講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
すぎない。ただ一つ相当自由な思想が許されたのは、経を横に貫いた緯と、緯にからまる[br]
讖との方面で、これらは経とのつながりにおいて、一種の自由思想をカモフラージできたため、[br]
迷信から科学までかなりな展開を示したらしいのであるが、大体前漢の哀帝・平帝ごろ[br]
に現れたが、君主の統治に害をなすため、遂に抑圧されてしまった。したがって、当時の著作も、[br]
揚雄の「法言」の如き、桓譚の「新論」、王充の「論衡」、王符の「潜夫論」など、要するに儒教[br]
の範囲を出づることがなく、ただ「新論」や「論衡」の科学精神は、たしかに当時の思想界の進[br]
歩した一面を代表したものと云える。[br][brm]
しかし、支那人の思想が全く儒教に束縛されきってしまうことはできず、又、全然儒教か[br]
ら脱離することも許されない時代において、その唯一の活路は、儒教の経典に寄生して自己の[br]
思想を発揮することであって、こういった企ては、魏から晋にかけて、王弼・何晏たちの如き[br]
新思想家の作った経説となって現われ、而かも当時漸く漢の政治上の束縛がくずれて老[br]
荘の如き消極的思想が天下にみなぎったことは、勢いかかる見地から経典を読みなおす[br]
ことにもなったわけで、「易」の注を書いた王弼が同時に「老子」の注を書いたということでも、その[br]
間の消息を知ることができよう。かくして老荘の注釈が轡を並べて現われ、清談的な玄[br]
虚を尚ぶ一種の哲学が一世を風靡した。ことに政治に関係のない支那社会のあいだでは、勿[br]
論、信仰や思想の束縛されるはずもなく、かくして清談者流の方外的思想は十分に発[br]
展する天地を見出したのである。[br][brm]
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ここに仏教が支那に渡来したのは、後漢の明帝の永平年間で、「四十二章経」が、摩騰迦・竺[br]
法蘭の二僧によって、洛陽の白馬寺において繙訳されたと言い伝える。その伝説の真偽[br]
は別として、そのころから仏典の支那訳が続続作られるとともに、漸く支那人の間に浸みこみはじめた。渡来の[br]
最初は西域の僧侶が専ら導いていたのにたいし、遂に[br]
支那人の間から、魏の朱士行の如き、根本研究に没頭する学者も現われ、その献身的[br]
努力によって支那にもたらされた、いわゆる「放光般若経」が翻訳されるに及んで、かの釈道安がその思想[br]
を宣布した。道安は元来仏図澄の弟子で、襄陽に居たのであるが、前秦の苻堅がわざわざ襄陽を破って[br]
これを長安に迎えたといわれる。更に苻堅は、道安のすすめにより、亀茲(きゅうじ)から羅什三蔵を迎えようとしたが、羅[br]
什が凉州まで来た時に前秦が亡び、道安もなくなり、次ぎに出た後秦の高祖、姚興が遂に羅什を長安に[br]
迎え、かくして「中論」「十二門論」および「百論」などが訳出されたため、般若の教理が始めて明かにされ、般若・法華を中心として新しい哲学を授けたので、その門人たちの間から、三論宗が起った[nt(050150-1830out01)]。[br]
これよりさき南朝にあっても、支遁道林は東晋の哀帝に召されたが、後にその師たる竺[br]
道潜 即竺法深の後 を慕って紹興の山中に隠れたが、師弟ともに般若を研究したという[br]
から、当時の支那思想界の最関心事は、般若の理解に在ったらしい。また、釈道安の[wr]門[br]
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「維摩経」の翻訳
人[/wr]たる慧遠(えおん)は、廬山に住して三十年山を出なかったが、同時の名流たちは競って交を[br]
納れ、権勢を持った政治家たちも、その力を加えることができなかった。かくして慧遠は白蓮社[br]
を始めて、多くの賢人たちを左右に擁し、念仏の工夫を以て衆をひきい、その仏教史における[br]
足跡は偉大である。下って羅什の系統をはるかに引いた高麗の朗大師が、三論宗を南[br]
朝の梁に伝えて、武帝に信仰され、その後に吉蔵即嘉祥大師によって江南の三論宗は大成され[br]
た。[br][brm]
当時なぜ、かくも「般若経」が支那に歓迎されたかと云えば、支那の思想界が最も沈酔していた老荘[br]
思想と一脈相通ずるからであって、仏経の「空」はしばしば老荘の「無」によっておきかえられた〔これを格義という〕[br]
くらいで、これを受けいれるだけの空気が十分に醸されていたからで、自然、この両者の間にいろいろ[br]
な関係を生ずる。[br]
その一つは、仏教ももとは支那に始まるという空想によって、その体面を[br]
保とうとするもので、即ち老子が夷狄に入って仏となったという説は、後漢の桓帝のころ、襄楷[br]
の上奏の中にさえ見えていて、後の「老子化胡経」の源となっている[nt(050150-1840out01)]。その一つは、仏教に対する大[br]
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或は又「笑道論」の如き論争あり
規模な反撃である。これより先き重要なことは道教の成立であって、道教そのものは、元来極めて低[br]
俗な民間信仰乃至不老長生の術を基礎にした五斗米道乃至太平道であって、単に民心を収攬するだけ[br]
を考えていたものの如くで、「老子」五千文を誦読する点が、道家の学説とわずかに連[br]
絡するだけであったらしい。しかしこの五斗米道の実際的勢力は極めて大きく、その信仰を以て[br]
一種の宗教王国的な政権をさえ樹立した。その点はどこか初期の仏教が全く宗教的に[br]
輸入されたのと相通ずる所があって、自然、仏教の制度や典礼が道教に採用された。か[br]
くして道教をして宗教らしい色彩を与えたのは、北魏の冦謙之の力であると云われる。この[br]
冦謙之こそは仏教反撃の急先鋒で、北魏の武帝の時、有名な廃仏の事件が起こった。[br]
しかし、これは単に一時の反動であって、冦謙之が死ぬとともにこれが復興され、大同雲崗の[br]
石窟や洛陽龍門の石窟の如き偉大なる信仰藝術ができた[br]
ことは、むしろ仏教の幸運であったともいえる[nt(050150-1850out01)]。[br][brm]
かくの如く当時は仏教思想が老荘思想に代って支那を風靡したので、老荘はもとより、支那における経書にしても、悉く仏教[br]
的解釈乃至は仏教における研究法が採用され、これが唐の「正義」における研究法の[wr]藍[br]
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北周武帝毀道仏
本[/wr]となったのみならず、六朝の義疏の中には、孔子を教祖といい、すべて「老」「荘」乃至「易」「中庸」にあ[br]
らざれば哲学でなく、その哲学もまったく仏教的哲学で蔽われていた。しかし、かかる外来思想[br]
によって、支那人自体からは到底期待できなかった清新にして而かも深遠な思想[br]
生活が、支那人の間に行われたことは、極めて重要な意義を持つものであって、後の宋学[br]
の出現における重要な温床ともなった。[br][brm]
唐という時代は、皇帝が李氏であり、老子の姓も李であるところから、老子に対する尊信が厚く、[br]
自然、道教も保護された。老子を追封して太上玄元皇帝といい、かの「史記」の列伝が伯夷に始まるのを、老子に改めた如きも、その尊[br]
信の一例であり、玄宗の時には、玄学博士をたてて、「老・荘・列子」を習わしめた。かの諸子がすべて“―経”[br]
と称せられたのは正にこの結果であり、仏教の「大蔵経」にならって「道蔵」が作られ、これらの諸子もこの中に収められた。又、唐時代の公主や妃嬪が多く入道して女真(にょしん)になった[br]
のもこの表われで、かの楊貴妃が太真というのも、入道した時の名に外ならない。これよりさき、仏教[br]
では教理上、更に開展をつづけ、殊に北朝以来、「法華経」を中心とし、「三論」を輔助と[br]
する天台宗が起こり〔就中(なかんずく)、隋の智顗の遺著たる「法華玄義」「法華文句」「摩訶[br]
止観」 法華の三大部 が、唐の初めに公表され、これがわが伝教大師によって将来され、[wr]比叡[br]
山[/wr]にその道統を守っている〕、一方、「涅槃経」〔や「金光明経」〕が新に北方で翻訳され、更に法顕の将来[br]
によって江南でも「大般泥洹経」として訳出され、又、江南では「華厳経」〔「勝鬘経」〕が訳出され、[br]
かくして「般若」「法華」「維摩」「華厳」「涅槃」の如き重要な大乗教典が正しいテキストに[br]
よって翻訳されたことは、如何に支那に於ける仏教学の興隆を助けたかわからないし、又、その[br]
相互研究と系統的排分によって支那仏教を樹立しようと務めた。〔このいわゆる教[br]
学法を教相判釈といって、「涅槃」および「成実論」の研究者の間から起った。〕隋の文帝が[br]
北周の廃仏とは反対に、まったく仏教政治を行ったことは、たとい一時とするも、儒教まで圧迫[br]
をうけたことであって、わが国から正式に遣隋使を派遣したのは正にこの頃であるから、わが国の[br]
仏教尊崇もそのいわれなしとしない。[br][brm]
ここに唐の太宗年間にひそかに渡天した玄奘が、その正確な語学力にものを云わせ、そのもたらした経典を翻訳し、旧訳の缺[br]
点を指摘した結果、在来の旧訳による諸宗派には、致命的な打撃を与えた。この玄奘[br]
の門人が、有名な慈恩大師で、玄奘訳の「成唯識論」を研究して、遂に唯識の宗門をひ[br]
らいた 法相宗(○○)ともいう 。当時は、南に天台(○○)・三論(○○)あり、北には三階・浄土・華厳宗(○○)があったが、[br]
就中、華厳宗は、唐初の法蔵によって大成されたもので、支那思想界に大きな足跡を残し[br]
た。これは支那仏教学においても、恐らく最も深度に達したものといえよう。かかる深邃な教理を[br]
もった華厳が、幸にも山西省五台山の信仰とむすんで、支那に於ける信仰の中心ともなっ[br]
て行った。[br][brm]
かかる純然たる印度仏教の支那化の外に、新しく支那人の問題としての仏教が考えられたのも[br]
当然であって、ことに学問としての仏教より、実践修行としての禅定に精進する傾向が増大し、自己の[br]
本性を反省する禅宗や、己を空しくして念仏にすがらむとする浄土教へと展開した。禅宗[br]
は達磨に始まるといわれるが、この宗派は教理としての系統よりも“不立文字”の精神によったも[br]
ので、教宗に対する禅宗、法師に対する禅師として、独自の地歩を占めた。中でも唐の[br]
神秀・慧能の両傑僧の力により、北宗・南宗それぞれに栄えたが、天宝の乱における長[br]
安・洛陽の没落や、会昌年間の廃仏、唐の滅亡、さては後周の世宗の仏教大整[br]
理などによって、北支那の仏教は俄に衰頽し、多年、長安・洛陽に蟠拠した華厳・法[br]
相および北宗禅が、ひとしく根拠地を失った。しかし、南支那では、天台や〔三論は早く衰えた〕[wr]南宗[br]
禅[/wr]が江浙の地に残存し、ことに形式を尚ばない禅宗は、宋代を通じて仏教界の霸者とな[br]
った。[br][brm]
唐の中世は天下の治安が乱れて、社会上にもいろいろな変動が起っているが、学問としても、従来[br]
の如き注疏に束縛された研究に亀裂を生じ、文学としても、形式的な駢文をすてて古文が起[br]
ったが、思想的に見ても、漸く儒学の徒の中から、性論に興味を持つものを出した。その一人は古[br]
文を提倡した韓愈であったが、彼は仏教を極端に排撃した国粋論者として、「原道」の如き、[br]
その気魄を窺うべきであるが、思想としての深みはなく、むしろその門人、李翱の「復性書」に、[br]
「中庸」や「大学」によって性論を立てたもので、まさしく宋儒の先駆者であった。宋に入っても「易」や「中[br]
庸」を中心とする学者が相つぎ、范仲淹およびその門下の孫復・胡瑗の如き、その錚錚たる[br]
ものであったが、いよいよ宋学としての特色を発揮したのは、周敦頤・張載に始まる。[br][brm]
周敦頤は「太極図説」と「通書」とを著わし、張載は「西銘」を著わしているが、「太極図説」は宇宙の生成を論じて道徳の根源を明かにし、[br]
支那の経典に本づいて新しい[br]
学問の系統を立てたものであるが、武内義雄博士の指摘される如く、その「太極図説」の形式は、まさに[br]
唐の禅僧宗密の「禅源諸詮集」にも見えているし、道家の方面にも、更に早くかかる形式があるといえば、その源流は道仏二教の何れから来たにしても、儒家のみによらない形而上の説明を試みたと思われる。[br]
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この二家は未だ宋学としては発端であって、これを整頓して体系をつけたのが、程明道・程[br]
伊川のいわゆる二程子の哲学である。二程子に至って性と理とが一致し〔性即理〕、いわゆる窮理尽性[br]
の学問ができたわけであるが、これも華厳あたりの理と事とに相応すると云われる。又、[br]
伊川のように、理一分殊の説を唱うることも華厳哲学に本づいて儒教思想の系統[br]
をたてたものの如くである。朱子に至っては、勿論仏教も研究したらしいのであるが、むしろ[br]
仏教的臭味を除いて純粋な儒教的精神を立てることに努力したが、その学説の特色[br]
は、つとめて二元的に物を考え、世界に対しては理と気とを対照し、人間については性と情とを[br]