講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
うな学説がさかんに唱えられ、王応麟の「困学紀聞」八 にも、「七経小伝」劉原父[nt(050150-0410out01)] が出てから次第に新[br]
奇を尚び、「三経義」王安石 が出てから漢儒の学を土梗の如く賎んだといったとあるとおり、経学は新[br]
しく批判の眼にさらされた。「朱子語類」七十八 の中に、今に伝わる「尚書」が実は二つの系統をふ[br]
くみ、一つは漢以来の伝統に出づる今文と、も一つは後世発見されたいわゆる古文とで、今のテ[br]
キストは今古文両系統を一つにまとめてはあるが、今文をとってきた方は読みにくく、今文にない部[br]
分が却て読みよいことに目をつけたり、「孔伝」と称するものが漢儒の単に文字だけ注釈したも[br]
のと違って、一切釈したのも疑わしいとて、偽作であろうと述べている如き、優れた批判を与[br]
えたことは、この学風のむしろ最も好き成果である。第二の影響は、従来の義疏の学は[br]
古人の衣のかげに隠れていたため、自分という姿を出さなかった。それ故、その議論は一人のも[br]
のでなくして多数人のものであってよかったのであるが、今や自分というものに目ざめた哲学者た[br]
ちは、己を殺して経を解かんとするよりも、むしろ自己の思想体系の中に経を織りこむことにその努力を[br]
傾けた。かくして、宋の哲学は新鮮なる支那思想の展開となったのであるが、経学と[br]
いう面から見れば伝統を揚棄した結果、極めて乱雑な傾向を呈し、遂には必要以上に[br]
[050150-0410out01]
劉敞
批判を用い、全く自己の見解を以て経典を刪改するという悍(タケダケ)しささえ現れるに至った。又、程朱一派[br]
の作った経解、即ち「易」の程伝(易伝 伊川) 、朱義(本義)、「書」の蔡沈伝、「詩」の朱子の「集伝」を主とし、かた[br]
わら陳澔の「礼記集説」、胡安国の「春秋伝」などが代って科挙に用いられ、ことに朱子の「論語孟子[br]
集注」「大学中庸章句」が「四書」として、初学必修の読本となってから、この影響は極めて大[br]
きく[nt(050150-0420out01)]、次第にこれを尊信し、甚だしきはこれに党するの弊をなしたが、明の中ごろには新に王[br]
守仁の学派が宋の陸象山をうけて、興起するとともに、全く「六経を以てわが心の注脚とする」如き[br]
放肆なる態度をとるに至り、経学は曽て極めて暗黒の道を辿るに至った。[br][brm]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[br]
[050150-0420out01]
「儀礼経伝通解」
六藝の科の中心をなすものが六経であることは前に述べたが、その六経の中で「楽」だけはテキスト[br]
が存在しないので、自然、五経が中心となっていた。しかし「礼」はそのテキストから云えば「周礼」「儀礼」「礼[br]
記」というそれぞれ相当な分量があったから、これを三種として数えれば「易、書、詩、三礼、春[br]
秋」をもって七経ということもできた。更に「経典釈文」の「序録」には、これに「孝経」「論語」の二経を加え[br]
て九経と称している。又、唐時代には選挙の必要から、経を大中小に分ったことがあるが、これは[br]
まったく分量で計算したもので、「礼記」(九九〇二〇字)、「春秋左氏伝」(一九六八四五字)[br]
を大経といい、「詩」(三九一二四字)、「周礼」(四五八〇六字)、「儀礼」( )を中経といい、[br]
「易」(三四二〇七字)、「尚書」(二五七〇〇字)、「春秋公羊伝」( )、「穀梁伝」( )[br]
を小経といい、兼ねて「論語」(一二七〇〇字)、「孝経」(一九〇三字)に通じなくてはならぬ(「旧唐書」百[br]
官志には「論語、孝経、爾雅を中経に附する」という)となっている。しかるに宋になって、「論語」のほか「礼記」[br]
から「大学」「中庸」をとり出し、「孟子」を加えて、「四書」を必修科目としたことは大きな変化で、「孟子」[br]
の如き従来は諸子の中にあったものが、経としてとりあつかわれるに至った。而して更に五経[br]
が加わって、「五経四書」の名において、「易」の「程伝朱義」、「書」の「集伝」、「詩」の「集伝」、「春秋」の「胡伝」、[br]
「礼記」の「集説」と「大学・中庸」の「章句」、「論語」「孟子」の「集注」とが天下に風行した。もっとも宋時[br]
代においても、古注の流伝が絶えたわけでなく、相台岳氏本「五経」といえば「周易」の「王弼・韓康[br]
伯注」、「尚書」の「孔氏伝」、「毛詩」の「毛伝鄭箋」、「春秋左伝」の杜預の「集解」、「礼記」の「鄭注」を合[br]
せたもので、その五経の「正義」も宋の初めはいわゆる単疏本として、経注はただ起止のみを標し、[br]
「疏」のみを録した体裁のものが刻せられ、今にその形を見るべきものは、「周易」「尚書」「毛詩」(不全)[br]
「礼記」(不全)「春秋」のほか、「公羊」(南海潘氏蔵 )、「爾雅」(静嘉堂 )、「儀礼」(汪士鍾刊本 )、「周礼」[br]
(清原家?)の多数に上り、大体は北宋の刊本を南宋以後に複刻または補修したら[br]
しきものであり、或は更にその鈔本のみを伝えるものもある。しかし、単疏本では一一経[br]
注本と対読するという不便を免れないので、経注疏の合刻本が作られたのは自然のい[br]
きさつであるが、その先鞭をつけたのは、いわゆる越刊八行本、すなわち両浙東路茶塩[br]
司で南宋の乾道、淳熙ごろ「周易」と「周礼」、つづいて「尚書」、紹煕中には「礼記」と「毛詩」、[br]
慶元中に呉興の沈中賓が「左伝」を、これと前後して「論」「孟」ができたらしい 長沢氏「注疏本考」 。[br]
さらに「釈文」を加えるときは一層便利に[br]
なること故、いわゆる附釈音十行本が宋末に刊行され、その「毛詩」および「左伝」(補刻アリ)が足利学校[br]
に所蔵されているが、全部刊行されたかどうか明かでない。その外の零本としては、わが図書寮(ずしょりょう)[br]
の宋本「論語注疏」八行本が別系統であるほか、金版にも十三行本、平水刊の「尚書」、およびこれと同系[br]
統の「毛詩」、および「論語」(玉海堂本 )があり、別に附釈音十行本の形を襲って元代に「易、[br]
書、詩、周礼、礼記、左伝、公羊伝、穀梁伝、論語、孟子」の十経の彙刻本があったが、後[br]
に明の正徳ごろに、これに「儀礼」(ただし単経本に「儀礼図」「儀礼旁通図」)と「爾雅」(別の元刊九行本)とを加え、「孝経」を新に[br]
刻し、かくしてはじめて十三経の数をそろえたわけであるが、さらにその「儀礼」をいわゆる陳鳳梧本[br]
によって補充し、嘉靖年中に閩中で、李元陽、江以達の校刊したいわゆる 九行 閩本が[br]
でき、さらに万暦中、北京国子監(北監)で、閩本を復刻した 九行 監本ができた。当時までも、[br]
正徳十行本の版は大体南監に保存されていたらしい。さらに崇禎中に、常熟毛氏の汲[br]
古閣で校刻したいわゆる毛本ができて、「十三経注疏」の名が天下に弘(ひろ)まった。[br][brm]
清朝の経学はまさにこの時代から芽生えたものであるが、清朝の経学をひらいたのは云う[br]
までもなく顧炎武であって、明の遺臣を以て任じ、生涯放浪の旅をつづけたが、その学問は[br]
同時の黄宗羲とともに、宋儒の精神教育を忘れないとともに漢儒の実証的研究法を加え[br]
たもので、一には明代における空疏の蔽を闢いたものである。しかし、[br]
その顧炎武を驚かしたのは、顧炎武が[br]
山西の太原に来たときに面会した閻若璩であって、顧炎武の「日知録」のうち、数ヶ条をその[br]
場で改訂したという[nt(050150-0460out01)]。閻若璩の業績として、世に名高いものは「尚書古文疏證」であって、かつて[br]
朱子が直観的(ちょっかんてき)に捕えた不合理を事こまかに実証したもので、その書物は未完成では[br]
あるが、学説は今日に至るまで揺ぎないものと云われる。閻若璩がその研究の指針[br]
とし、坐右の銘としたのは、陶弘景と皇甫謐のことばで、「一物不知、以為深恥」「遭人而[br]
問、少有寧日」というものであったと云う。いかにその学問が実証的であったかが窺われる[br]
と思う[nt(050150-0460out02)]。[br][brm]
しかし真に漢学の伝統をひらいたのは、何と云っても蘇州に栄えた恵氏三代の学を待[br]
つべきである。恵氏三代とは、恵周惕 研渓 、恵士奇 半農人紅豆 、恵棟 定宇松崖 のことで、就中(なかんずく)、[br]
恵士奇、恵棟の二代は学説が精密になり、士奇の「易説」「礼説」「春秋説」など、恵棟の[br]
[050150-0460out01]
「四書釈地」
[050150-0460out02]
張爾岐「儀礼鄭注句読」、顧棟高「春秋大事表」、臧琳「経義雑記」
「周易述」「易漢学」「古文尚書考」「九経古義」など、今に学者の指針となっている。士[br]
奇が幼い時、「廿一史」をよんで「天文志」「音楽志」をよんだが、好くわからなかったという所から、翰[br]
林に入ってから西洋天文学を研究したり、音楽を研究したりして、少しでも不審のないようにつ[br]
とめたことや、恵棟が漢易の如き象数の複雑なものをいとわず、又、明堂などの如き古代[br]
の礼制で繁瑣な問題を伴ったものを研究したのも、正しく一連の学風であると云え[br]
る。後にのべる戴震は、恵棟より二十六歳の後輩であったが、乾隆二十二年 1757 ごろ(恵棟六十一歳?) [br]
北京からの帰途、揚州の都転運使盧見曽雅雨 のところで、恵棟にはじめて会った。そ[br]
の時恵先生は戴震の手をとって、むかし亡友呉江の沈冠雲(彤、「周官禄田考」の著者、恵棟より九歳の年長)[br]
が自分に、休寧に戴某というものがあって、前からよく知っているといったが、冠雲は君の著書を[br]
読んでいたらしいと云った。戴震は、少年のころの不たしかな考がどうして沈彤のような老[br]
輩の目にとまったかを怪しみ、わが名を知ってくれた沈彤はすでにこの世の人でないことを悼む[br]
とともに、幸に恵先生に謁したことを喜びとしたが、その明年には先生が蘇州で病没[br]
され、その後数年を経て先生の「授経図」を拝観して「題恵定宇先生授経図」という[br]
文を書いた。その文の要点をあげると、[br]
人はよく漢儒の経学は故訓を主とし、宋儒の経学は理義を主とするというが、この説[br]
は誤っている。そもそも理義といえば経を棄てて、ただ胸臆によるもので、人人己の考を以て[br]
進むことができよう。しかし、それは経学ではない。ただ胸臆のままでは聖人の理義にあたらぬから、[br]
古経について求める。ところが古経は遺文が尽きなんとしており、古今は[br]
懸けへだたっている。そこで故訓について求める。故訓が明かになれば古経が明かになり、古[br]
経が明かになれば聖賢の理義が明かになり、わが心中自然の理義も明かになる。聖賢[br]
の理義というものは結局典章制度に備わっている。松崖先生が経を研究されるに専[br]
ら学者が漢の経師の故訓にひたって、三古の典章制度を考えるように指導された。[br]
そこをやってから理義を推求すれば、たしかな根拠を得るからである。それを故訓と理義[br]
と二つに分けてしまえば、故訓は理義を明かにするものではなく、故訓の用はどこにあろう。又、[br]
理義が典章制度に基礎をおかなければ必ずや、異学曲説に溺れてしまう。これは先生[br]
の教を去ること遠いかなである。[br]
と云うのは、当時の漢学家の根本態度を明快に説いたものとして、今日も紳に書すべきもの[br]
と思う。恵棟直伝の弟子として顕れたのは余蕭客 古農 と江声 艮庭 で、余古農[br]
ははじめ宋の陸佃の「埤雅」や羅願の「爾雅翼」の誤を正して「注雅別鈔」を作り、詩人沈徳潜[br]
を感心させたが、松崖先生は、これらの書物は歯牙にかけるに足らないものだから学問する[br]
なら大者遠者をつとめよと諭されて、遂に弟子入りをし、生涯の大著として「古経解鉤沈」[br]
の一書をのこした。江声も「古文尚書」のことに興味をおぼえて、「尚書集注音疏」を作り、全部[br]
篆書を以て書いたことは著名である。[br][brm]
これよりさき、安徽の婺源(ぶげん)の江永 慎修 は異色のある学者で、ほとんど独学を以て歩算・[br]
鍾律・声韻に通じ、又、礼に詳しく、「周礼疑義挙要」(「礼記訓義択言」)はじめ夥しい著[br]
述をのこしたが、田舎の先生として終り、官にも就かなった。しかし、その門下から戴震や金榜[br]
の如き逸足が現れたことは、まことに造化の妙というべきであった。中でも戴震 東原 は歴算・[br]
考工のことにも詳しかったが、乾隆二十七年 1762 に挙人となり、始めて京師に上ったが、逆旅に困(くる)し[br]
み、人は狂生と称し、その日の生活にもさしつかえたが、幸に当時翰林にあった銭大昕に認めら[br]
れ(銭氏は五歳の年少)て、天下の奇才と折り紙がつき、秦蕙田の「五礼通考」の天文の部を編輯したり、[br]
王安国の家塾に頼まれて、その子念孫を教えたりして、紀昀、王鳴盛、王昶、朱筠などとも[br]
交際するようになり、三十八年1773には四庫全書館纂修官として経部を分担したが、間[br]
もなく病んで卒した。この戴震に対して、弟子の礼を執ったのは段玉裁であって、このこ[br]
とは小学のくだりで述べる。段玉裁は元来江蘇金壇の人であったが、早くから官を[br]
辞し、親を養わんがために蘇州に寓居した[nt(050150-0500out01)]。当時の蘇州はまことに学問の淵薮たるに[br]
恥じぬありさまで、本地では江声をはじめ鈕匪石、顧千里などがおり、寓公には銭大昕が[br]
紫陽書院の山長であったのをはじめ、王鳴盛、段玉裁あり、時には詩人の袁枚や王昶[br]
なども遊びに来るというありさま、ことに太平日久しくして蘇州は最も富み栄え、あまたの[br]
蔵書家や風流人がその間に点在し、あの風光と相待って、文酒の会も常に開かれてい[br]
たようである。元来、本地の人の学問は大体穏和であるが、寓公の学問はとかく新機軸[br]
を出したがるものであるが、この頃の蘇州の学問は江声の如く、この土地に生長し、しかも流も[br]
深い恵氏三代の学を承けて、自然、家法を重んじて保守的になるものと、戴震の流れを[br]
[050150-0500out01]
「古文尚書撰異」、「詩経小学」、「周礼漢読考」