講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
それは十八史の実物を用いたのではなくて「資治通鑑」などから抄節したものである。現在「廿五史」[br]
といわれるのは、柯劭忞の「新元史」を加えたもので、清朝のことは「清史稿」だけが出版されている。[br][brm]
清における史学も、経学と同じく史料を重視し、経学において宋以来の理学の反動を[br]
なした如く、史学においても「新唐書」以来の文章を以て歴史を作ることを否定し、事実の考証に向[br]
った。その傾向は、経学における顧炎武と史学における黄宗羲とがそれぞれの特色を発揮し[br]
たが、もとより両者ともに経乃至史の専家というのではなく、広い学問から生じたものの表われで[br]
ある。黄宗羲は、餘姚の名家に生れ、早くより明のために逆臣を誅するという烈志を抱いたほどの[br]
人物で、蕺山の劉宗周について学び、明の敗るるや自らも義兵を興して清兵に抵抗し、曽ては[br]
長崎に来て日本の援兵を乞おうと企てたくらいであるが、事成らずして郷里に返り学者[br]
を集めて明人の講学を戒め、六経を根柢としてこそ迂儒にならないということを説き、その勢力は[br]
東南に行われた。その時、朝廷では葉方藹と徐元文 乾学の弟 とに命じて「明史」の監修をさせたが、[br]
黄宗羲は世家の子弟であり、家には明の「十三朝実録」もあり、掌故に習熟しているので、二人は[br]
黄宗羲を監修者に推薦したが絶対に出廬しない。そこで特に詔を以て浙江巡撫の手で、[br]
その著述の中、歴史に関するものを鈔して史館におくり、又宗羲の子の百家と門人の萬斯[br]
同とが「明史」を参訂することになった。この萬斯同が結局「明史」編纂の功臣であって、名義は張[br]
廷玉となっているが、これは長官たるの故にすぎない。黄宗羲も史局に大問題があれば必ず意[br]
見を述べたという。顧炎武も亦、沿革地理の研究や金石学の提倡などにより、史学に貢献した所[br]
が多く、その甥の徐乾学が「一統志」を作ったのもその影響であった。[br][brm]
その後、乾隆に入って、経学に考拠の風が盛となるにつれ、この学問方法が史学に波及したが、[br]
一面から云えば、当時、銭大昕の云うように「経学者はただ「三史」にわたるだけで、「三史」以下はさらに知ら[br]
ない。これでは通儒といえない」という面を矯正するものであって、ここに旧史の考訂という綿密な[br]
学問が時代の風気を承けて誕生したが、これらは概ね経学者の密生した江蘇地方を中心[br]
としたものであり、もとよりその人は浙東にも若干の影響を及ぼした。この意味における江[br]
蘇の史学は、嘉定の王鳴盛、同じく銭大昕、陽湖の趙翼などを代表とする。就中、王鳴盛は乾隆十九年に[br]
第二名の進士に及第した人物であるが、その見識を見るべきものは「十七史商榷」であり、その[br]
序文に説く所は、最も好く当時の史学の潮流を示している。曰く、[br]
〔大体、歴史に書いてある典制には得失さまざまあるが、歴史をよむ者は何も意見を出した[br]
り議論を馳せたりして、戒めとする必要などはない。ただ実際の典制を考えて、数千百年の[br]
建置沿革を掌に指さすようにすれば好いので、戒めとすることは、人人が勝手に選んだら好い。[br]
又、事蹟にしても美悪(びお)いろいろあるが、歴史を読む者は、何も法律をこしらえ賛否を明[br]
かにし、褒貶を加えたりする必要がない。ただ実際の事蹟を考えて、年代や地理の異同や見[br]
聞のちがいを一一疑いのないように整理すれば好いので、褒貶のことは天下の公論に任せた[br]
ら好い……〕自分は始め史学を好んだが、壮年以来、史をやめて経を治め、経がすんでから[br]
史に戻って、二十数年研究して始めて史学も経学も大同小異たることを悟った。とはいうものの経とは道[br]
を明かにするものであるが、道を求める者はただ義理ばかり求めようとしてもだめ[br]
であって、ぜひ文字を正し、音読をわきまえ、訓詁を釈し、「伝注」に通ずればはじめて義理[br]
が見えてきて、道がその中に存することになる。たとえば人が甘いものを食いたいからといって、[br]
お金を持って町へきて、「甘い」という名のものを捜したって、どこにもそんな物は売ってい[br]
ない。しかし、飴を買って食えば甘い。塩辛いものも同然である。史学をやるものは、何[br]
も議論によって訓戒を求める必要はないことで、ただ実際の典制を求めれば好く、褒貶によって[br]
賛否の意見を下す必要はないことで、ただ実際の事蹟を考えたらよいこともその通りで[br]
ある。これは経学も史学も大同である。その小異というのは、経を研究するには断じて経を[br]
駁することができない。しかし史では、たとえ司馬遷や班固でも誤りがあればこれを正してかまわ[br]
ないことである。それに、経学を研究するには経を駁しないというだけではない。経文は非常に[br]
難解であるから、もし昔の「伝注」の中から自分の意見のままに取捨したり折衷したりす[br]
ることは、僭越を免れない。もっぱら漢人の家法を墨守し、必ず一師の説に従って外に渉[br]
ってはならないが、史学は正文の誤さえ正そうというのであるから、裴駰や顔師古などは云[br]
うまでもなく、すべて善いものを選んで用いたらすむことで、一人の説に盲従する必要はない。[br]
といった。事実、この「十七史商榷」は王鳴盛の不朽の著作であって、経の「尚書後案」、考[br]
証の「蛾術編」の上に出づるものであり、その博学さを示して餘りあるものであるが、人物についてはあ[br]
まりに金銭に執着を持った故か評判がわるく、学問でもとかく早わかりと早くできあがるこ[br]
とを目的とした風があって、学者としては妹婿の銭大昕のような劃期的なしごとはできなかった。[br][brm]
銭大昕は、学問淵博でしかも精密、官となる希望を持たず、中年で辞職して蘇州に住み、当[br]
時の文化人と切磋したことは前にも述べたが、最初は呉中の七子として詩を以て鳴ったほどの才人であ[br]
る。その史学については、「廿二史考異」が最も重要な著述であって、当時漸く興りかけた挍勘学を史[br]
学に応用したものである。これは蘇州の如く、宋本を多く持っていた都市でなければできない[br]
しごとであった。又「十駕斎養新録」や「潜研堂文集」には、幾多の史料に関する正確な解[br]
題をのせて、これを一般に紹介し活用させたことも重要な功績で、銭氏以後、銭氏の紹介した[br]
史料を活用して新しい分野が開かれたことは、特に注意されねばならない。その他、経学に、小学[br]
に、地理学に、数学に、天文学に、金石学に、至る所足跡を残した偉大な学者であった。晩年にも[br]
っとも努力したのは「元史」の研究であるが、その結果はあまり残っていないと云われる。すべて特定の研[br]
究を主とせず、博く培養するという正道の学問であったのと、人物が温厚でしかも謙遜であったことは、[br]
その学問を一層好くしたわけで、やはり江蘇学派の正統に位しただけのことがある。しかも銭氏[br]
の一家は、その子の東壁、東塾、弟の大昭、族子の塘、坫、侗、東垣、繹など、みな大昕の学を[br]
つぎ蔚然たる学問の家をなしたほか、後世にも大きな影響を及ぼした。[br][brm]
趙翼は「廿二史箚記」できこえているが、これは「十七史商榷」に比しても更に及ばないと云われるが、支[br]
那の歴史の大勢を見るには相当便利でわかりやすいが、特に正史の中の相互の異同に注意し、[br]
あまり博覧を主とはしない学者であった。ことに大体は詩文の名家として知られ、その餘業として見[br]
れば勿論かなりのしごとである。[br][brm]
かかる旧史考証のしごとは、その他の人人によっていろいろの方面から手をつけられたが、かの経学[br]
者として著名なる恵棟は「後漢書補注」を作り、彭元瑞(実は劉鳳誥が完成)が「五代史記注」を作り(「新五代史補注」)、王元啓は「史記三書(律、歴、天官)[br]
正譌」を作り、梁玉縄は「史記志疑」を作った。この梁玉縄は別に「漢書人表攷」を作った[br]
が、これは「人表」にのっている古今の人物が、古い書物にどういう名で云われているかを精密[br]
に研究したもので、人物を九品にわけて評隲した奇妙な「表」がこのしごとによって考史家の利用[br]
に供せられるに至ったのは、面白い事実である。少しおくれて出た章宗源の「隋書経籍志[br]
考證」も、わりあい利用価値の少なかった「経籍志」を化して有用のものとした極めて有名なものであって、「経籍志」[br]
の中にある書籍が今日どれだけ現存しているか、又既に亡びた書物では今日どういう書[br]
物にどれだけ引用されているかということを精密に研究したもので、勿論多少の見落とし[br]
は免れないにしても、一種輯佚のしごととして極めて有益なものである。ただ遺憾なことには、史[br]
部だけしか完成しなかった。その他、旧史の「表」や「志」を補うしごとが流行し、洪亮吉の「補[br]
三国疆域志」とか、銭大昭の「後漢書補表」とか、周嘉猷の「南北史表」とか、〔銭坫の「新[br]
斠注地理志」とか〕の著述が現われ、又、正史の缺を縫うて作られたものに謝啓昆の「西魏[br]
書」とか、陳鱣の「続唐書」などが(別史)できたが、これらはいず[br]
れも宋以来の正統論に関係し、「西魏書」は正史で東魏を正統としたのを改めたものであり、[br]
「続唐書」は南唐を正統とする主張を寓したものである。又、「通鑑」にならったものは、[br]
古く徐乾学たちの手に成る「続資治通鑑」についで、畢沅の「資治通鑑続編」(実は、邵晋涵の方寸に出づ)ができ[br]
て「資治通鑑」につぐものを作ったわけであるが、「通鑑」には及ばなかった。すべて江蘇の史学[br]
は、大体銭大昕の影響を蒙ったものが多く、銭氏自身が史料の綿密な研究に没頭[br]
していたため、そういう臭味のある人が多い。しかし、銭氏もやがて顧炎武のように、制度などの[br]
沿革を貫いて大勢の推移を捕らえることを理想としていたらしい 「答問」 が、生前にはこれを実[br]
現できず、そういった意味の史学は、むしろ浙東派の史学に須(ま)った。[br][brm]
浙東は元来、清朝の起った時代に最後まで明の遺民が抵抗したところであって、自然[br]
民族精神の最もよく発揚もされ伝えられもしたわけであるから、史学の如き単に考証のみ[br]
でない色彩を帯びて登場するには最も好適な舞台であったわけで、浙東の史学が江南[br]
に比して異彩を放ったことも了解できようし、浙東では経学が起らずに史学が起った理由も[br]
十分承知できることと思う。その浙東で、黄宗羲、萬斯同の後を承けて乾隆中に出たのは鄞(ぎん)の全祖望で、[br]
その地位はまさしく江蘇の銭大昕と相等しく、明末の史実に詳しく、明末の特殊な人物の[br]
ために碑伝をいろいろ作った。これはちょうど銭大昕が自分の崇拝した宋の洪适(こうかつ)・洪遵(金石) 、[br]
王応麟(挍勘) 、明の王世貞(実録によりて歴史を研究す)の年譜を作ったり、厳衍(「通鑑補」) 、閻若璩(古代地理)、[br]
胡渭(禹貢) 、萬斯同(「明史」) 、王懋竑(「通鑑補」) 、恵士奇・恵棟(漢学) 、江永(礼、西洋数学)、戴震[br]
(小学・数学)などの伝を作ったように、別段頼まれて諛墓の文を書くのではなくて、自分の研[br]
究をば碑銘の形で発表したのである。また、金石、地理、ことに「水経」の研究には新しき生[br]
面をひらいた。又、邵晋涵も有名な歴史家で、その先世には邵廷寀(ていさい)の如き特異な学者[br]
を出した家であるが、四庫全書館に召されて戴震は経、邵晋涵は史を分担し、特に[br]
正史の「提要」はその力作であるが今の「提要」は紀昀の手が加わっていて、邵晋涵の自作のものは「四[br]
庫全書提要分纂稿」として「紹興先正遺書」に刻されているが、邵氏の最も念願としたこと[br]
は「宋史」を書きなおすという大事業であった。このことは銭大昕も倡導したことで、北宋の分は王[br]
禹偁(うしょう) の「東都事略」があるためやや好いが、南宋はできがわるいということになっていて、邵氏は之を[br]
志したが、不幸、短命で没した。[br][brm]
章学誠は、やはり浙東に生れ邵晋涵とは仲の好い友人で、邵氏の先祖の邵廷寀が一見識の[br]
ある学者であることを発見したのは章氏であり、章学誠の「文史通義」を未刻の中から吹聴[br]
したのは邵氏であったと云う。しかしその学風は同じくなく、邵氏にしても全氏にしても江蘇風の[br]
ところが多かったが、章氏になると全くその点を棄てて通論を述べ、銭大昕などは史考家で[br]
あって史学家でないと考えていた。その著述たる「文史通義」「校讐通義」、ことに前者はいわゆる史意[br]
を論じたもので、遠く唐の劉知幾の「史通」を承け、あらゆる著述を歴史の観点から批判した一種[br]
の歴史哲学であって、六経は道を載する器であり、道は六経によって説かれていて、その時代は個人の著[br]
述のない頃であったが、やがて分業が起るとともに議論がおこり、議論がおこるとともに個人の箸述[br]
が起った。それには文というものが必要であり、文には証拠がなければならぬ、その証拠を一貫して藝術的[br]
に発表したのが文であるという考えで、これが即ち史の本体であると称した。有名な「六経みな史な[br]
り」といった一言はその信念から出たものである。而して史学は、この道にならって而かも世の規範を立てて[br]
ゆくことが必要で、儒者のように六経をそのまま持ち伝えようとするのは「学而不思」ものであ[br]
り、諸子百家のように異説のみを立てるのは「思而不学」であるといった。さらに実際の問題としては、[br]
古代の著述は学統によって理解すべきで、個人にのみ帰することができない。近代の著述はいかように書こ[br]
うともさしつかえなく、史体としては紀事本末の優秀性を力説しているし、史注としては著者の原注[br]
によって史料を保存すべきことを論じた。別に崔述は直隸に生れ、一つの新しき史観を以て、すべて[br]
現代の常識を以て古代のことを批判した。これが「考信録」となって現れたが、研究方法はむしろ朱子[br]
に本づくもので、故書の中から信ずべきものと信ずべからざるものとを区別し、古代史について新生面[br]
をひらいた。その著述は生前、人に知られること少かったが、わが那珂通世博士が日本で刊行されてから、内外[br]
ともに注意し、今日の東洋史学にも相当の影響を与えている 「内藤博士と章学誠」。[br][brm]
なお、ここに附説すべきは支那の史学に伴う伝記の学であって、六朝以後も朱子の[wr]「名臣言行[br]