講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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文庫[/wr]に帰し、丁氏の書は南京の国学図書館に移り、海源閣も今は四散してしま[br]
い、残る鉄琴銅剣楼も心もとない状態になってしまった。[br][brm]
かかる乾・嘉・道の三朝にわたり有益な叢書を刻した人は極めて多く、畢沅の「経訓堂[br]
叢書」は子部の善本を以て知られ、盧文弨の「抱経堂叢書」は「群書拾補」によって[br]
著名であり、孫星衍は「岱南閣」「平津館」の二叢書を刻し、張海鵬は「学津討源」を[br]
刻して「津逮秘書」を拡張し、また「借月山房彙鈔」「墨海金壺」の如き大叢書[br]
を刊行したが、「借月山房」は後に「沢古齋重鈔」「式古居彙鈔」「指海」などと名をかえて重版され、「墨[br]
海金壺」は「守山閣叢書」「珠叢別録」のもとになりして世に現れたことも、いかに刻書が流行したかを[br]
物がたるものである。その他、蒋光煦の「別下齋叢書」・阮元の「文選楼叢書」・潘仕成の「海山仙館叢書」・[br]
下っては伍崇曜の「粤雅堂叢書」・潘祖蔭の「滂喜齋叢書」・陸心源の「十万巻[br]
楼叢書」、さらに最近は李盛鐸の「木犀軒叢書」・繆荃孫(びゅうせんそん)の「雲自在龕叢[br]
書」など、徐乃昌の「積学齋叢書」・江標の「霊鶼閣叢書」・劉世珩の「聚学[br]
軒祖書」・沈宗畸の「晨風閣叢書」、さらには黎庶昌の「古逸叢書」など、数限りもない叢書が現われた。さてこそ[br]

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張之洞の「書目荅問」にも、多く古書を読もうとすれば叢書を買わなければならないと[br]
力説しており、又、特に刻書をすすめる文をかいて、[br]
およそ有力好事の人が、もし自ら顧みて徳行学問が人に過ぎるほど[br]
のことなく、而かもその名の不朽ならんことを望めば、古書を刊行するのが一番だ。しかし、[br]
書物を刻するには、費用を惜まず、学者を招き、秘籍をより出し、よく挍正すべき[br]
で、そうすればその書の伝わるかぎり刻書の人も亡びない。歙(しょう)の鮑・呉の黄・[br]
南海の伍・金山の銭の如き、五百年はその名の消えないこと確実である。自分[br]
で本を書き、自分の集を刻するよりずっととましである。[br]
と云っているのは、今にしても思いあたることがあろうと思う。[br][brm]
こういう刻書の風が、遂に各省に官立の印書局を設立することになり、専ら良書を刻[br]
し、ただ紙費だけをとって、これを読書人に頒ったことは、極めて意義あることで、光緒[br]
の初年ごろ設けられた湖北の崇文書局をはじめ、湖南の思賢書局、広東の[br]
広雅書局・その他浙江・江南・山東・山西などで、続続これに效った。ことに[wr]江南製[br]

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造局[/wr]で大規模に西洋学術書を訳出したことは、当時の西洋学流行に拍車をか[br]
けるものとして注意すべき事業であり、後来、西洋学術の提倡にのりだした人物[br]
は、かつてこれらの訳書のおかげを蒙らないものはないといえる。[br][brm]
これとともに西洋伝来の影印・石印の法や、鉛印の術が弘まるにつれ、従来の木版に[br]
とって代って、尨大な印刷が一挙にして遂げられるに至ったので、その方法を応用して旧[br]
来の支那学の重要なる書物を最もよい版によって影印した「四部叢刊」の如き大[br]
出版物も成功し、これこそ商務印書館の名を不朽ならしめたものである。又、これら[br]
の新しい方法を応用して、考古学的な遺物をはじめ幾多の希覯な史料を世[br]
に布いた羅振玉氏その他の功労も、十分に感謝されなければならない。[br][brm]
最後に、個人の学者たちが自分の生涯に知りえたことを随筆的に記録し、しかも[br]
それがたとい断片なりとも学術の進展に寄与したものは少なからぬ。ことに宋人[br]
の随筆にはそういうものが片麟を示されていて、当時の学界はまだこれをまとめた[br]
著述をするだけには進歩していなくとも、その中には貴重なヒントをふくめたものが[br]

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しばしば見出される。ことに沈括の「夢渓筆談」などは、楽律・象数・人事・官[br]
政・藝文・書画・技藝から薬議まで、いろいろに分類して、一は談助に資した[br]
ものであるが、さながら最高の教養をもった人物の漫談を承るように、津津として尽[br]
きない興味を覚える。又、王応麟の「困学紀聞」のごとき、まったく「箚記考證の[br]
文」 提要 で、宋代無比の博洽さを発揮したもので、後の清朝の学術に重要な影[br]
響を及ぼした。これがため早くは閻若璩がその箋を書き、何焯がこれを挍正し、[br]
幾多の学者の箋注もあるが、翁元圻の注が最も備わっている。清朝に至って、こ[br]
の学風が正しく受けつがれ、その辟頭に立つものは顧炎武の「日知録」であった。これは[br]
かの博大な学者が一大の心血を注いだ名著であって、今に至るも、たとい内容に補正を要する所ができても、その価値は少しも[br]
減じない。道光中に黄汝成が「集釈」を書いているが、これを論評したものはその数少[br]
くない。これにつぐものは閻若璩の「潜邱箚記」というわけであるが、これはやや劣る。次の[br]
時代になると、王鳴盛の「蛾術編」・銭大昕の「十万齋養新録」の如きものが陸[br]
続として現れたが、これとともに、いわゆる文集の体裁も次第に変化して、雑著をふく[br]

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むようになり、古くは朱彝尊の「曝書亭集」・全祖望の「鮚埼亭集」・銭大昕の「潜研堂文集」・戴震の「東原集」・段玉裁の「経韻楼集」・[br]
汪中の「述学」・阮元の「揅経室集」の如きものが輩出し、その集をよむことは、そ[br]
の人を知る以外に当時の学問の流別を知る何よりの助けとなる。阮元の如きは、[br]
こういう態度で後進を誘掖し、浙江の巡撫であった時に、杭州に詁経精舎を設[br]
け、緒生に題目を課した成績が「詁経精舎文集」として出版され、後に兪樾[br]
が山長となるまで七、八集も出ているが、最初は「南北学派流派論」というよう[br]
な堂堂たる題目で、作者も錚錚たる人物が多く、なかなか読みごたえがある。[br]
この風は阮元が広東に転任するとともに「学海堂集」となって現われ、その他の[br]
地方にも一時非常に波及した。最近の個人の集として最も読みごたえのある[br]
のは、章炳麟・王国維の両先生で、これが旧学から新学への過渡となり、梁[br]
啓超の新学提倡の波が遂に五四運動の激浪となり、古い衣をぬぎすてた新しい[br]
支那学の勃興となるわけであるが、これには日本・西洋からの刺戟が重大なこと云[br]
うまでもなく、その顛末に至っては、別に端を改めて述べたいと思う[nt(050150-2650out01)]。[br][brm]

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燉煌の遺書。石浜氏

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