講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
その楽器としては、鼓と簫とが用いられたらしいことは、いろいろの書物に見えるし、中には笳も[br]
用いたことも見えている。又、別に横吹というものがあって、これも胡楽であって、「古今注」に[br]
よると、はじめ「摩訶」「兜勒」の二曲を得、李延年がそれによって新声を作ったといっているが、横[br]
吹とはその名の示す如く横笛であるが、これは恐らく簫と笳との合奏であったらしく西[br]
晋の末ごろに羗あたりの民族から支那に伝えられたもののように思う。こうして漢・魏・晋にわたり、西域音[br]
楽が支那に伝えられた上に、北朝になると、元来が塞外民族である処から、前凉では天[br]
竺の楽が輸入され、後凉では亀茲を亡ぼして、その音楽「善善摩尼」、解曲「婆伽兒」や舞[br]
曲の「小天」「疎勒鹽」などが来り、後魏では疎勒(カシュガル)・安国(ボカラ)などの楽を得たというし、北斉の天[br]
子などは、自分で亀茲楽を愛して演奏されたといい、後周でも康国(サマルカンド)・亀茲(クチャ)さては高昌(トルファン)の楽を[br]
えたという話が「册府元亀」五七〇夷楽に見える。ことに重要なことは、北周の武帝の時に、亀[br]
茲国の蘇祗婆というものが突厥の皇后に従って来たが、その奏する琵琶は一均の[br]
中に七声があったとて、その一一の名が「隋書音楽志中」に書かれていることで、この記事は梁の鄭[br]
訳のことばによったもので、訳は楽府の楽は五声にすぎないといっている所を見ても、南朝[br]
に伝わった音楽の系統は五声であり、北朝に入ったイラン系統の音楽は七声であったこ[br]
とがわかる。この旧来の音楽はいわゆる清商三調、すなわち清調・平調・側調商調? [br]
であって、これを清楽とも法曲ともいった。その清平二調は五声で二変を用いぬが、側調は[br]
二変を用いたので、後に北朝の音楽が唐の宴楽として行われた時に、二変のある側調[br]
が胡楽に混入して一つになってしまったというのが、凌廷堪の「燕楽攷原」の説である。これ[br]
らの唐代の胡楽は、当時非常な勢を以て流行し、唐の王建が「洛陽家家学胡楽」と歌っ[br]
たくらい、今日の西洋音楽にも比すべきありさまであったが、更にこれが海をわたってわが[br]
国に伝えられ、宮内省の雅楽として保存されている中にはむかしの胡楽があるのも[br]
面白い事実で、今も伝わる蘭陵王の曲の如きは胡人の面をつけて踊っている。こう[br]
した新しい音楽の流行こそ、詩が詩餘に移る重要な背景となったに相違ない[br]
ことである。[br][brm]
宋におけるこれらの音楽が、次第に編曲の体をなし、王灼の「碧鶏漫志」にも、大曲とは、散[br]
序・靸 ・排遍・ ・正 ・入破・虚催・実催・袞遍・歇拍・殺袞まで行って[br]
一曲が完成したとあり、「楽府雅詞」の中にある董穎の「薄媚」という曲〔西子詞〕では、[br]
排遍から歌が始まり、 を経て、入破・虚催・袞遍・催拍・袞遍・歇拍・殺袞[br]
で終わっている。〔この中重要なのは入破以後であり、その面白いものは摘遍と称して、それだけとり出して歌ったという任二北「散曲之研究」「東方」二十三‐七。〕この大曲も恐らくは宋から高麗に輸入されたらしく、高麗史で唐楽という[br]
のが即ちこの宋楽のことだと内藤湖南博士が研究されている。元曲に至っては、北支那に流行し[br]
た音楽を基準とし、琵琶を中心とした七音階であり、南曲は南支那にあった音楽[br]
で、鼓板を主とした五音階であったという。こうした相違が結局、南曲では声情が多く、[br]
北曲では辞情多き結果を見たものの如く、保守的なゆるい音楽は心を蕩揺させ、進[br]
歩な強い音楽は精神を鼓舞したものの如くであるから、南曲の中にも、往往北曲をまじえ[br]
て緊張せしめている所も見える。その後嘉靖年間に、崑山の魏良輔が水磨調をはじ[br]
め、いかにも流麗悠遠であったため、天下これを崑曲といって尊び、北曲の伝えが亡びたのみか、南方の[br]
弋陽・海塩・餘姚の諸腔まで廃止され、実に清朝道光までその勢力は絶対的であった。その[br]
後に至り、いわゆる花部、すなわち京腔・秦腔などが勃興した結果、崑曲が衰え、ことに[br]
湖北から起った二黄や、甘粛より来た西皮などが、当時北京で勢力の[br]
あった安徽出身の徽班がこれを歌ったので、これを合せて皮黄といい、遂に[br]
今日に至るも、支那演劇界を支配している。[br][brm]
演劇そのものは、むかしの「滑稽(列)伝」に見える俳優の記事によって、時事を諷するような[br]
意味を兼ねた餘興として演ぜられ、参軍という役者の名などは唐以前からあったと云[br]
われる。その後宋になって、雑劇という名で、特に朝廷で演出されたらしいが、元では正末・[br]
副末・旦孤などが一座をなしていたらしく、劇は一幕はすべて正末又は正旦が唱い、原[br]
則として四折で完成する。しかるに明曲になると、必ずしも四折に限らぬのみか、数十齣にの[br]
ぼることも珍しくなく、一齣の中は必ずしも一人が唱うわけでもなく、又、合唱さえも許され[br]
ている。清の歴代の天子はみな戯曲を好まれ、康煕帝の如き、広和楼で観劇されたと伝[br]
えられ、乾隆帝は南巡の際に戯曲を喜ばれ、遂に四大徽班を北京に招かれ、近くは西太[br]
后がいわゆる戯迷であって、李蓮英とともに舞われたという位であるから、この藝が[br]
盛を極めたのも無理はなく、名優も輩出した。汪桂芬・譚鑫培などがその錚錚たる[br]
もので、近来は梅蘭芳に至って人気を独占している。[br][brm]
支那人は文字を尊尚することにおいて世界にその比を見ないだけに、元来実用のために生れた文字を以て美術におけ[br]
る特に重要な項目として立てるという、これ亦世界にほとんど類の少ない事実が発生し[br]
た。ことにその文字が数多く複雑であることは、同時にその趣味を豊ならしめるものであり、[br]
汲んで尽きることなき滋味を伴った。ここにその濫觴をたづぬれば、古くは殷虚の亀甲獣[br]
骨さては周代の鼎彝や石鼓に刻まれた文字、さては漢碑に残る謹厳なる[br]
篆隷まで、数かぎりもないわけであるが、特にその発達を促がしたものは紙の発明で[br]
あるということができよう。これよりさき金石に刻む以外にも、竹簡や縑帛(けんぱく)にもこれを書[br]
したことは、篇といい、巻という文字によっても知ることができようが、縑帛はその価も貴[br]
く、竹簡にては極めて不便であったので、後漢の蔡倫が、樹膚・麻頭・敝布・魚網を用いて[br]
紙を作ったので、世に蔡侯紙といったと云う「後漢書」本伝。これが極めて低廉でもあり、軽便で[br]
もあったことは、忽ちその普遍的流行をうながし、自然、ここに文字の体まで影響を[br]
生ずるに至った。即ち篆書は金石に刻するに適したが、筆の発達とともに漢[br]
隷、即ち波磔(はたく)を帯びた文字がおこり、或はこれを八分ともいったが、更にこれを簡略にし[br]
たのが章草である。これは草とは云え、隷の筆法を存していたが、後に至ってその波磔を[br]
去り、自然、上下の文字が連綿としてつづいた所の、いわゆる今草に変化した。これととも[br]
に、漢隷のままその波磔を収めたのが真書即ち楷書であり、その楷書を少しく捷(はや)[br]
がきにしたのが行書であるといわれ、つまり楷と草との中を行くものである。これら[br]
の書体はおよそ漢末には大体完成されたという 「書苑」四ー一 図解書道史。[br][brm]
これらの書体を以て名を馳せた人物としては、古く秦の李斯、漢の蔡邕・張[br]
芝などもあるが、後世に至るまでも、書といえば王羲之と称せられるほど、晋の王羲之 逸少 [br]
の名が高い。王羲之が最も心折していた書家は、魏の鍾繇や衛夫人で[br]
あって、羲之も常にこれを臨摸していたと云われる。羲之の書として特に有名[br]
なものは「蘭亭叙」であり、永和九年353、、羲之が会稽内史であった時、謝安等と[br]
山陰の蘭亭に修禊した時の文であり、「文選」に収められた名作である。これは鼠鬚[br]
筆を以て黄絹に書した行書であったが、羲之自らも一代の傑作として子孫に伝え[br]
たが、後に唐の太宗に至り、その真蹟をえて愛玩のあまり、遂に昭陵に殉葬せしめ、[br]
その後、世に伝わったものは、その響榻本と欧陽詢・褚遂良二家の臨本であるという。[br]
その後も次ぎ次ぎに摸刻され、その総数は八十数種にも上るという。また、真書には「楽毅[br]
論」「黄庭経」「東方朔画賛」などが著名であり、草書としては、「快雪時晴帖」や「十七帖」が著名で[br]
ある。「十七帖」とは、尺牘二十餘通を集めたもので、その最初に十七日云々の文句がある[br]
からそう名づけただけのものである。王羲之の子・献之子敬 も父に劣らぬ名筆として[br]
歌われ、「洛神賦」や「中秋帖」などが著名である。又、王珣の「伯遠帖」もある。[br][brm]
唐に入ってからも、天子には太宗のごとき能筆があり、名臣にも欧陽詢・虞世南・褚遂[br]
良の如き大家が輩出し、中にも欧陽の「化度寺碑」「九成宮醴泉銘」、虞の「孔[br]
子廟堂碑」、褚の「孟法師碑」などは特に著名であった。その他、懐仁の「聖教序」[br]
や孫過庭の「書譜」など、今にその姿を留めているし、玄宗ごろには、李邕北海太守・顔[br]
真卿あり、ことに顔の「多宝塔碑」「争坐位帖」などは著名である。杜甫の「飲中八仙[br]
歌」には、「張旭三杯草聖伝 脱帽露頂王公前 揮毫落紙如雲煙」という[br]
句もあって、張旭の草書を推しているが、その歌の首に出る「知章騎馬似乗船」の[br]
賀知章の「草書孝経」がわが御府に伝えられている[nt(050150-2280out01)]。晩唐にも、柳公権の「玄秘塔[br]
碑」などが出た。こういう風であるから、これを評論したものが現われるのも当然で、唐の[br]
孫過庭の「書譜」がその代表であって、やはり羲之をあげて絶妙としている。又、張懐瓘も[br]
「書断」を著し、各体や各人の筆迹について詳しく討論しているし、竇臮(とうき)には「述[br]
書賦」があって、各家を評隲しているが、ことに竇は、晩唐の李陽冰をあげて全書の結[br]
びとしている。これと同時に張彦遠がこれらの論書の著述を集めて「法書要録」を[br]
編輯して今日に伝えているのは、即ちその議論が如何に発達したかを見るに足[br]
る現象であろう。[br][brm]
宋に入って太宗皇帝は王著に命じて「淳化秘閣法帖」を輯めしめられた。これが古今の法[br]
帖の祖となったものであるが、その中は「歴代帝王法帖」「歴代名臣法帖」「諸家古[br]
法帖」「王羲之・献之の書」などに分類されている。さすが天子の秘物であるだけ、[br]
臣下としてこれをそしることもなかったが、米芾(べいふつ)に至って、その真偽を弁別し、黄伯思は[br]
これを史書にかんがえてその誤りを正し、明に至っては、顧汝和というものが更に細かに[br]
[050150-2280out01]
[懐素の自叙帖]
挍勘を加え、康煕年間には何焯等が更に研究を加え、遂に王澍に至ってその考正[br]
を著してその大成を集めた。この「閣帖」が出てより以後、多くの叢帖ができたが、宋で[br]
は「大観帖」「太清楼帖」の官帖のほか、「潭帖」「絳帖」のごとく、「閣帖」を母体とし[br]
たものがあり、別には「汝帖」「甲秀堂帖」があり、明には晋藩の「宝賢堂帖」[br]
「停雲閣帖」文徴明 、「真賞斎帖」「餘情斎帖」「戯鴻堂帖」董其昌あり、清には[br]
右軍の「快雪」、子敬の「中秋」、王珣の「伯遠」によった乾隆の「三希堂帖」や、馮銓の「快雪[br]
堂帖」が有名である。これらの沿革については、王澍の「考正」の附録にある「古今[br]
法帖考」というものが最も要領をえている。[br][brm]
北宋の書家として著名なのは、蘇軾・黄庭堅・米芾 南宮海岳 ・蔡襄 君謨 などの諸[br]
家で、黄伯思の「東観餘論」「法帖刊誤」、董逌の「広川書跋」などとと[br]
もに論書家の宝貴する所である。南宋は特に気節を重んじ、柳公権の[br]
いわゆる「心正則筆正」の語が世にもてはやされ、岳飛や文天祥の書が尚ばれた[br]
のは、まさに時代の然しめたものである。[br][brm]
元になると、最も有名なのは趙孟頫(もうふ) 子昻松雪 であって、王右軍・李北海に学んで一[br]
代の宗師と仰がれ、明ではその中期に祝允明・文徴明・王守仁などを出し、末期に[br]
は董其昌が著名であり、わが国にも大きな影響を残した。[br][brm]
清朝に入っても、初めは趙子昂(すごう)・文徴明などの影響が濃く、成親王・劉墉 石菴 ・翁方[br]
綱などが著名であったが、当時の金石学の勃興に伴い、次第に篆隷を愛す[br]
る人ができ、鄭燮 板橋 ・鄧石如 完白 のごとき、その先声といえるが、ことに阮元が「南北書派論」[br]
「北碑南帖論」を作ったことは、書学の上に重大な影響を及ぼ[br]
した。つまり阮元の考えによれば、隷が正書行草に変じたのは漢末魏晋のころで、[br]
その正書行草が南北二派に分かれたのは、東晋・宋・斉・梁・陳が南派であり、趙・燕・[br]
魏・斉・周・隋が北派であり、南派は鍾繇から二王を経て、虞世南に伝わり、北派もや[br]
はり鍾繇に本づいて、欧陽詢・褚遂良に至って顕われた。南派の特色は疏放[br]
研妙で啓牘に長じ、減筆のあげくは読めぬものもできたが、北派は中原の古法を[br]
守って拘謹拙陋であった。唐になって太宗が王羲之を好んでから、虞世南が最も[br]