講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

pageId:050150-2410

かくして暦法の発達は同時に天文学の発達となって行ったのである。[br][brm]
支那で天体について考えられた方向は、周髀と渾天との二つであって、周髀とは、地面に[br]
垂直に立てた長さ八尺の棒のことで、その棒によって、北極または太陽の出入を観測する方法で、すべて天[br]
が動いて円、地は静かにして方という思想に本づく。これがいわゆる蓋天説という天地構[br]
造論であって、天は北極を中心としてまわること蓋の如きものであるという。これに対して[br]
渾天は、天地の構造を鳥の卵にたとえ、地は卵の黄味であり、天はその殻であると考[br]
えた。然し天が動き地が静かなことは、周髀と変りはない。この方法はほとんど今日の天[br]
体観と結果において一様であって、当時にあってはかなり大胆な学説らしく揚雄の「法言」[br]
重黎の中にも、「或問渾天、曰、落下閎営之、鮮于妄人度之、耿中丞象之」といって[br]
大賛成している。元来揚雄という人は、「周易」に対して「太玄」を作って一つの立ち場を立てた[br]
学者であり、その頃の周易派の学者はみな蓋天説であったにたいし、かくも渾天を賛[br]
成したのは、たしかに当時の新思想であり、その本づく所は、或は当時西域との交通にお[br]
いて輸入された西洋天文の智識によったもので、落下閎とか鮮于妄人とかも、或は[wr]外国[br]

pageId:050150-2420

人[/wr]でないかとさえ考えられる。このころが、ちょうどいわゆる三統術による太初改暦の後にあた[br]
り、従来の天文学が全般的に重大なる修正を受けたことを意味するものと思う。太初暦の制[br]
定は、当時の朝野幾多の専門家によって講究せされ、やがて「史記暦書」の四分法による暦術甲子[br]
篇の如き案が可決され、その実施についての詔書まで発せられたが、あまりに理想に[br]
近かったので、実行上の反対に遭ったらしく中止され、後に委員を増して再調査した[br]
結果、鄧平の八十一分法が採用された、太初元年から採用されたその八十一分法とは、閏のために十九年[br]
一章を用い、又、蝕の週期のため、百三十五月を用いた結果、一ヶ月の長さを29 日[br]
ときめ[81:135=3:5]、一年で365 日、十九年で6939 となり、この日の端数をなくするには[br]
八十一章、即ち1539年をとり、その八十一章を一統とすると、ちょうど三統で年のはじめが、月も日[br]
も時刻もきっちり同じくなる時が来るから三統暦ともいうのである。[br][brm]
その後、南北朝に分かれて、それぞれ若干の特色ある暦法ができたらしいが、隋の開[br]
皇暦は大体南朝の宋の何承天の元嘉暦に本づいたもので、それが皇極暦に至って南北の特[br]
質を兼ね、その後、唐では李淳風の麟徳暦を経て、僧一行の大衍暦に至[br]

pageId:050150-2430

り、一つの時期を劃したが、それには一面印度からの影響を咀嚼したらしく、当時の司天台に勤めた人には、瞿曇羅(ぐどんら)、瞿曇悉達(ぐどんしった)たちの印度人があり、その中、瞿曇羅は三十餘年太史令となり、瞿曇悉達の「開元占経」が天文書として有名であるが、これは訳本九執暦そのものであるという。而かも大衍暦の時に、瞿曇譔がこの改暦に参加できなかったことを怨んで、大衍は九執暦をうつしただけのもので不完全だと奏上している。その後も西洋方面からの影響は絶えず、元の郭守敬の授時[br]
暦の如きもその一つである。[br][brm]
以上の如く支那において早くも暦法が天体暦として最高度まで進歩していたこと[br]
については、数学の発達は当然考えられることで、いわゆる籌算と称する一種の計算[br]
器によって布算されて、加減乗除のほか開平・開立から連立方程式までに解かれた上[br]
に、分数や相似三角形の辺の比例、 のばあいのピタゴラス定理なども、「周髀算[br]
経」に説かれているが、これと遠からぬ「九章算術」では、財政・土木・測量などの、[br]
社会生活に必要な数学の問題が全般的にあつかわれ、算術や代数では西洋をも[br]
凌駕していると云う。この「九章算術」に注した魏の劉徽は、「海島算経」の著者であり、海[br]
島の測量を述べたところが最初にあるので名づけられたものである。これにも劉歆以来の円周率[br]
を314+64/625<π<314+169/625として算出しているが、宋の祖沖之はさらに3.1415926<[br]
π<3.1415927という精密な数が出ている。その子・祖暅之に至っては球の体積を[br]
正確に算出しているなど、非凡なる数学者が現われている。これらの古数学者は、外に[br]

pageId:050150-2440

「数術記遺」「孫子算経」「五曹算経」「五経算術」「夏侯陽算経」「張邱建算経」[br]
「輯古算経」と、合わせて「算経十書」と称せられている。元来算数は、六藝の一つとし[br]
て重んぜられたもので、唐代にも明算の科が行われたくらいであるが、当時の重要なでき[br]
ごとは、印度の仏教の輸入に伴う算学の変化で、隋のころからこれをうかがったものもある[br]
が、特に「天竺九執暦経」というものが瞿曇悉達の訳によって伝わり、籌策を用い[br]
ず、1から9までの筆算式の数学が紹介され、その他「婆羅門算法」や「都利聿斯経」[br]
などという書名が隋唐の「経籍志」に見えている。[br][brm]
その後、宋元の間にいわゆる天元術、即ち算木による代数演算が発達し、そ[br]
のχ項には元の字を傍書した。即ち と +680x+96000を示す。[br]
また四元術というものがあって、天・地・人・物をもって四つの未知数に代え[br]
るもので、この書物としては、元の朱世傑の「四元玉鑑」が著名である。わが国で珠算[br]
の除法に用いる九九は、かなり朱世傑の「算学啓蒙」に本づいている。その他、級数や方程[br]
式などについて、さまざまの研究が行われたが、元の時はちょうど西方の文化が一時に[br]

pageId:050150-2450

蒙古朝廷に集まった時で、暦法でも、耶律楚材は西域暦に見えた五遊星の記事[br]
が支那暦よりも精密だというので、麻答把暦を作ったが、これは回鶻暦だろうと[br]
云われている。当時は回回の天文学者札馬刺丁(Jamal-ud Din)をも任用して[br]
万年暦を作り、又、天文儀器を北京に備えたという。前述の郭守敬の授時暦も回[br]
回暦によったものであると云う。かくして回回暦が明まで行われた。数学では、今の珠[br]
算の算盤ができたのもこのころからであるらしい。ここに利瑪竇(Mateo Ricci)が来朝[br]
するに及んで、徐光啓とともに、ユークリッドに本づく「幾何原本」を翻訳し、李之藻とともに「同文算指」の[br]
翻訳をなしたが、天文については力が足らぬので、更にイタリアの龍華民(Nicolas Longo-bardi)・[br]
スペインの龐迪峨(Didace de Pantoja)・イタリアの熊三抜(Sabbathinus de Ursis)・ポルトガルの艾儒略([br]
Julius Aleni)などの暦学者を招き、あたかも万暦三十八年1610、十一月朔の日食に誤[br]
まりがあったので、西洋人に修改せしめることになったが、果してその術は精密であったため、たとい[br]
反対はあっても動かすことはできず、かくして徐光啓・李天経の「崇禎暦書」が前後進呈[br]
された。[br][brm]

pageId:050150-2460

かくして清初に及んでも耶蘇会士が修暦の実権を握り、ドイツの湯若望(Adam Schall)[br]
とベルギーの南懐仁(Ferdinand Verbiest)は特に親任され、湯若望は欽天監監正に任命[br]
され、いわゆる「天文学と数学とは支那の宮廷に参内して玉坐のそばに坐り」という情[br]
勢をなした。これに平ならざる欽天監員の楊光先が耶蘇会士を誣告し、遂にこ[br]
の二人が投獄されるに至った。そして危うく処刑されるまぎわに稀有の大地震が起こった[br]
ので遂にこれらを釈放した。しかも湯若望の没後、南懐仁に命じて楊光先たちの暦書を推[br]
算せしめたところ誤りが発見され、楊光先は免職されてしまった。今の北京の観象台に[br]
ある儀器は南懐仁の作という。ことに康煕帝は西洋数学を好まれ、湯若望・南[br]
懐仁について数学を学んだほか、さらに張誠(Jean François Gerbillon)および[br]
白進(Joachin Bouvet)についても、日日幾何学などを学び、地方に行幸するにも[br]
必ず供奉を命ぜられた。これがため、清朝には早く西洋暦算を研究する学者が出て、[br]
中でも王錫闡と梅文鼎とが群を抜き、乾隆ごろには戴震や銭大昕もこれに通[br]
じ、阮元に至っては「疇人伝」を作って古来の名家をあげているが、それから以後、専門の大家としては、[wr]李[br]

pageId:050150-2470

鋭[/wr]・羅士琳・徐有壬・李善蘭などの名を記憶すべきである。[br][brm]
支那の科学は、特に必要によって起こり、必要さえ充たしめればそれで満足する嫌いがあるが、特[br]
に人間の苦痛を除き、生命を寿にする医薬の学の如きは、支那における最も重要なる学問と[br]
なる道理である。古伝説に神農をあげて薬の神とするのも、まさにそ[br]
の現われであるし、後世では「黄帝内経素問霊枢」という医書ができ、「神農本艸経」とい[br]
う薬方ができたのもそのためである。実際の医療については、「周礼」にも医師・食医・[br]
疾医・瘍医・獣医などに分類され、「史記」にも扁鵲・倉公のために列伝を立てている。[br]
さらに「漢書藝文志」では、方伎という名の下に、医経・経方・房中・神僊の四種があげ[br]
られていて、生理・衛生・病理・薬物、その他、性教育・不老不死の術をのべてある。[br][brm]
「神農本艸経」がいつできたかは明かでないが、梁の陶弘景が編述したことになっていて、[br]
玉石草木人獣禽虫魚果米穀菜について、上中下の三品に分ち、詳しい説[br]
明を加えたものの如く、これに加うるに、今のいわゆる配合禁忌のことを述べ、迷信に陥り、五行説に[br]
引かれた部分も少なくないが、一面、長年の経験を書きのこした点は、今日といえども之を[br]

pageId:050150-2480

実際に応用して卓效を奏することができるものもある。次に「黄帝内経素問」もいつごろのものか[br]
明かでないが、基礎医学をおさめる者の必読書として古から尚ばれている。同じく黄帝に托せられる[br]
「八十一難経」も「素問」や「霊枢」と相表裏したもので、特に脈を論ずることが詳かであるが、[br]
支那の医学が脈に重点をおくことは、このころからすでに現れている。これらに次いで著者の名[br]
の明きらかなのは、張機仲景  の「傷寒論」であって、一切の発熱を伴う病気の原因および療[br]
法を論じた、いわば内科学の名著であって、死者の七割までは傷寒である所から[br]
最も力を用いたらしく、これと同じく張仲景が雑病を論じた「金匱」とともに永[br]
く伝えられているが、ことに「傷寒論」は夥しい注釈ができて、その説を研究する学者[br]
が絶えない。外科として有名なのは華佗であって、伝によれば、患者を麻痺させて腹[br]
や背をたちわって療治し、あるいは腸胃を洗ったりつぎ合せたりしたとあるが、[br]
或は華佗は外国、ことに印度人だろうという説もある。[br]
その以後の医学に貢献したのは晋の王叔和と葛洪で、王叔和は「傷寒」や「金[br]
匱」を整理して後に伝えたほか、「脈経」を著した。葛洪はかの「抱朴子」の著者であって、[br]

pageId:050150-2490

神仙・煉丹の法を試みた人物であるが、云わば物理療法家としての面目を見るべきで[br]
ある。降って梁の陶弘景は「本草経」を整次した人物で、漢魏以下の名医の薬[br]
方などを補って「名医別録」とし、これに注を加えた。元来、「本草経」の本来の姿はすこぶる知りがたくな[br]
っていて、清朝になって孫星衍なども輯佚を試み、ことにわが森立之がわが国に伝わっ[br]
た資料による輯佚ならびに攷異を作ったことは著名である。陶弘景の序録[br]
の一部は敦煌から発見されているし、唐の李勣の作といわれる「新修本草」[br]
の残巻は京都仁和寺に伝わっている。しかし普通には宋人の編輯した「経史[br]
證類大観本草」または「重修政和経史證類備用本草」が利用されている。[br]
後に明になって、李時珍の「本艸綱目」ができて、これが一般に普及したが、中尾万三博士によ[br]
れば見るも汚らわしいものだという。[br][brm]
医書にはその後、唐の孫思邈の「千金方」や王燾の「外台秘要」が出て、唐まで[br]
の医学を大成している。そのやりかたは、昔の「素問」や「傷寒」の如き簡単にして用[br]
途の確実なものと違って、いろいろな方法を雑用したために、往往效果の乏しいも[br]

pageId:050150-2500

のもあるが、なかなか奇巧のところもある 徐大椿 といわれている。すべて唐より宋にかけて[br]
は、ちょうど本草が膨脹するように医書も膨脹し、宋の勅撰に成る「聖済総録」の[br]
ごときは二百巻に上っている。その後、金元の間にいろいろの流派ができ、劉完素 河間 [br]
は凉薬を用いるので寒凉派であり、張従正子和  は劉から出て、汗・下・[br]
吐の三法を立て、特に下において注重したので攻下派である。これに反し、張元素 潔古 [br]
の門人であった李杲東垣  は脾土を主として「脾胃論」を著した補土派であり、朱震[br]
亨 丹渓 は劉の再伝の弟子で養陰を以て主とした。そこで「四庫提要」にも、儒の門戸は宋[br]
に分かれたが、医の門戸は金元に分かれたと云っておるが、最も盛名のあったのは東垣[br]
の一派であったが、東垣は富家の子弟であったから、交る人も貴介が多く、その病気も逸[br]
楽にふけったためが多いので、かかる学説を唱えたのであろう。大体当時は、古方では今病[br]
を医することができないという主張がつよく、自然、こう云った改革が行われ、自然、争論[br]
も起こったことと思われる。[br]
ことにこれよりさき、前にいう如く、印度の医学が支那に入った事実があり、眼科などは多く婆羅門僧であったらしく、自然、仏教的な病理が相当行われていたのであるが、この四家は、又、更にこれを改革したのである。[br]