講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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清朝の学風を開いた顧炎武は、特に小学に力を用いたが、就中(なかんずく)、説文学について、明一代の「説文」[br]
に関する大著であった趙宦光の「説文長箋」をとりあげて、猛烈に攻撃を加えている。たと[br]
えば、「説文」の「叩」の字のところに「京兆藍田郷」としてあるのに「箋」を加えて、「地近京口、故从口」といった[br]
のを駁して、京口は今の鎮江で藍田とは似てもつかないのに、かかる附会の説明をしてい[br]
るとて、「この本の中の会意の説明は、すべて京口の類である」と酷評し、又、晋の献帝の故[br]
事を引いているが、晋には献帝という天子がなく、これはその中に「貢献」という献の字があったので、[br]
早速献帝としてしまったので、明人は本を読むのにその場所だけ見て前後を見ないと罵っ[br]
ているのは、明の学問が如何に粗雑に流れ、又、これを矯正することが如何に肝要であるか[br]
が窺われる。しかし、顧炎武その人の見た「説文」といえば、全く李燾の「五音韻譜」[br]
即ち「東」より「甲」に至るテキストで、而かも李燾の前後「序」今「文献通考」にのすを外して、大[br]
徐本の「序跋」を加えたものであったから、顧炎武はこれを誤解して、「「説文」の原本どおりの[br]
もの(「一」―「亥」)は今見ることができぬ。今四声によって並べてあるのは、徐鉉たちの挍[br]
定したものである」といって、徐鉉の罪に帰している。その実、大徐本は決して亡びたわけ[br]

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でなく、かの常熟汲古閣の毛氏が北宋板の「説文」真本を手に入れたのを機会に、康煕□□ [br]
年これを開板し、さらに乾隆年間に安徽学政となった朱筠がこれを重刻して天下に[br]
弘めた。又、小徐本も幾多の学者の苦心により、次第に底本となるべき鈔本が集められ、[br]
更に四庫全書館に入ったテキストを本にして、乾隆中、杭州の汪啓淑がはじめてこれを開板し、[br]
更に道光中、祁寯藻が江蘇学政となった時、学者に命じてこれを校刻させて天下に[br]
布いたが、その際の新しい資料は、蘇州の汪閬源の藝藝書舎にあった宋版であって、それはか[br]
つて黄丕烈の百宋一廛にもあり、更に溯れば「説文長箋」の撰者たる[br]
趙宦光の家にあった宝であったことがわかった。この宋本は今、鉄琴銅剣楼の[br]
所蔵で、「四部叢刊」の改換善本に収められているが、汪閬源が祁氏に借したのは三十二[br]
巻から四十巻までで、それしかないといって断っているが、「四部叢刊」によれば、三十、三十一の両巻[br]
も宋刊本で揃っていたわけで、蔵書家が秘蔵して人に見せたがらない心もちがよく[br]
現れている。その外、清朝の初期には、古い字書、韻書の校刻が盛に行われ、特にその[br]
ことを斡旋したのは朱彝尊であって、かの汲古閣の「説文」大徐本の刊行も、その[wr]勧[br]

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告[/wr]によったものだと云われ、又、張士俊にすすめて、「広韻」「玉篇」ならびに賈昌朝の「群[br]
経音辨」、郭忠恕の「佩觽」、李文仲の「字鑑」あわせて「沢存堂五種」を校刊させ、[br]
又、曹寅にすすめて、「集韻」「類篇」「礼部韻略」および「広韻」「玉篇」あわせて「楝亭五種」[br]
を校刊させたのは、すべてその力であると云う「汗簡跋」。[br][brm]
顧炎武の最も大きなしごとは古音学の研究であったが、その当時はかの「古今韻会挙[br]
要」の一百六韻がのさばっていて、二百六韻すら知る人がない。たまたま顧炎武は明の経廠[br]
本の「広韻」を手に入れて非常に喜び、今の韻の誤りを「唐韻」によって(「広韻」即ち「唐韻」[br]
と考えた)訂正できると云うので、これを複刻したが、何ぞはからんその「広韻」は元ごろの坊[br]
肆で簡単にした粗末な本によったもので、真の「広韻」でなく、又たとい真の「広韻」であって[br]
も、それは「唐韻」や「切韻」と一の系統だというだけで、韻目も決して同じでなかったが、そんなこと[br]
は夢にも知る由もなく、そのテキストにより「唐韻」を知り、更に「詩経」はじめ古代の韻文の押韻法を分類[br]
して、むかしは十部に分けてあったものだという議論を発表した。ここにいわゆる古代韻文[br]
の押韻法に関する研究は、早くも六朝のころから発生していたことは、陸徳明の[wr]「経典[br]

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釈文」[/wr]の中に、「詩経」の「邶風」の「燕燕」首章の「燕燕于飛、差池其羽、之子于帰、遠送于[br]
野」につき、「羽」と「野」とが押韻するはずであるが、六朝人の音韻では、これを同韻と認めがたか[br]
ったので、ある学者は「詩経」の作者はこの時、野の字を羊汝反と協韻して作ったの[br]
だといい、ある学者は「古人(○○)は音韻(○)の区別が緩(○)やかで、羽と野とが同じ分類にふくま[br]
れていたのだ」といって討論した話が見えている。この協韻という学説が大体後まで遵奉[br]
されて、宋の呉棫 才老 がこれを詳に研究し、朱子の「詩集伝」はまさに呉説によって、協韻[br]
を掲げてあるが、その実、協韻される文字はいつもきまっているということは不思議な[br]
ことで、「詩」の作者がそれらの文字に出あうたびに、わざわざ違った発音にして韻をふんだ[br]
とは考えにくい。そこでその疑問が元の戴侗に至って解決され、たとえば野の字を羊汝反とよむ[br]
のは古の正音であって、協韻ではなく、これを今音の如くよむのは後世の変化した音であ[br]
る、ということになった。そこで従来、協韻の資料としてあげられたものが、看かたを転じてすべ[br]
て古音の資料として活用され、かくして明の陳第の「毛詩古音考」「屈宋古音義」に至[br]
って、それが一一整理され、さらに顧炎武に至って、一一これを「広韻」 即ち「唐韻」 と比較して、[br]

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「唐韻」の分類は「詩経」に適用しがたいところから、「唐韻」二百六の中で「詩経」の時は合併して用[br]
いられたものをとり出して十部としたが、若干の韻は「唐韻」では一つの韻として取りあつかわ[br]
れているが、実はその中の反切を研究すると、自ら二種に分たれ、その中の一種が古音の[br]
ある部に属し、他の一種が古音の別の部に属するような現象を解明した。逆にいえば、[br]
古代の詩では一つの韻として取り扱われたものが、「広韻」の時になると細かく二、三種に[br]
分れたり、古代では別の韻になっていたものが、その一部分づつをとりあつめて、「広韻」では一[br]
韻になったりしているということで、ひいて古代の音韻現象を解明するに極めて重要な研究[br]
であった。その著すべて五種、「音学五書」として不朽の名誉を荷っている。[br][brm]
顧炎武の学風は考古と評せられ、韻文の資料を精密にあつめ、どの韻文とどの韻文ではどの字と[br]
どの字とが押韻されていたということを根本としたものであるが、自然、音韻自体の現象に[br]
ついては未だ十分審訂の暇がなかった。この審音的研究法を起して、顧学の缺を補っ[br]
たのはかの江永であって、顧炎武が単に用例のみによって「唐韻」を打破しようとしたのに賛[br]
成せず、「広韻」そのものの組織を精密に研究して、音理から用例を批判した結果、[wr]顧[br]

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氏[/wr]がみとめて同韻としたのが、案外押韻されたのでなかったりしたような現象が発見され、十部は[br]
十三部に増され、自然、毎部の中の音韻の範囲がかなり単一化された。元来、顧炎武は[br]
自分が十部に分けただけあって、「経典釈文」にいわゆる「古人韻緩」をあげて名言としていたが、江永は、[br]
顧氏が「古人韻緩」を過信したといっているのは、正しくその缺陥をついたと[br]
云える。江永は「古韻標準」のほか「四声切韻表」を著して「広韻」の組織を研究し、又「音[br]
学辨微」を著して、音韻学の理論を説いている。[br][brm]
江永の門に出た戴震は、経学においても出色の学者であったが、音韻学についても、その[br]
師江永の「四声切韻表」と「古韻標準」とを併合し、古今音に跨る雄大な考を以て[br]
「声類表」を作製したが、これは戴氏が二十五歳にして先ずその序を作った「転語二十[br]
章」を実際に示したものらしく、子音を喉・吻・舌・歯・脣の五大限と、そのそれぞれに発・[br]
送・内収・外収(即ち今の国音ならば破裂音の無気 発、同有気 送、母音又は鼻音[br]
 内収 、摩擦音 外収 )の四小限とを設け、更に開合・内外・軽重・清濁の分を乗じた、[br]
極めて複雑なものであり、而かもこれを以て支那語の音韻転化の法則を考えるつもりであっ[br]

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たらしい。ただこの書物が、戴氏の没後はじめて刊行された遺稿であり、而かもその音転の[br]
理を説く説明の辞がないのは極めて遺憾である。又、その「声類考」は、一種の音韻学[br]
史として初心の人の指導書とするに足る。[br][brm]
実は音韻学史における足跡は、戴氏よりもその門人であった段玉裁の方が一足さきで[br]
あって、はじめ都に出て顧炎武の「音学五書」を読んで畏怖したが、後、江永の書をえて、これを[br]
読み、顧氏の業績にもなお缺陥のあることをさとり、さらに自分で試みたところ、江永の業[br]
績にもなお補うべきことをさとり、遂に古音十七部説を唱えて「六書音均表」を作りあげた。[br]
ことに従来、誰も一類と考えていたものを、支・脂・之の三類に分けたことは、段氏自身も[br]
終生尤も得意としたことであった。その外、古は去声がなくて平上入の三声であったという[br]
如き大胆なる説をも考え、すべてこれを先生の戴氏に就正したのであるが、戴氏は初めこれを[br]
承認しなかった。しかし後に翻然として段説を採用し、かの「声類表」の九類二十五部説には、[br]
たしかに支・脂・之の区別を採用しておる。尤も二十五部説とは、単に在来の顧・江・段諸家の[br]
如く平声だけについて数えたのではなく、平上去と入とを合計したもので、而かもその[wr]平上[br]

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去[/wr]と入との関係は、入声を中心として有尾韻と無尾韻とを対転せしめたもので、たとえば、[br]
膺―億―噫、翁―屋―謳というような関係を発見したことは、先人未発の見と[br]
いうべきで、その後、その学説はその門人の王念孫に整理されて二十一部説となり、又、孔広森[br]
の手を経て陰陽十八部説となった。元来、王念孫は、段玉裁とほぼ同時に支・脂・之の区別を[br]
発見したらしいが、その発表がおくれたためにその功は段氏に帰したといわれ、孔広森は従来一[br]
類として疑われなかったものを、東・冬の二部に分けて新しい貢献を遂げた。さらに少しく遅れ[br]
て江有誥が現れ、やはり独力でほとんどこれらの先輩の塁を磨するだけの業績をあげ、段[br]
玉裁からいたく重んぜられたと云う。これも当時の古音学の常識がすこぶる向上していた[br]
からこそで、辺陬の地で独学をしても相当の成績をあげえたに相違ない。[br][brm]
更に音韻学における別途の功績をあげたのは、史学者として有名な銭大昕であって、その[br]
「十駕斎養新録」にのせた「古無軽脣」と「舌音類隔不可信」との説は、古代の[br]
音韻において先人の注意しなかった古紐の問題をとりあつかったものとして将来の学問に[br]
重大なる示唆を与えた。就中、「古無軽脣」というのは、古は「幫滂並明」の重脣音と[wr]「非[br]

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敷奉微」[/wr]の軽脣とが一つであって、即ちすべて重脣であることを証明したもので、あまたの[br]
実例をあげていて、その両者が一つであることはたしかにわかるが、なぜ重脣に統一され、[br]
軽脣には統一されないかと云う理由は一切書かれてない。しかし今日の学問から見ても、その[br]
結論は決して誤っていない。なぜかかる結果をあげたかといえば、これも支那の学者の強い直観のはたらきに帰する外はな[br]
いと思う。さらに舌音の問題は、むかしは「端透定泥」のいわゆる舌頭音ばかりで、「知徹澄[br]
娘」の舌上音なるものは分離していなかったというのである。[br][brm]
段玉裁の最も大きな業績は、「六書音均表」よりむしろ「説文解字注」にあったといって好[br]
いことで、段氏が「説文」の注解を作ろうと志してから、実に三十年の歳月を費したもので、未だ[br]
その書物の完成しない中から多くの学者がこれを待つこと大旱の雲霓を望むが如く、あるいは[br]
その原稿を借りて引用したり、あるいは何とかその完成を見るように援助を申出でたりした[br]
美しい物語に包まれているが、幸に嘉慶二十年 1815、多くの知友門人の手によって刊行され、而か[br]
もその年、段氏は八十一歳を以て逝去したのである。すべて古典の挍定本、注釈書を作る[br]
ことは、当時の学界共通の目標であって、「説文」においても、桂馥の「説文解字義証」の如き[wr]大[br]

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著[/wr]もこれに次で刊行され、又「説文」の文字をその形声の「声」によって分類して、古代の韻文[br]
にない文字をも古韻学上に登場させたことは、すでに「六書音均表」でも計劃されたことで[br]
あるが、更に精密にこれを試み、或は「説文」を在来の形声の「形」中心から「声」中心に編纂が[br]
えをした「説文声類」「説文諧声譜」乃至江沅の「説文解字音均表」のようなものが続続現[br]
れた。これは一面に於て、従来の支那の文字が左偏を中心として分類もされ系統もつけられてい[br]
たことを是正して、右旁を中心として分類もし、系統もつけようとする企てを趣(うな)がしたものと[br]
云える。元来、支那の文字の語原をその発音に求める学説は、「仁、人也」「義、宜也」というよう[br]
な訓詁の中に寓せられていたのであるが、それを相当大規模に考えたものは、漢の劉煕の「釈名」[br]
であって、「日、実也。月、缺也。星、散也」という如く、一切の言語にたいし、語源的説明を加えたことは[br]
従来に見ない企てであったが、その後はあまりこの方向に発達しなかった。しかるに宋時代にな[br]
って、王安石が「字説」を作るに至り、形声字を大体会意として取り扱い、たとえば「人為」[br]
が「偽」であり、「人立」が「位」であり、「公言」が「訟」であり、「同田」が「冨」であり、「分貝」が「貧」である、というよ[br]
うな説明を加えたが、ことに宋の王観国の「学林」には、たとえば「戔」というのが小という[wr]意[br]