講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
うだけのことであり、その古文が後に現れたというのは、むかし春秋戦国時代に存していたテキストが[br]
一時埋没していて、それがある時を隔てて発見されて学界の問題となり勢力となったから[br]
である。その埋没された原因は、云うまでもなく秦漢の間の争乱であった。つまり、漢の初には[br]
古来のテキストは全く影をひそめていたが、これはその実物の現れないというばかりでなく、かかる[br]
基礎的研究が行われるようなゆとりがなくて、もっとてっとり早い実用的方法だけが行[br]
われていたからである。自然、その時代における経学の目的は、経そのものを学究的[br]
に研究し、古書の真面目を知るというような点よりも、経に現われたる精神を体得して教養ある人物となり、そ[br]
の時代における有用の学者となるということに傾いていたらしい。たとえば、漢の昭帝の時に宮廷に黄服[br]
をつけた男が現れて、先帝の時に追放された衛太子だと名のった。朝廷の臣僚たちはみな泡[br]
を食って誰ひとり物を言うものがない。その時、長安の市長であった雋不疑(せんふぎ)が出て、たとい衛太子本人[br]
であったとて騒ぐことはない。「春秋」によれば蒯聵(かいかい)という衛の公子が父に勘当されて国を去[br]
っていたが、父の死後、無理に国へ帰ろうとした時、その子の輒(ちょう)が拒んで納れなかった。「春秋」ではこ[br]
れを褒めている。衛太子もまさにこの例にあたるからといって捕縛してしまった。時の[wr]大将[br]
軍[/wr]霍光(かくこう)がこれをきいて、公卿大臣には雋不疑のように経術あり大義に明かな者を任用すべきだと云った、とい[br]
う。これはもとより経術であって、経学そのものではないが、当時の朝廷に立てられた官学の博士[br]
たちの学問も決して純学究というばかりでなく、むしろ人物の養成にあったことが窺われる[nt(050150-0320out01)]。[br][brm]
その後、天下の泰平とともに各地から、古いテキストが発見されると、自然、これを研究する学者[br]
が現れたが、[br]
これよりさき官学に立てられたものはすべて今文のテキストであって、その顛末は王国維先生の[br]
「漢魏博士考」に詳しく、今その要をあげると、漢の文帝の時に始めて一経博士を置いたが、武[br]
帝の時に五経博士を置いてその人数を制限し、宣帝の時には十二人に増した。その講[br]
座の内容は明かでないが、宣帝が増設した講座が、梁邱易、大小夏侯尚書、穀[br]
梁春秋となっており、「儒林伝」には大小戴礼、施孟易も増設されたとある。これに対し、従[br]
来の講座は「書」の欧陽、「礼」の后蒼、「易」の楊、「春秋」の公羊であったと云うことが[br]
見えて、「詩」については記載がないが、「藝文志」には前漢一代の学官をすべて、[br]
易(施、孟、梁邱、京氏)、書(欧陽、大小夏侯)、 詩(魯、斉、韓)[nt(050150-0320out02)]、礼(后蒼、[wr]戴[br]
[050150-0320out01]
通経致用―平当以禹貢治河、夏侯勝以洪範察吏、董仲舒以春秋決獄、王式以詩経当諫君
[050150-0320out02]
「詩三家義集疏」
徳[/wr]、戴聖、慶普)、春秋(公羊、穀梁)[br]
とあげているから、王氏の結論は、施・孟・梁邱・欧陽・大夏侯・小夏侯・斉・魯・韓・[br]
后氏・公羊・穀梁を以て宣帝の十二講座に擬している。その結果の是非はともか[br]
くとして、すべて今文系統の学者たることには更に疑いない。[br][brm]
しかるに平帝の時になって、新に「左氏春秋」「毛詩」「逸礼」「古文尚書」を立て((?))、王莽の時に[br]
は「周官」まで立てられたとあるが[nt(050150-0330out01)]、後漢の初めの十四博士はいずれも今文であり、一時「左氏」[br]
を立てたこともあるが、結局後漢一代を通じて朝廷の博士は今文に独占されていた[br]
らしい。しかし、この間における古文派の学者の活動は見逃がすことのできぬもので、ことに[br]
劉歆が古文の「左氏春秋」「毛詩」「逸礼」「古文尚書」を立てんがために、勅命を奉じて五経博士[br]
と経義を講論せんとしたが、諸博士の中にはこれに応じないものすらあった。ここで歆は[br]
博士たちに書を送って、これを難詰した文章が「漢書」の本伝にもあり、「文選」にも選ばれて[br]
いる。今これによれば、魯の恭王が孔子の宅をこぼたんとした時、古文を壁のこわれた所[br]
から発見したが、それは「逸礼三十九篇、書十六篇」で、孔安国がこれを献上したが、衛太子[br]
[050150-0330out01]
「白虎通」
に因む巫蠱のさわぎにより施行に及ばず、又、「春秋左氏」も秘府に蔵せられたまま世に現れ[br]
なかったが、成帝の時に秘府の書物を出して挍勘を加え、学官に伝えた経伝の脱誤を発[br]
見し、民間に行われた魯国の桓公、趙国の貫公、膠東庸生の遺した学問もこれと一致[br]
することを知ったが、遺憾ながら、世の学者は「因陋就寡、分文析字」のことにふけり、末[br]
師を是とし、往古を非とし、保残守缺、あるいは敵には嫉妬を抱き、味方には雷同附和するは、二三君[br]
子のために取らざる所であると論じたので、諸儒がみなこれを怨んだとある。[br][brm]
古文経がはじめて世に出た時はもとより、先秦の旧によったものであろうが、それが次第に世に[br]
弘(ひろ)まるにつれて、文字を改めて隷書を以て写したテキストも次第に出来たであろうが、も[br]
とよりすべての文字を写しかえられるものでもなく、自然、古字の系統を引くものも多く認[br]
められるであろうし、テキストの上の異同も多く、ことに各学統による解釈の相違がい[br]
ちじるしいことは後漢の一代を通じて、はっきり認められることである。その著しい例の一つは[br]
許慎の「五経異義」であって、たとえば天の名を論ずるにも、今尚書欧陽説によれば、春は[br]
昊天、夏は蒼天、秋は旻天、冬は上天、総じて皇天というとあるに対し 「爾雅」の説を用う 、[wr]古尚[br]
書説[/wr]では、内容の方から尊んで君という時は皇天、元気広大という時は昊天、仁徳が下の[br]
ものをあわれむときは旻天(35)、上から下にのぞむ時は上天、遠くから見て蒼蒼している時は蒼[br]
天というのだ、と云うことをあげ、許慎の説として「尚書」の「欽若昊天」は四時をすべたことばで、春に[br]
限らず、「左伝」に「孔子卒」したところに「旻天不弔」とあるが、秋のことでなくて夏のことであるから[br]
今文説は経に合致しない、と云うように述べてある。ごく大体のことを云えば、今文の学説は漢[br]
までの社会的環境によって加えられた解釈が中心となっており、古文の方はそういうしきたり[br]
に捕われず、むしろ、文字そのものの訓詁から古義を引き出そうとした傾がつよく、その判定[br]
者たる許慎は、ほとんど古文の肩をもっていることも、許慎が「説文解字」の著者たることを知[br]
れば思い半ばにすぎることであろう。今一つは、鄭玄の注解で、殊に「三礼」においては今古文[br]
の文字の異同を夥しく記録している。たとえば「士冠礼」の「布テ二席ヲ于門ノ中ノ闑ノ西、閾ノ外ニ一、西面ス」の条[br]
に「古文闑為槷、閾為蹙」とあり、「加へレ柶ヲ面レ枋ヲ」の条に「今文枋為柄」とある如く、本文に[br]
今文を採用してある所では、「注」に「古文はこれこれ」と云い、本文に古文を採用してある所では、「注」に[br]
「今文はかくかく」と云っていることで、これによって双方の系統を今日まで髣髴することがで[br]
きたとともに、鄭玄の定めたテキストは今文でもなく古文でもない、と云う結果になる。これは単[br]
に文字の異同のみでなく、学説から云っても、たとえば「毛詩」の「伝」の後に加えた鄭玄[br]
の「箋」にしても、単に「毛伝」の意見を補うのみでなく、自分の意見を下したといっているが、その[br]
自分の意見とは実は「三家詩」に本づくものが多い、というのが定説である。かくして後漢を[br]
経た経学は、ほとんど鄭玄の手によって統一されたわけになり、その注釈した経典は、「周易」「尚書」[br]
「毛詩」「周礼」「儀礼」「礼記」「孝経」「論語」にわたった。ひとり「春秋左伝」にその注を見ないことは、[br]
鄭玄が春秋伝の注を作りかけたころ、偶然、服虔と同じ旅舎に泊まりあわせた、その時、服虔[br]
が車の上で人に自分の注の意味を話してやっていた声をききつけて耳をすますと、大体自分[br]
の注と同じだからといって、原稿をすべて服虔に譲った、という話が「世説新語」文学篇 にも出ている[nt(050150-0360out01)]。[br]
すべて漢の学問は家法乃至師法を重んじて何某の門人であるという伝統がはっきりして[br]
いるものであるが、鄭玄の師の馬融にしても「学無常師」と称しているし、鄭玄にしてもか[br]
かる学風であったことは、漢学の大成者として見るとともに、その転換期に立ったものといって[br]
はばからない。当時、何休は公羊学をおさめて「公羊墨守」「左氏膏肓」「穀梁廃疾」を著したところ、鄭玄はこれを駁して「発墨守」「鍼膏肓」「起廃疾」を作ったというが、何休の「春秋公羊伝解詰詁」は長く後世に伝えられた。[br][brm]
[050150-0360out01]
李貽徳「春秋左伝賈服注輯述」
魏晋以後の経学は、鄭玄の祖述ないし批判に始まり、ことに王粛の如きは務めて鄭玄のむこうを[br]
張ったと思われるが、漢学が結局、古文的傾向に落ちついた影響として、篇章字句の間に[br]
終始し、謹厳なるとともに拘泥を免れなかったに対し、王弼の「周易注」のごとく訓詁をさらりと[br]
払い落した慧知は、当時の思想を背界として、相当に歓迎された。ことに漢時代の「易」の研究は大[br]
体象数と称せられ、数理または卦(か)の形状に拘泥した煩瑣な説明を中心としていたため、これを思[br]
想的に見なおした王弼のやりかたがあたかも時代の要求に合致した。王粛の如きは、自己の学説を行わ[br]
んがために「孔子家語」を偽作してその根拠を示したと称せられることは、如何にも学術転変の際であった[br]
ことが窺われるし、喪礼について三年の喪を、鄭玄は二十七ヶ月と解しているに対し、王粛が二十五ヶ[br]
月という異説を出したことは、単にその「期而小祥(十三月)、再期而大祥(二十五月)、中月而禫」の「中月」の解釈[br]
の相違から、経のきまりを実践せんとする人人にたいし、後世までも大きな影響を投げた。王粛は[br]
殆どすべての経書に注を作ったが、「易」では王弼が行われ、「論語」では何晏の「集解」が行われ、降って[br]
は晋の杜預の「春秋左氏伝集解」、范甯の「穀梁伝集解」などができ、南朝においてはこれらの[br]
経解が一般に行われた。ことに問題とすべきは「古文尚書」のことであって、既に佚亡したと信じ[br]
られていた「古文尚書」ならびに「孔安国伝」が東晋の時に発見され、豫章の内史梅賾の[br]
手で朝廷に進められ、それも始めは「孔伝」の「舜典」一篇を缺いていたので、王粛や范甯の「注」を以て代用して[br]
いたのを、更に斉のころ姚方興なるものが孔氏伝「舜典」を献上し、その首には二十八字だけ従来のテキ[br]
ストになかった分が発見されたというので、当時の学界をさわがした。これには、早くも当時、斉の[br]
官に即(つ)いていた梁の武帝が怪しいとにらんだらしいのであるが、結局これが多くの人に承認[br]
されて、「尚書」の注といえば「孔伝」、「尚書」といえば古文ということになった。その古文はいわゆる隷[br]
古定と称せられ、古文の形状を隷書の筆法で写したものであるが、「孔伝」は内容的に[br]
王粛と極めて近いため、このテキストに疑いがかかれば、当然王粛が第一の容疑者とな[br]
ることが常であった。かくの如く南朝においてはさまざまの新しき研究や新しい発見が行わ[br]
れると、直ちにこれを採用するというような政策をとってきたが、北朝では大体旧来の注釈を[br]
墨守したようで、「北史」儒林伝にも、南朝では「周易」は王弼、「尚書」は孔安国、「左伝」は杜預[br]
の注を用いたが、北朝では「左伝」は服虔、「尚書」と「周易」は鄭玄、「詩」は南北とも毛伝、[br]
「礼」は南北ともに鄭注であったと云う。自然、北方の学者はまったく漢儒の学風をうけ[br]
たから、いわゆる「北学深蕪、窮其枝葉」であり、南朝の学者はおおむね達意の学を好[br]
んだから、「南学約簡、得其英華」「北史」儒林伝 と評せられ、学統の大きな差を示したが、ま[br]
もなく隋の天下一統に至り、経学はまったく南学を標準とすることになり、ここに大勢が[br]
決定した。[br][brm]
これよりさき六朝の経学における特異な現象はいわゆる義疏の発達であって、これは当[br]
時における経書講義の盛行という風潮に乗じたものに相違なく、漢人が極めて簡素なる形式を[br]
以て「伝注」を作ったに対し、かかる尨大な著作が残されたことは、必ずや当時の思想界が相当[br]
の洗練を受けて、特に分析的傾向を持ったことに原因すると思う。ことに経書の講論に[br]
おいては、ちょうど今日でもわが奈良に存する仏経の講論と同様に、講者と難者とを設[br]
けて互に論難を加え、甲がある角度より議論を提起すれば、乙はこれを経書からの証拠によ[br]
って論駁するものの如く、つまりは仏教における研究法が応用されたのであり、その間には[br]
科段を分つという方法が屢(しばしば)用いられたことは、「周易正義」のはじめに八段にわけて総論を試[br]
みたり、「喪服」の「疏」のはじめに七章に分けた説によっても明かで、在来の研究法の専ら総合的[br]
であったに反し、新しい分析研究を加えた点が注意され、現存の皇侃の「論語義疏」乃至[br]
「周易疏論家義記」「礼記子本疏義」の断巻を見ても多くの興味ある事実が発[br]
見され、ある意味における経学の新しい発展である。唐のはじめに孔頴達等が勅[br]
を奉じて、「周易」「尚書」「毛詩」「礼記」「春秋」五経の「正義」を作り、ついで賈公彦が「周礼」「儀礼」[br]
の「疏」を作ったのも、要するに六朝の義疏を整理編纂したにすぎないのである。かくして[br]
欽定となった五経の解は、ながく唐人の必修教科として残されたのであるが、一面から云うと、[br]
かくの如き分析的研究もいわば伝注の群中に立てこもったもので、最初から伝注を死守する[br]
という立ちばであり、况(ま)して経伝そのものは最も尊厳にして犯すべからざるものであった[nt(050150-0400out01)]。[br][brm]
かかる経学は、宋時代における哲学の流行とともに、二つの影響を蒙った。一つは、既に唐末か[br]
ら存在した伝注否定の傾向により、六朝までに築きあげられた所の注釈がもしその注[br]
釈の群にたてこもらずして、各個に吟味を加えるならば、案外脆弱なものであることを暴露[br]
し、たとい経そのものについては未だ指を染めないにしても、たとえば欧陽修が「周易」の「繋辞」を[br]
疑って、孔子の作でないと云ったのを始めとして、「周礼」を批難したり、「孟子」を疑い、「毛詩」の「序」を疑ったりするよ[br]
[050150-0400out01]
李鼎祚「周易集解」