講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
録」[/wr]の如きものが時代とともに作られ、正史の列伝と相表裏し、ことに明には王世貞等の如き史[br]
料家によってかかる著述ができたが、明末の黄宗羲に至り「明儒学案」を作り、方孝孺以下[br]
劉宗周までの学統を示して極めて優秀な学術史の基礎をひらいた。その後「宋元学[br]
案」を作りかけたが、途中で没し、子の百家(ひゃっか)がこれを修め、さらに全祖望の手で完成した。最近には「清[br]
儒学案」ができて、宋以後の学術史が一とおりできあがった。これに類するものとしては、江藩の「漢[br]
学師承記」「宋学淵源記」の如き、あまりに時代が近いため、公平や正確さを缺くにしても、一つの手び[br]
きとするには十分である。又、一代の名臣のことを集めたものとしては、李元度の「国朝先正事略」[br]
のごときは公平な著述として認められているが、史料として見るときは銭儀吉の「碑伝集」、繆[br]
荃孫(びゅうせんそん)の「続碑伝集」以下を忘れることができないし、生卒年月を考えたものは銭大昕の「疑年[br]
録」以後の研究に頼る所が多い。個人の年譜として特に推奨されたのは、王懋竑の「朱子[br]
年譜」であって単に履歴のみならず、その学術を示したものとして出色のものである。[br][brm]
又、清朝の中葉以後には、正史の研究のほかに、正史以外の古史に手を伸ばす人もできて、「竹書[br]
紀年」には雷学淇の考訂本あり、「世本」には秦嘉謨の「輯補」があり、「帝王世紀」[br]
には宋翔鳳の復原(「帝王世紀考異」一巻)が企てられ、古代史の研究に確実なる材料を提供した。[br][brm]
史部に属するものであるが、地理および制度に関する学問は端を改めて説く。[br][brm]
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支那人の地理的知識を窺うべき最古の資料は、いうまでもなく「尚書」の「禹貢」であって、「禹貢」[br]
の内容は、又、いうまでもなく太古人の間に共通せる洪水伝説を科学化[br]
して、実際の地理的知識を示したのである。[br]
すべて支那全土を九州(冀、兗、青、徐、揚、荊、豫、梁、雍)に分けて、その山川の脈絡から地味[br]
産物を説いたもので、簡単ながらも極めてよく筋が通り、整頓された感じを与える所から、[br]
実際にこれが書かれたのは、禹の時代というような悠遠な古代に在るのではなくて、今少し[br]
支那全体の統一もされ、交通もひらけた時代に書かれたものであろうと疑われる。ことにこれら[br]
の記事が、現在支那に儼存している山川と合せてあまりに好く吻合し、ことに支那の中原[br]
から最も遠く離れて春秋時代になってさえほとんど重要な影響を持たない梁州あたりまで[br]
が、その紀事に取り入れられていることを見ても、恐くその疑いの不自然ならぬことを[br]
証明されようと思う。しかるに、かかる儒家の経典として尊尚された「尚書」の如きものと全く[br]
違って、いわば重要な典籍として見られない「山海経」が、今日ではかえってその隠れた価値[br]
を問題にされ始めて来たのは面白いことである。「山海経」は「漢書藝文志」では「形法」家[br]
の代表としてあげられている。「形法」家は「数術」の部に属し、地勢・宮室あるいは人相・宝剣刀・[br]
六畜などの相を見るものであって、それほどその内容は荒唐無稽に近いが、これと同時に地理[br]
についての科学的知識の未だ発達していない頃の原始的記載として見れば、殊に興味がふかく、[br]
遠方における山川草木の記載が如何に人の口伝えのままに誇張され、怪誕化されて来たかを[br]
知ることができる。鳥の足が三本で顔は人間のようだとか、頭が長くて身体に羽の生えた人[br]
間のいる羽民国とかの記事が層出している。尤も、今の「山海経」が直ちに「藝文志」のテキス[br]
トにあたるのではなくて、古今の書目に於て篇数の異同は極めて多い。ことに、今は伝わらないが[br]
古の「山海経」には「図」または「図賛」があって、恐らくさまざまの奇禽怪獣の像を描いてあ[br]
ったのではないかと思われる。陶淵明の詩にも「読山海経」 穆天子伝 十三首あって、その放胆[br]
な想像を文学化している所など、なかなか興味あるものではあるが、地理書として最も信[br]
憑するに足るものは洛陽を中心として西は涇渭の流域、北は汾水中流までの山はたしかに実[br]
地にあたり得るわけで、つまり交通不便にして踏査のできなかった古代に、嘘も誠も織りま[br]
ぜて作った書物として見るべきであろう。「四庫」ではこれを小説家の首に加えてあるが、清朝でも[wr]畢[br]
沅[/wr]が挍正し、郝懿行が「箋疏」を加え、相当重要視されていたものである。[br][brm]
上古の地理については、尚ほ「周礼」の「職方氏」に、揚、荊、豫、青、兗、雍、幽、冀、并(徐)の九[br]
州をあげ、これとほぼ同様な記事は、「爾雅」および「呂氏春秋」にも見えるが、「禹貢」に比べて[br]
みな梁州を缺き幽州を加えている所は、西南部に対する知識の缺乏と西北部の知識の豊富と[br]
を証明するもので、地理学の重心の位置にも関係がありそうに思う。(徐・梁を改めて雍・青に合したというのは傅会にすぎぬ。)しかし地理書としての完[br]
全な資格を具備したのは、何と云っても「漢書地理志」であって、これは全く事実の記載を[br]
主とした、いわば政府の官文書であり、当時の行政区劃によっている。即ち、京兆尹は元始[br]
二年 2 に十九万五千七百二戸あって、六十八万二千四百六十八口、その中に縣が長安以下十二、その[br]
各縣の沿革乃至重要紀事をあげたもので、精細を極めている。因(ちなみ)に当時の行政区劃は[br]
すべて百三郡国といい、さらに十三部に分って刺史をおいてあり、疆域も武帝の遠征により南は交趾をひらき、北には朔[br]
方を置くという如く、辺境地方までその紀事は相当詳密である。これより以後、正史における[br]
地理の記録はまったくその先例を襲ぎ、「後漢書」では「郡国志」といい、「宋書」では「州郡志」といい、[br]
「魏書」では「地形志」といった等の名目の相違はあっても、大体は殆ど変っていない。その嚆矢[br]
となった「漢書地理志」も、清朝に入って全祖望の「稽疑」、銭坫の「新斠注」、呉卓信の[br]
「補注」の如き、重要な注釈が作られ精密なる考訂を加えられている。[br][brm]
正史以外においても、全国の地理を述べたものは歴代相次ぎ、或は正史の史料となっているものも[br]
あるが、古くは王隠の「晋書地道記」〔とか、闞駰の「十三州志」とか〕、唐では魏王泰の「括地[br]
志」などはその名の聞えたものであるが、今は多く断片として残[br]
っている。この頃の出来ごととして注意を要することは、地図の発達であって、いやしくも地理学[br]
がある以上、地図の発達を生ずることは当然のようではあるが、比較的「図」に頼らずして文字に頼[br]
った支那として、上古にはいかなる地図が存在していたか心許ないが、それだけ、晋の裴秀[br]
の地図家としての地歩は大きいと云わねばならない。その最も大きな業蹟は「禹貢地域図」[br]
十八篇 禹貢錐指 であって、従来の地図が極めて粗略であったのを改めて「分率」と「準望」との方法を用いた。[br]
その説に、制図の体には六あって、一は分率、広輪の度を弁ずるもの、二は準望、彼此の[br]
体を正すもの、三は道里、由る所の数を定める、四は高下、五は方邪、六は迂直である。もし[br]
図象があって分率がなければ、遠近の差を審かにする道がない。分率があって、準望がなけ[br]
れば一隅では得ても他方では失う。準望があって道里がなければ山海遠隔の地に施して通ずる[br]
ことができず、道里があって高下・方邪・迂曲の差がなければ経路の数が遠近の実と違う、と[br]
云うのであるが、小川琢治博士によれば、分率とは若干里を示すに若干寸を以てする縮尺の率を[br]
定めることであり、準望とは地点の間の方位を正したものらしく、即ち唐以後の地図に用いた[br]
一定里数の方井を設けて方位と距離との関係を図上に示したもので、蓋し支那の製図法に平面[br]
図法を採用した嚆矢であるといわれる。尤もこれより先き、山岳については、いわゆる[br]
「五嶽真形図」というものがあって、一種登山家の護符となってしまってはいるが、その最初は[br]
山脈の鳥瞰図であったらしく、これが発達すれば極めてこの学の発達に貢献したであろ[br]
うものを、途中にして迷信化してしまったのは惜しむべきである。[br][brm]
この時代に今一つ注目すべきものは「水経」であって、その著書は漢の桑欽といわれ、更に後魏の酈[br]
道元がこれを注して「水経注」を作り、一層その価値を添えた。「水経注」は支那の水道地志におけ[br]
る白眉と歌われているが、元来、支那の水利問題は正史にしても「史記」の「河渠書」、「漢書」の「溝洫志」[br]
をはじめ相当重要に考えられたことで、それが自然、水道地理の発達を促がしたに相違ない。[br]
しかし「水経注」が世に艶称されるのは、ひとりその記事が翔実たるのみならず、実にその表現が[br]
一篇の小品文の妙を具していたからで、科学と文字との巧みな共存関係を物語るものに外なら[br]
ない。同じ意味に於てやはり著名なものは、魏の楊衒之の「洛陽伽藍記」であろう。この書物の示[br]
す如く当時は仏教の流行が著しく、自然、西方外国との交渉が頻繁であった結果、西域[br]
地理の研究が起り、中でも晋の法顕(ほっけん)の「仏国記」の如き、その長途の旅行記として世にもてはやされ、[br]
後に唐の玄奘の「大唐西域記」の源流をひらいたものである。[br][brm]
唐の地誌として正史以外に行われたものは、李吉甫の「元和郡縣志」四十巻であり、しかも大体今日に[br]
その面影を見ることができる。しかし、真に地理学者としてこの学問に貢献したのは、賈耽(かたん)であ[br]
る。賈耽は唐の徳宗の貞元中に僕射同中書門下平章事となった人で、本伝によれば[br]
地理の学を好み、凡そ四夷の使者が来たり、四夷から使して帰ったものがあれば、必ずその山川土地の状態[br]
を問い、併に源流を究め、「隴右山南図」および「黄河経界遠近の図」をえがいて、徳宗に上った。[br]
当時は吐蕃の勢力が強く、甘粛省方面はほとんどその手に帰してしまったので、為政者とし[br]
てもその光復をはかる心もちを以て描かれたものと思う。さらに貞元十七年には、「海内華夷図」および[br]
「古今郡国県道四夷述」四十巻を献上した。その「華夷図」は広さ三丈、縦三丈三尺の大幅[br]
で、百里を一寸に縮めたものと云うので、小川琢治博士は、百五十万分一尺にあたると計算されている。こ[br]
の地図を写したものは、今の西安の碑林に存する偽斉阜昌七年のものであるが、さらに十分の一に縮められ、肝腎の方[br]
格を去り、地名を省略したため、賈耽の趣きは失われた。賈耽の地理書で今日にその幾[br]
分を見るべきものは「道里記」であって、これは四夷に通ずる里程を記したもので、その渤海国王都[br]
に通ずる道里の如き、現在の鴨緑・松花二江の流域と極めてよく吻合していると云われる。又、[br]
賈耽の地図は、古の郡国は墨で題し、今の州県は朱を用いたというから、即ち上は裴秀[br]
の方井を承け、下は明の王光魯の「閲史約書」の源を開いたものとして注目に価する。[br][brm]
宋になって、大部の地理書としては、楽史の「太平寰宇記」二百巻、王存の「元豊九域[br]
志」、王象之の「輿地紀勝」などが完否を問わず今日に流伝しているが、当時は各都邑の[br]
地誌も発達したらしく、范成大の「呉郡志」とか、「咸淳臨安志」[br]
などが作られている。これとともに注意すべきことは、当時南洋との交通発達し、[br]
ことに貿易が盛になったため南洋研究の書物が出たことで、その源は唐の国威が遠くアラビア[br]
に及んだため、アラビア方面との交渉を促がしたことによるのであろうが、宋の趙汝适の「諸蕃[br]
志」の如きは、当時の支那人が海外について如何ばかりの知識を持っていたかを知る大切な資料で[br]
あり、西洋の東洋学者が極めてよく利用する書物である。これは宋の時の泉州の提挙市舶で[br]
あった趙汝适が諸蕃客にたづねた記事であり、桑原隲蔵博士の「蒲寿庚の事蹟」にも、しばしば利用[br]
されている。元も亦、その意味において領土の膨脹と交通の盛んなため、海外の地志が発達し、[br]
汪大淵の「島夷志略」の如きは、至正中に賈舶に附して海に浮び、数十国を経過した聞見録[br]
であり、極めてよくできたものと云われる。[br][brm]
元における地理学者として著名なのは朱思本であって、その作製せる「輿地図」は、至大より延[br]
祐までの間の苦心に成るもので、長広七尺という大地図であったらしいが、明の嘉靖年間に[br]
羅念庵 洪先 がこれを複刻して「広輿図」といったのを初め、明代を通じて各種地図の典拠とな[br]
ったものであり、実に清朝の初めに耶蘇会宣教師の手によって「康煕内府地図」が成るまでは、[br]
その地位は揺がぬものがあったらしい。ただ、その当時、元には既にアラビアの地理天文学が輸[br]
入されていて、〔明の周述学の「神道大編暦宗通議」十七、「西域儀象法式七段」(「中国数学史」訳一一七)〕、苦来亦阿兒子、すなわち地球儀もすでに伝えられていたことが「元史天文志」に見えてい[br]