講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
「文選」における第二の文学様式は詩であるが、この詩はすでに四言体がほとんど存せず、まっ[br]
たく五言の全盛時代である。五言の詩がいつからできたかということは、固より的確に知りがた[br]
いが、かの無名氏の作と称せられる「古詩十九首」のごときは、その発端ということができよう。しかし[br]
五言詩が堂堂有名の詩人によって盛に作られ、又、それが互に応酬されて、一時の盛を極めたの[br]
は、まさに魏のはじめ、いわゆる建安七子および魏の文帝、その弟曹植などの時であった。この[br]
時代は、支那で始めて文学というものが自覚された時であって、魏の文帝のいわゆる、文章[br]
は「経国の大業、不朽の盛事」というような表現は、やはり大だんびらの嫌いはあるにしても、[br]
七子たちが互いにその作品の批評をしあって楽しんだ状態、さては建安二十二年217の悪疫[br]
流行により、七子の中で徐幹・陳琳・応瑒・劉楨の四人が一時に死んだことを悲ん[br]
だありさまなど、今にその文が伝わって、当時の状態を想像せしめる。当時はむしろ[br]
詩体がさまざまで、「文選」にも、楽府(がふ)という類には、「飲馬長城窟行」や「君子行」「傷歌[br]
行」「長歌行」「怨歌行」いずれも五言であるほか、魏武帝の作という「短歌行」〔対酒[br]
當歌、人生幾何〕は四言、「苦寒行」は五言、文帝の作という「善哉行」は四言、ことに[br]
「燕歌行」のごとき七言のものもあった。元来、楽府(がふ)というのは、かの漢の武帝が郊祀を盛[br]
にした際に、楽府(がくふ)という官をたてて各地の音楽を採集したことに始まり、後世も楽器に[br]
かけて演奏するつもりで作ったものを楽府(がふ)という。その名に多く「行」の字を添えてあるのは、[br]
恐らくは行進曲というほどの意味であろう。中には「君子行」の如く、平調といって調子ま[br]
で指定したのもある。平調とは瑟の調子の一つであって、平調・清調・側調といわれたもので[br]
ある。後の李白の「清平調三首」というのは、まさに之に本づくものである。しかし七言は[br]
このころ、ただ稀に見るものであって、大多数の詩は五言であったのみならず、それが晋を経て[br]
南朝に入るに及び、一層五言が旺盛になり、有名な謝霊運とか顔延年とか鮑[br]
照とか謝眺とかが出て、ことに従来の専ら人事を詠じた詩が、自然の描写に移行[br]
した。元来、晋が南渡して江南の風景に接したことは、在来の北方の単調なる風土に人為的な装飾を[br]
施して満足していた人たちには、非常な驚異であって、「世説」の中にも、揚子江を渡った[br]
連中が、天気のよいころには毎日、新亭 〔丹陽にあり〕 で花をしとねにして酒宴をひらい[br]
たという話があるように、自然、この江南の美しい山川をその詩に表現することが一[br]
つの共通のしごととなり、遂には謝霊運のように、多勢の伴をつれて山越えし、山賊かと[br]
まちがえられたり、山に昇るためには下駄の前歯のないのを穿き、下りる時は後歯のない[br]
のを穿いたというようなことにまで憂き身をやつした人物も現れた。自然、そういう人[br]
たちが作った詩は、ちょうど画家が一筆一筆で眼中の景を紙にのべて行くと同様に、[br]
一字一字が自然の姿を彫み出したものであった。それ故、「文選」のように分類したもの[br]
で見ると、贈答の次ぎには、游覧とか行旅とかの体が数多く見られる。[br][brm]
「文選」における第三の形式は、いわば散文の体であるが、特に著しいのは、表および「書」であって、[br]
いずれも自分の考を上または同業に述べたもので、脚韻こそ踏んでないが、やはり全体が音韻を[br]
叶えたもので、ことに偶数的のステップを極度に利用した点において、古今無双の作品を網[br]
羅している。人はその内容について吟味する前に、その修辞の美しさに眩惑してしまう。ちょうど、[br]
むかしの説士(ぜいし)が巧妙な譬喩を以て、あい手を煙にまいたように、この極彩色に一つの隙[br]
もない模様こそ、ただ読むものを恍惚とさせてしまうものであり、その点では、この時代色の著しい[br]
文は、賦や詩と選ぶ所がなかった。それにより、六朝の人はこれらをすべて文と称し、これにあ[br]
ずからないような粗樸なものは、これを「筆」と称し、区別はむしろ文筆のあいだに在って、賦[br]
詩文の間にはなかったと云っても好い。それ故、昭明太子がこの「文」を選んで、すべて「文選」といい、[br]
劉勰が文の道を説いて「文心彫龍」といったわけである。[br][brm]
昭明太子の「文選」は三十巻に分たれていたが、後に唐の李善が注を作るに至って、六十巻[br]
に分けた。別にいわゆる五臣注もあって、勿論、曽ては単行したのであるが、やがてこの二[br]
者を合併した六臣注というものができ、その六臣注も、李善を主にして五臣を従にした[br]
ものと、五臣本を主にして李善を加えたものとあり、又、李善だけの独立した注本も伝[br]
わっており、その系統は極めて複雑であり、わが国でできたかと疑われる「文選集注」に至って[br]
は、その他の陸善経注なども併せて一百二十巻に分けられていたらしいが、今日はその[br]
大部分が亡び、残存のものは京都帝国大学の影印本におさめられている。かように[br]
歴代の名文を選ぶこと自体が、一つの文学についての評価を与えるものであり、これを[br]
味読することによって、いかなる文が選ばれたかということに思いをひそめることができるわ[br]
けであるが、これとともに文についての批評を述べた書物ができたことは、当時の[wr]文藝[br]
意識[/wr]がいかに高まってきたかを卜するものと思う。ことに「文心彫龍」は、単に作品の批評[br]
を行ったのみならず、文学の原理または原則を建立することに努めたのは、前に古人なき述[br]
作ということができる。その文学の根本として抽出したものは神と気とがあり、これあってこそ興にまかせ[br]
て筆を振うことができるわけで、又、その神気が人によって必ずしも同じからぬことが、人によっ[br]
て作品が同じくない理由であり、古今の作者がそれぞれある評語を負うのもこの理由に[br]
外ならない。[br][brm]
これと時を同じくして、鍾嶸の「詩品」が出て、古今の詩を品評しているが、この人は必ずしも修[br]
辞のみを取らず、一見平淡としか見えない「思君如流水」とか、「高台多悲風」とか、「清晨[br]
登隴首」とか「明月照積雪」とかを推尊している所から見て、一応非修飾派[br]
とも見えるが、これも恐らく時代の風気があまりに修辞に傾いたことを歎いた故であ[br]
ろう。陶淵明などを中品に列したのも自らそこに理由があろうと思う。この品を以て物を評論するのは「画品」など極めて流行したことである。[br][brm]
さて当時は仏教が盛に行われるにつれて、外国語たる仏経の勢力が伸びて、自然、支[br]
那語というものも問題として考えられることになったわけであるが、ことに音韻学の知識[br]
も自ら輸入されてきたらしく、それが詩の修飾的気風と接触して、詩のいわゆる八病(はっぺい)[br]
というものが研究されたことは、四声を提倡した沈約たちのしごとであった。こうして最も[br]
洗錬された詩は、四声その他の韻律においても缺けることなく吟味され、遂に五七言の[br]
今体詩形が成立した。これは一面において六朝の修飾派の収穫であるが、同時にその簡[br]
易なる詩形が音調もよく叶う上に性情を吟詠することに適したため、一般に流行し、庾信・徐陵を経て唐の詩[br]
壇は沈佺期・宋之問以後、次第にこの形を中心とするに至った。それは逆の一面におい[br]
て、六朝の修飾がむしろ洗滌されたことにもなるので、六朝人の苦心によった詩格[br]
が、唐人によって独占されたという結果とも云える。かくして王維や孟浩然、さては李白や杜甫の如きは、[br]
律絶において古今独歩の地位を確立した。律の一種に排律というものがあるが、これはむしろ[br]
昔の賦を作った意識をうけついだものと思われるが、この体も賦の如く次第に形式化して衰えてゆき、当時の流[br]
行としては、律絶の如き短詩形に落ちついた。勿論、同じ詩形の中でも、李白のよ[br]
うに飛動の妙を見せ奇趣をめぐらした作者もあれば、杜甫の如き法度森厳として[br]
首尾のよく整ったものもあったことは云うまでもない。これに次ぐものとしては、元稹・白居易の如[br]
く、つとめて平易な辞句を用いて、人に入りやすからしめたものもあり、李商隠の如く、つとめて晦渋[br]
なことばつきによって、夢幻境に導くものもあった。これはすべて唐一代が詩を重要なる文学と[br]
認め、上は朝廷の制度から下は民間の歌妓に至るまで、これを競い尚んだからであって、詩は[br]
唐に至って極盛に達したといわれるのも、決して溢美ではなく、その形式がここに固定を見て、[br]
以後千年あまり、さらに変化を見ないことによっても、後世がこの道で唐に駕して上ることが[br]
できなかったことがわかると思う。[br][brm]
一方、六朝からかけて、散文の体が極めて形式化した四六調一点ばりとなり、これを儀礼として[br]
用いることは適当であっても、人の感覚や思想を随時随処に表現しようとする時[br]
は極めて不自由であり、形式によって感覚や思想が圧迫されるということになって、自らの[br]
新鮮なる文才を抱いたものにはあきたらなくなり、ここに新しいものを生み出したいという希望[br]
が漲った。このことは、ちょうど今体詩が起こりかける頃から、たとえば隋の李諤や王[br]
通 文中子 なども主張していたことであるが、いよいよこれが具体的に実行されたのは、唐も[br]
貞元・元和のころ、韓愈・柳宗元の出でるのを待った。これは明かに一つの革新運動であった[br]
が、賢明なる運動家たちは、これを革新といわずして復古と呼んだ。つまり六朝以前にかえると[br]
号したのである。これというのも、文の模範とすべきものを、「六経」より「荘」「屈」「史」「漢」にとったからで、[br]
自然、現在のことを古代の語法をもって記そうということになるわけで、今日のいわゆる白話[br]
運動とは、おなじ革新運動でもかなり性質がちがう。勿論、白話運動の初期では、「水[br]
滸」や「儒林外史」を模範とすべきことが提倡された。しかし、それはやがて弊履の如く打ちす[br]
てられて、現在のことを現在の語法をもって記そうという事の自然に落ちついている。この復古[br]
運動が真に実を結んだのは宋代であって、いわゆる唐宋八大家といっても、その六人ま[br]
で、すなわち欧陽修・曽鞏・蘇氏父子兄弟・王安石はみな宋人であり、その作品はち[br]
ょうど宋の儒学が元明までを一色に塗りつぶしたように、元明から清末までも古文の[br]
模範として推尊された。故に、文の道も亦、ここに至って一応の発達を終ったというも過言で[br]
はない。これというのも、宋以後は何といっても近代的思想の発達した時代であり、仏教の[br]
流行によって刺戟された思想が支那人の生活を深めて行ったにもかかわらず、文[br]
学として正統に認められたものは、詩にしても一定の式に固定した短詩型であり、文にして[br]
も思想の発達していない古代語形に基礎を据えている以上、如何にしても生活に追隨[br]
し得ないことは明かで、かくして詩文ともに、深まりゆく生活を離れて、上ずった文字藝術[br]
に止まってしまい、つまり遊戲であり、生活でない文学というものが多くの才人たちの頭にかぶ[br]
さっていたわけである。しかもその帽子をあっさり脱ぐことは、支那においては中中むつかしいこと[br]
で、それは遂に西洋文学の流入まで、長いこと持ちこされたのである。さても辛抱づよいことだと[br]
いいたいが、これこそ支那の姿であり、しかも実質的には、この帽子の暑苦しさをのがれるために、[br]
さまざまの細工がされていたところが、一層支那の姿を示すものといえよう。[br][brm]
尤も、この間にもいろいろの小さい波瀾はなきにしもあらず、北宋の詩は装飾を軽くして達[br]
意を旨とし、情よりも理を主とすること、その古文の如くであり、述べんとすることも散文のごとく首尾のよくとおった、[br]
同時に含蓄に乏しいものになったが、しかしこれにあきたらぬものは、王安石のように巧を弄[br]
し、又、黄山谷のように奇を玩び、黄山谷のはやりから、江西詩派の技巧がややいとわしいまでに[br]
なると、ふたたび唐詩を推尊する風がおこり、その著しいのが明の弘治・正徳の間、李夢[br]
陽・何景明のいわゆる前七子で、これについで、嘉靖・隆慶の間には、李攀龍・王世貞の[br]
いわゆる後七子であり、“文は秦漢、詩は盛唐を”という目標をかかげて、格調の説を以て一世を風靡した。[br]
尤もこの間にも、王慎中・唐順之とか帰有光とかは唐宋諸家の文をたてて、これと抗争し、下って[br]
万暦以後になって、袁宏道・中郎の兄弟たち、いわゆる公安派が起って、文は蘇東坡、詩は白[br]
楽天といい、性情を述べんことを本旨とした。竟陵派といわれる鍾惺・譚元春は性霊をのべるもので、こ[br]
れに属するといってよい。しかるに清朝に入って、王士禎出で、神韻ということを説き、宋の厳羽の[br]
「滄浪詩話」によって「空中之音、相中之色、水中之月、鏡中之象」ということも提倡した[br]
り、唐の司空図の「詩品」によって「不著一字、尽得風流」ということを理想としたが、このこ[br]
ろから次第に宋詩を好む人が多くなり、遂に袁枚に至り、性霊説を鼓吹し、格調を[br]
守る沈徳潜と対峙したが、それから以後は唐詩がすたれて宋詩が起こった。文も[br]
八家の流をうけたのが、方苞・姚鼐の如き桐城派であるが、他にも駢文家として胡天游・[br]
孔広森・洪亮吉などが出て、当時の経学の傾向と表裏し、桐城の系統でも[br]
陽湖派の惲敬・張恵言などは駢文を好み、遂に駢散体というものが一般に通行す[br]
るに至った。[br][brm]