講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
しき最初のものであり、而かも極めて大規模なもので、すべて“九千三百五十三字”、これを篆文[br]
小篆 を以て記載し、別に大篆即ち籀文又は古文などの異体文字の重複するもの、“一千一[br]
百六十三字”を加え、これを偏旁によって「一」より「亥」に至る“五百四十部”に分類し、それぞれの文字[br]
について説解を加え、先ずその意義を説き、次にその文字の構造を説明し、大体いわゆる象形、[br]
指事、形声、会意(転注、仮借を加えて六書という)のいづれに属するかを明かにしたものであって、まことに[br]
小学における破天荒の著述というべきである。許慎が「説文解字」を作ったのは、後漢の和帝[br]
の永元十二年 100 のことである。[br][brm]
これよりさき、「漢書藝文志」の「孝経家」と称する分類の中には、「孝経」以外に「五経雑議」「爾雅」[br]
「小(尓)雅」「弟子職」のごときのものが附録されているが、その「爾雅」「小(尓)雅」は即ち訓詁の書として最[br]
も古いものである。「爾雅」が何人によって作られたかは明かでなく、旧説では周公の作といわれているが、このこ[br]
とは古くから疑われていて、魏の張揖の「上広雅表」にも当時すでに仲尼が増したとか、子夏が[br]
益したとか、叔孫通が補ったとか、沛郡の梁文が考えたとかいう俗説があるといっておるし、[br]
陸徳明の「経典釈文」叙録には「釈詁」だけが周公のもので、「釈言」以下は仲尼乃至梁文の[br]
補ったものと篇名まで指定しているが、何れにもせよ一時に一手の成したものでないことだけは明[br]
瞭である。今その組織を見るに、その主要なる部分はほとんど「詩」・「書」に現れたことばをその訓詁に[br]
よって分類したもので、「釈詁」・「釈言」・「釈訓」より、「釈鳥」・「釈獣」・「釈畜」に十九篇に分たれている。その具体[br]
的なものは別として抽象的な部分になると、分類も困難であるのみならず、その訓詁を機械的[br]
に分類した結果、後に戴震が注意しているように、「台朕賚畀卜陽、予也」(注17)とある一条の[br]
中で、「台、朕、陽」の三つは“われ”の「予」であり、「賚、畀、卜」の三つは“あたえる”の「予」であるのを、平列のみか[br]
混同してあるのは頗る非学術的なものと思われるが、或はそれだけ古代の素樸さを保っ[br]
ているのかも知れない。「小爾雅」は漢の孔鮒の作と称せられ、「広雅」は魏の張揖の作であるが、いづれも[br]
「爾雅」の遺を拾うたもので、篇輯の主旨など全く同一である。[br][brm]
一方「説文解字」の後を承けて、更にこれを補ったものは西晋の呂忱(りょしん)の「字林」で、やはり五百四十部、字[br]
数は増して“万二千八百二十四字”「封氏聞見記」としたが、今は亡びた 任大椿「字林考逸」。[br]
この呂忱の弟の呂静というものが「韻集(いんじゅう)」六巻を作ったというが、この[br]
本は漢字を韻によって類別したものであるが、この形式の書物はすでに魏の李登の[wr]「声類」十[br]
巻[/wr]があって先鞭をつけていたが、すべて漢字の如き、たとい“形声”の声(せい)の部分は示しても当時の読[br]
音(とくいん)を示すようにならず、又、読音を示そうにも漢字の形式として子音(しいん)母音(ぼいん)に分かちがたいものにおい[br]
ては、一字を以て「□読若□」といって音を示す以外に、「□は、□□反(はん又は、かえし)」または「切(せつ)」として、二字の音(おん)の[br]
摩(ま)切(せつ)によって上字の子音と下字の母音の結合を生ずるという、いわゆる“反(はん)切(せつ)”の発明は重[br]
要なことで、古来これを魏の孫炎の発明と称しているが、実は漢末には存在していたらしいと[br]
云われる。既に反切の現象が理解され、一般に普及する以上、すべての文字についてその反切の[br]
下字または上字を類集すれば、漢字における音による分類ができる道理であって、ことに支[br]
那では詩歌に韻をふむ関係から「声類」または「韻集」のような韻書が発達したらしい。そ[br]
の「声類」には“一万一千五百二十字”「封氏聞見記」の文字を収めているという。その分類法―封演(ふうえん)が「五声」によったといっているが、五声とは如何なる分類か、その詳しいこ[br]
とはわからない。[br][brm]
六朝では、梁の顧野王の作った「玉篇」は、「説文」の五百四十部に多少の出入を加えて五百四十二部として、[br]
精細な「注」を加えたが、その原本は、既にわが国に伝わった唐鈔本およびその系統のものを除き亡[br]
んだ。わが弘法大師の「篆隸万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)」というものは、即ちこの原本「玉篇」の姿を代えて現[br]
したものである。
そのころ喧しい問題は、いわゆる四声のことであって、当時の有名な文学者沈約など[br]
が中心となり、支那の文字を四声によって分類し、その平・上・去・入を按じて韻文を作る、いわゆる永明[br]
体(えいめいたい)の文学が流行した。しかし一方には、これを信じない人もあって、梁の高祖の如き、周捨にむかって[br]
四声とは何のことかと尋ねられたので、周捨は“天子聖哲”の四字で答えたというが、高祖はこれを[br]
用いなかったと云う。しかし沈約自身は、むかしの詞人が千歳かかっても悟らなかったことを[br]
発見した、と非常に得意であり、同時の人も大体これによって分類したものと見えて、これから後[br]
「四声□□」と銘打った韻書が続続作られ、そうでないまでも分類はほとんど四声によった[br]
らしい。その代表的なものは、陸法言の「切韻」であって、隋の開皇の始めに、劉臻、顔之推、[br]
魏淵、盧思道、李若、蕭該、辛徳源、薛道衡の八人の学者が、陸法言の家に集っ[br]
て音韻のことを討論し、南北の是非、古今の通塞を論じ、極めて剴切であった。その時魏淵[br]
が云うには、「これだけ討論して、疑義もすべて解決したから、一つ口で言ったとおり記録しておいたらど[br]
うか、われわれ数人で決定したら定論になるのだから」といったので、法言がそれを筆にひかえ、さらに十数[br]
年を経て編訂したのが「切韻」であった。その後、唐になっていろいろの人が手を加えた末、孫愐が[br]
これを「唐韻」と名け改編し、更に宋の大中祥符年間に「大宋重修広韻」として現れた。尤も[br]
この間にも、この系統以外の韻書が存在しなかったわけでなく、ことに陸法言たちが南北古今を統摂[br]
したように云っても、実際は東南の地に限られてたことは、唐の李涪の「刊誤」に「切韻」のことを批[br]
評して、陝西省人から見ると呉音をあやつる人間は、まるでどもりみたいなものであると痛罵して[br]
いるが、その陝西音で作られたという韻書は、唐の元廷堅の「韻英」とか、武玄之の「韻銓」とかのような[br]
ものがあったらしいが、今では慧琳(えりん)の「一切経音義」か、わが安然(あんねん)の「悉曇藏(しったんぞう)」に零句を残すだけで、全[br]
く面影を知ることができない。つまり、今日見ることのできる韻書で最も古く、そして完全なものは「広[br]
韻」であって、「唐韻」や「切韻」はその一部分が近年発見されている。この「広韻」は平・上・去・入の[br]
四部、ことに平は上下に分かれて五巻、韻は二百六に分かれた形式で、すべての文字はその韻の中の[br]
更に細かい反切によって統轄されているが、その反切は単にある地方、又はある時代の発音を示す[br]
ものでなく、一種理想的な区別を寓し、実際ある時代にある地方の人が発音するとせば、全然同[br]
一の音に帰するものもそれぞれ違った反切として、いかなる時代いかなる地方でも、これより細かい分[br]
類はできないというマキシマムの分類をとっているところ、やはり実用の韻書というよりも、[wr]理論[br]
的韻書[/wr]という方が正しい。[br][brm]
この当時は、いろいろ書物の校訂が行われた時で、「説文解字」もすでに五代の末に徐鍇が「説文[br]
解字繋伝」を作っておいたが、宋になるとその兄の徐鉉が「説文解字」を校訂して、世にこれを「大徐本」[br]
といい、徐鍇の「繁伝」は「小徐本」といわれた。又、「玉篇」も増補されて二万二千字以上に達し「大広益[br]
会玉篇」と呼ばれたが、この「玉篇」と「広韻」とが並んで行われ、更に次の時代 には「玉[br]
篇」に代って司馬光の「類篇」が、「広韻」に代って丁度(ていたく)の「集韻」が作られたが、いよいよ時の降るととも[br]
に文字の数を増したので、実用上不便であった。そこで、特に科挙に応ずる者の便をはかって、[br]
「礼部韻略」というものができて、併せて通行し、特に受験用書のこととて、試験の規則や心得などが[br]
満載してある。[br][brm]
「広韻」系統の韻書が「切韻」という名の如く、反切で編纂されている以上、支那語の子音による分類[br]
は、反切の上の字を集めて分類すれば好いわけで、早くから五音として喉、舌、歯、脣、牙[br]
などに分けてあったが、少くとも五代には、も少し複雑な分類法ができていたらしく、近年燉煌で[br]
発見された「南梁漢比丘守温述」と題した写本は大体“三十六字母”を認めていたらしい。今存[br]
する確実な資料は「韻鏡」宋張麟之「序」はじめ、鄭樵の「七音略」、司馬光撰と伝える「切韻指掌[br]
図」などであって、「指掌図」という名称の示す如く、「広韻」系統の韻書にたいし、“三十六字母”による索[br]
引を作ったもので、これを子音によって三十六乃至二十三列に配当する外に、四声の外、毎声[br]
を四等に分けて口腔開・合・斉・撮の道理を示しているので、これを“等韻”とも称する。しかしこの[br]
方針で韻書を改編するというようなことは行われなかったらしい。元来この“等韻”なるものは明かに[br]
印度から伝わった声明(しょうみょう)の影響をうけて、支那語に即した組織を考えたもので、その点、印度音韻学の[br]
東漸として興味ある事実で、自然、梵語の知識に富む人でないと取り扱いにくい点があって、[br]
支那でも又、これを伝えた日本でも、この学者には僧侶が極めて多い。[br][brm]
一方、「広韻」「集韻」およびその系統を承けた「礼部韻略」は、分類が繁難であるため、これを簡略な[br]
らしめることは早くから考えられたことで、唐の許敬宗がすでにそのことを試みて、“通用”を許すことにしたら[br]
しいのであるが、遂に南宋の末年に相当するころ、たぶん北方で出版された韻書の中に、これを真[br]
に合併して一百七韻、さらに一百六韻にしたものができた。その出版が山西の平水今の平陽で行われたので、[br]
これを平水韻と称する。実はこれよりさき、遼の僧行均というものが、「龍龕手鏡」 後に「手鑑」 を著わして、[br]
字書ではあるが部首と四声によって類別するという性質のもので、これに次で、金の韓孝彦父子の[br]
「五音集韻」「類聚四声韻」は「集韻」に本づいて毎韻内の文字を“三十六字母”によって排列し、[br]
また韻の分類も二百六韻を改併して百七十九韻に減じた先例があり、更に「説文」の大徐本も、[br]
南宋の李燾が「五音韻譜」を作って「一」から「亥」までの五百四十部を「東」から「甲」まで音韻の順序に編成がえをし[br]
た先例があり、次第に便利になるとともに古人の用いた意思は次第に消え失せてしまった。そ[br]
して「説文」では、「五音韻譜」が大徐本の看板をかけて横行するし、韻書では一百六韻による「古[br]
今韻会挙要」がさながら「広韻」みたいに行われるというありさまであり、更に明になって、梅膺[br]
祚の「字彙」や張自烈の「正字通」ができて、部首と筆劃の順で排列するようになってから、ま[br]
ったく字書の体裁がかわり、これが「康煕字典」の源をなし、韻書も一百六韻以外は人が知ら[br]
ぬようになり、「佩文韻府」をはじめ韻によるものはすべてこの分類にきまってしまった。[br][brm]
一方、こういう理想的分類の系統と違ったものは、元の周徳清の「中原音韻」であって、これは北支[br]
那における音韻現象に即して入声のないもので、入声にあたる文字はそれぞれ他の三声に配属[br]
した。つまり大体中原における当時の音韻を類別したもので、しかも「広韻」系統の韻書が詩の[br]
標準とされたに反し、これは元の北曲のための標準韻書として劃期的のものであった。詩韻は必ず一韻で[br]
ないまでも平・上・去・入の中では“通用”を許したが、曲韻では全体を十九部に分けて、一部の中は平・[br]
上・去ともに通押したことも著しい相違である。別に「中州音韻」というものがあるが、大体同様の性質と[br]
見て誤りない。明の「洪武正韻」は、実に「中原音韻」と「広韻」系統を折衷した一種奇怪なものである。[br]
又、明代には「中原音韻」の流れを汲んで、当時の実際の音韻を分類した簡単な書物がいろ[br]
いろあって、元・明の間の音韻変遷史を見んとする人には貴重な材料である。中でも蘭茂の[br]
「韻略易通」の如きは、“三十六字母”を改めて「早梅詩」二十字を用いた初めであると称せられ、“三十六字[br]
母”も亦、ほとんど姿を消すに至った。[br][brm]
およそ伝統の影が薄められて現世的となり、理論の声が消えて実用的となったことは、明の中[br]
葉以後特に著しいことであり、経学においても自由なる態度がとられ、小学においても便宜的[br]
方向を導いたことは、もし経学なり小学なりが単に伝統を守ることに終始するものとせば、[br]
もとより憂うべき傾向に外ならないが、その一面、思想の自由性を伸し音韻文字の現実[br]
をとりあげることは、支那学全体として却て喜ぶべき点もあろう。殊に小学がその[wr]最[br]
初[/wr]、童蒙の教科から出発したとせば、十九部韻となり「早梅詩」となって行くことは、或は本来[br]
の面目ともいえるのである。ただ「漢書藝文志」が六藝の附庸に小学を据えた意味は、今やほ[br]
とんど蕩然として失われるに至ったと云うべきであり、その反動として次の清朝には再び是正されよ[br]
うとするのである。[br][brm]
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