて、今日、支那古代天文学史の[br]
根本史料となっていることも当然であろう。ただ、「春秋」はあまりにもその記録が簡単であるた[br]
め、これを解釈し敷衍した所の「伝」が発達し、中にも「左伝」は最も詳細に経文以外の事実をと[br]
りいれて、後世でいえば野史とでも云うべき奔放な筆を弄しておるし、「公羊伝」は、ほとんど「春秋」の[br]
「経」を句ごとに、あるいは字ごとに研究したもので、真の意味の「伝」であるといえよう。これに継ぐものは、[br]
即ち「国語」および「戦国策」であって、それぞれ国を以て単位として、それぞれの重要なる政策的[br]
な事実乃至後世の模範として伝うべき善言嘉行を記録して、一種周末の歴史の[br]
史料となっているし、又一面には、今は亡びた「世本」というものが、「春秋」までの帝王や公侯卿[br]
大夫の祖世の出づる所を録していてくれ、ことにその「作」篇などは、いわゆる縁起談を満載して[br]
いたらしく、更に漢以後には、「楚漢春秋」というものがあって、楚漢興亡の際の史実をのこしていた。司[br]
馬遷の「史記」は、実に「「左氏」「国語」に拠り、「世本」「戦国策」を秉り、「楚漢春秋」を述べた」「司馬遷伝」とい[br]
うようにして作られたもので、即ち「漢書藝文志」に、「太史公百三十篇」と称し、「六藝」の「春秋類」の末に、[wr]「国[br]
語」[/wr]「世本」「戦国策」「楚漢春秋」についで著録されている。元来、司馬遷の家は天文家であって、[br]
その父、談は「天官を唐都に学び、「易」を楊何に受け、道論を黄子に習った」人物で、遷はその[br]
後をついで「史記」を作ったのである。[br][brm]
「史記」は「太史公の自序」にも、六経異伝を協え、百家雑語を整斉して、「十二本紀・十表・八書・三十[br]
世家・七十列伝およそ百三十篇、五十二万六千五百字」の大著であって、時代から云えば黄帝か[br]
ら漢の太初までの歴史として、在来の史料を取捨塩梅(あんばい)して、破天荒な系統を作りあげたものである。[br]
その史料は、当時においては、大体なるべく手を入れずして、そのまま「史記」の中に取りこむことが方針であ[br]
ったが、恐らくその当時の史料は、相当の伝説もあり、口伝もあったことであろうから、その選択を誤[br]
まれば、事実の正確を得ない恐れがあったであろう。そこで司馬遷は、前に述べた如き「六経」はじめ[br]
雅馴なものを中心とし、その文体の合わないものは若干の修正を施した。ことにその材料となった先[br]
秦の故籍の中には、「古文」で書かれたものが多く、司馬遷自身も古文の記録を読破し、その[br]
文字のあまりに当時と懸絶したものは、これ亦適宜に修正を加えたことは、「尚書」と対照して読[br]
むことにより、特にこの点を推知できようと思う。その「十二本紀・三十世家」は、即ち「春秋」の例にならうものとい[br]
うことができるが、特に「十表・八書」の如きは、すぐれた編纂能力を発揮したもので、「八書」の分類[br]
に、「礼書」「楽書」「律書」「歴書」「天官書」「封禅書」「河渠書」「平準書」はその当時の政[br]
治乃至学術の最も重要なる項目であって、「礼」は社会の秩序を維持する原則であり、これを時代に応じて損益し、政治における指[br]
導方針とすべきものであり、「楽」は本来、藝術による人心の慰安を致すとともに、厳粛なるべき[br]
社会秩序に、一つの愉しき興奮を加えて、能くその折衷を致すべきものであり、「律」は主として自然の[br]
音律を説くとともに、これを軍令刑罰に施して、自然の厳粛を人事に適用し、「歴」は日月五星[br]
の運行を研究して、農業のために指導政策となり、「天官書」は天上の星辰の状況によって宇[br]
宙の構造を天に帰し、人がこの世にあるのは全く天の命のままであるとて、自然信仰に達し、[br]
「封禅書」は地に峙たつ山川に対し、又は人の鬼神霊怪にたいする崇敬の念に本づく祭祀の礼[br]
を説いて、宗教の一面を担任し、「河渠書」は当時の農業経済における中心問題として、黄河等[br]
の治水を論じ、さらに「平準書」は漸く発達を見たところの商業経済における物価調節の[br]
問題を論ずるもので、内容には缺けて伝わらぬ部分もあり、又、専門書を剪裁しただけの部[br]
分があるにしても、少くともこの分類は、支那古代社会史の断面とその精神とを示すものとして、極めて興味のある[br]
ものである。又、列伝にもその主旨がとりいれられ、たとえば「扁鵲倉公列伝」には医学のことをとりあ[br]
げ、「司馬相如列伝」にはかの夥しき賦をそのまま収めて文学のことをとりあげ、「循吏列伝」には政治の[br]
徳沢を具現し、「儒林列伝」には経学の興隆ぶりを示し、「酷吏列伝」には刻薄なる政治の害[br]
毒を嘆き、「游侠列伝」には官に代りて地方の維持に任じた人物を示すとともに、「滑稽列伝」には[br]
俳優をあげ、「日者」「亀策」には、卜者を出し、「貨殖」には当時の成金(なりきん)を描き、それぞれ時代の特[br]
色を出し、又、一藝一能に秀でた人物を忘れなかった周到な用意を窺わねばならず、ことに当時の[br]
史学は家学であり、編纂者は個人であったところから、極めて創作味に富みたるとともに、批[br]
判的精神を以て「賛」を加えたことは、史学が単に事実を記録する簿書でなくして、一つの有機[br]
的著述たることを示すものである。[br][brm]
「史記」についで作られた「漢書」は、勿論「史記」について重要な影響を蒙り、その文の如き「史記」と[br]
重複する部分はほとんど「史記」の文を抄してあるが、両者の大きな相違は「史記」は通史として太古よ[br]
り現代までのことをとりあつかったに反し、「漢書」においては断代史として漢一代をまとめたことで、[br]
而かもこれより以後の正史と称せられるものは、すべてこの体裁に統一され、「史記」のこの意味におけるし[br]
ごとは一代で絶えたといってよい。しかし「漢書」も亦、本紀・表・志・列伝のいわゆる紀伝体は、たし[br]
かに継承している。そのいわゆる「志」は、「史記」の「書」にあたるもので、「律暦」「礼楽」「刑法」「食貨」「郊[br]
祀」「天文」「五行」「地理」「溝洫」「藝文」に分類されたことは、「史記」よりも整頓された感じを持つ。[br]
ほかに「藝文」の如き学術史を加えたことは、当時学術の進歩の状を見るべきものとして、特に興味を[br]
覚えるものである。「漢書」も亦、班固一人の撰ではなく、元来その父、班彪の志を承け、さらに妹の[br]
班昭が補ったもので、家学として口伝された部分もあるらしく、その不詳なる点は、当時の学者[br]
が班昭について疑いを質したと云われる。[br][brm]
宋の范曄の「後漢書」は「後漢書」の唯一のものではなくて、世に「七家後漢書」とも称せられる如く、呉の謝承や晋の[br]
司馬彪等の「後漢書」ができた後に、これを整理したものであるから、多くは根本資料によらずして、す[br]
でに編纂されたものを取捨した関係もあり、又、名文家であったため、己の筆によって史料を修[br]
正した。それ故、文章として読む時は極めて美しいとともに、史料の原文と歴史の文章とが離[br]
れたのは「後漢書」にはじまるといわれる。宋のころは、南北朝が分立して、あまたの歴史が次々と作[br]
られたが、これよりさき、晋の陳寿は「三国志」を編し、更に宋の裴松之がその「注」を作った。抑(そもそも)[br]