講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
たことがあり、別の山東の学者は水滸伝を日本で教材に使うそうだが、山東語のために[br]
喜ばしいこといわれたことがあり、最近帰還した人の言によっても水滸のことばが山東に相[br]
当残っているらしい。金瓶梅にしても、山東東昌府の土豪劣紳西門慶の生涯を描[br]
き、もとは水滸伝の一節から出発して、あれだけの長編小説を書きあげたところは、山東[br]
語文学の最高峰といえよう。紅楼夢に至っては、著者と称せられる曹雪斧は漢[br]
軍八旗の出であるとすれば、その身辺を描いたこの小説こそは、当時の最も洗練され[br]
た北京語の雛形と想像される。そして、これらの白話小説は、ひとり山東人北京[br]
人の間に持てはやされたばかりか、呉音系その他の青年男女の間にもひとしく持て[br]
はやされ、一々の文字の発音こそ相当違っても、ちょうど現代の北京人が二千年[br]
前の古典を今の北京語で読み、現代の日本人が万葉集を現代の日本音節で読むよ[br]
うにして、これらの文学を読破し、むしろ白話文学は全て官話音系のことばで書かれるに[br]
決まっているといった観念を養成した。前に述べた海上花の作者と海上繁華夢の作者と[br]
の間に行われた応酬の如きも、まさにこの間の事情によるものである。かの[wr]呉敬[br]
梓[/wr]の儒林外史の如き、作者は安徽人であるにも拘らず、その中に使用されたことばは、だい[br]
たい紅楼夢と大差なく、やや方言と見るべき語彙を含むに過ぎない。[br][brm]
かようにして一面はこの官話音系言語が政治の中心にくらいして応用の方面に勢力を持つ[br]
とともに、一面はその言語で書かれた文学が、もし周作人氏の表現を仮りるならば、一[br]
般社会の風紀を維持し、不平不満をやわらげるという、いわばこの民族の鬱血を散[br]
じ栄養をかよわすことになったことは、さらに胡適氏の表現を仮りるならば、口で話すことばだけで到達できない地方まで[br]
も、文字になったことばによって、どこまでも侵入して方言的領土を拡大していたわけで、[br]
これまた他の系統の言語によってその地位を動かされるおそれのないことであった。かようにして[br]
官話音系独尊の地位は極めて早くから自然に定まっていたところに、いよいよ標準語として人[br]
為的に推戴せらるべき時節が到来した、それはほかでもない民国以来の国語統一の機[br]
運であった。[br][brm]
元来、初期の国語統一の運動は正しくいえば読音統一の運動で、全国的に統一した[br]
形を持つ文字も、その読音が地方によって大きな差を持つため、この国が統一国家[br]
としての形態を具えようとするかぎり、読音統一ないし国音統一は重要な国家社会[br]
の問題として取りあげられざるを得ないのである。これよりさき日清戦役を中心として起[br]
こった革新運動の一つとして、教育を起こして民智を開くべしということが叫ばれたが、教[br]
育を起こして民智を開くための最大障礙は漢字であり、少なくとも漢字教育改革の[br]
前提として漢字に対する発音記号を制定することになったが、こうして発音記号が制[br]
定されるためには、まずその発音の規準となる標準語をきめてかかることが何より必要であ[br]
った。もとより標準語を決めるには首都のことばを採用するのが東西各国の常石で[br]
あり、ことに前述の如く中国における歴史的事実が暗黙の間に承認を与えていたこ[br]
とでもあるから、首都北京のことばが標準となることはむしろ当然のことであった。しかし、こ[br]
れにも多少の波瀾はあって、例えば章炳麟の一派の如き、湖北音を推薦した、曰く、[br]
北京官話は官吏の用語で一般公共のものではなく、それに北京は全国としては北に偏[br]
し、満洲音も混入していて文弱のはなはだしいものであるから、むしろ最も純粋にして中和を[br]
得たる湖北方言を用いるようにせねばならないと。しかし、他方には黎錦煕氏の如く[wr]北[br]
京音[/wr]を主張し、北京音は純正とはいえないかもしれないが、全国に最も弘通している[br]
官話の代表として標準読音たるだけの資格も備えているというものもあり、結局は多数を[br]
もって、北京語を採用し、ただ若干の修正を加えてほかの地方との調和をはかることにした。したが[br]
って当時の考え方でいえば、北京語は必ずしも国家の標準となるような総体的な意[br]
味で提出されたのではなく、単に文字の呼びかた、すなわち読音の標準という点で、[br]
その発音のみが抽出されたに相違ない。さればこそ、北京語の発音そのものもさらに全国[br]
民族がとにかく発音できるといったものだけを抽出したわけで、必ずしも北京音そのまま[br]
が全面的に承認されたわけではなかった。とはいえ、北京語の中から読音のみを抽出し、読[br]
音の中からさらに発音できるもののみ抽出するといったような行きかたは、極めて便宜的で[br]
あり、また不自然であったため、こうして作った国音と、自然に成立した京音との[br]
間にはどうしても摩擦がおこり、摩擦がおこれば基礎の薄弱なものがまず倒れるわけ[br]
で、さてこそこの京音国音、略して京国問題が揉(ママ)みぬいた末、ついに完全な北京語を採用し、その[br]
北京語も単に発音だけを抽出せず、まして全国民族がとにかく発音できるか否かに頓着[br]
することなく、かくして正しい意味における北京語が標準語としての地歩を確立するに[br]
至った。これはつまり、元来は自然が査定してくれていた標準語を人為的の見かたで重[br]
ねて査定したため、自然に反したことになり、かくして言語そのものにも矛盾を生じたため、ここに人為的の[br]
査定を廃して、あるいは、人為的査定を自然の査定に一岐せしめることによって安定を見た[br]
のであり、元来は文言ないし古典の音読のため単に一字一字の発音のみが重んぜられて[br]
いたのが、ここに言語全体として完全な調和を恢復したわけであり、これを一言でいえば、[br]
読音統一は国語統一にまで生長したのであって、かくして始めて北京語は新しき中国の[br]
標準語となることが許されたといえる。[br][brm]
中国人という民族は自分たちが一音節ごとに吐き出している概念を一つの文字として受[br]
けとめたとすると、文字は当然概念の代表者、少なくとも主として概念をするも[br]
のでなければならない。つまり中国語の正字Authographyとしてはこの種の文字を考えるべ[br]
きであるが、こうして多数の文字が極めてルーズな方法によって次から次へと概念を追うて制[br]
作されるとき、別に説くようにある程度音韻を示し、あるいは音節を示す用意が施されてい[br]
るとしても、それは結局重要な意味とならず、つまりは表意文字という意識に吸収されてし[br]
まうのであって、各の表意文字を今日ではどう読むべきかという一定の理論や方式が成[br]
立せず、つまり一種の訓練によって記憶せしめるほかはない。しかし人間はかなりな記憶という[br]
能力が与えられているとともに、またその限界があるものであって、ことに一見類似したものを[br]
二様に区別して記憶することはかなり困難である。現在の漢字の音が相当に系統をみだ[br]
しているのも、あるいはこうした記憶の困難から来たことかもしれず、さらにこうしてみだされた系[br]
統のものをそのままに記憶しようということは二重三重の困難を生じ、乱雑を招く。そのた[br]
め中国ではかなり古くから文字の音を指定する方法が行われた。たとえば周易の蒙の[br]
卦に再三涜とあるところに陸徳明の経典釈文では涜音独と注し、同じ卦の用[br]
説桎梏に対し釈文では桎音質と注している。この意味は、その当時の人が自然[br]
に理解していた音節の種類の中で、問題の文字、ここでは涜または桎が属すべきも[br]
のを指定するために、その音節に属する他の文字の中の任意の一つ、もしくは比較[br]
的に記憶された率の高いものを一つ選択したということである。これは音節の数に限界が[br]
あって、文字の数に限界がない--とまでいえなくとも、一つの音節の中に多くの文字が含ま[br]
れるこの国の言語として、既知のものをあげて未知のものを証明する上における、もっとも自然な[br]
方法であった。涜と独、桎と質とは意味においてはある程度の差があっても、その所属音節[br]
を単位としてあつかうかぎり、全然それは同一であるからである。[br][brm]
しかるに、この方法の一つの欠陥は音節と文字との関係はかなり恣意的なもので、ある音[br]
節には極めて多くの文字が含まれているにも拘らず、ほかの音節では極く少数の文字し[br]
か含まれず、それも平常の使用率が低いものであったとすると、適当なる既知数をあ[br]
げることができず、xはyに等しく、yはzに等しいというだけで、abcの出来ないことが起[br]
こる。そこでこれに一歩を進めた方法は、二つの既知数を乗じて未知数を出す方法で、た[br]
とえば東の字の発音を示そうとするには、東と子音を同じうする文字から仮に徳の字[br]
を選び、またこれと母音を同じうする文字から紅の字を選ぶ--この手続きは音節を[br]
まとまった形において理会する階段から、外国語の影響も加わって子音母音の分解が完[br]
全にできあがった時代になると、さまで困難なことでなく、ことに全音節と違って子音母音だ[br]
けの既知数を取るとすれば、この取りあつかいは極めて容易である。もとより子音母音を取る[br]
にはそうした音節を形づくるための内部構造から来た制約があり、決して単なる子音母[br]
音というほどに抽象されず、もっと音節と具体的に連なった所があるが、それはしばらく問わず、[br]
ともかく徳紅の二字すなわち二音節をこの順序で、ふだんの倍の速力で読もうと努め[br]
る。つまり一音節の時間の中に押しつめて読もうとする。元来中国語の構造が、前に述べ[br]
た如く、同じ大きさの建築材料が積みかさなっているという以上、二音節をつめて一音節半と[br]
いったものを作ることは許されないわけで、必ずその半分づつ、ないし合計一音節になるだけを砕いて棄[br]
てねばならないということになる。その場合に棄てられるのは、初めの文字の終わりの音と、後の文字の[br]
初めの音とで、残るものは初めの文字の初めの音と、後の文字の終わりの音とで、結局、初めの[br]
文字の子音、ないしこれに近いものと、終わりの文字の母音とが一音節という形の中に合併され、別[br]
にいう声調はその条件によって子音母音のそれぞれが遺伝する。これはわが国の地名[br]
でいえば石動の「し」と「ゆ」がつまって「す」となるようなもので、中国人の意識としては音節を[br]
子音母音に分解できないため、それぞれの完全なる音節をそのままで速く読む、つまり[br]
口の中で全速力をもって反転し摩切するという心もちから、これを反もしくは切と称し、こ[br]
の方法はかくして反切という述語によって代表された。もっともこの現象は中国語には[br]
極めて古くから行われたことで、茨のことを蒺藜といい、椎のことを終葵といったというような事[br]
例も多くの学者によって拾い集められておるし、普通の文章でも送之乎郊野といえば[br]
五音節になるというようなとき、これを四音節につめて送諸郊野という。その諸は決して「もろ[br]
もろ」という意味を示すものではなくて、之の子音と乎の母音を合わせた音節を代表して[br]
いるに過ぎない。この方法は、一字によって発音を示したものに比べれば、非常な進歩であっ[br]
て、もしさらに、その子音母音を示すべき文字を一定し、進んではこれを符号化したとすれば、そ[br]
の方法は一層簡易となりその効果は一層的確となったことと思うが、不幸にしてこの国の人た[br]
ちは文字の繁雑をいとうことなく、はなはだしきはこうした記音の手続として用いられた二[br]
字の組み合わせにすら、意味または美的要素を加えないでもなかったため、完全なる方法[br]
まで脱皮することなしに、長い歳月を送ったのであった。[br][brm]
この間に西洋人の如く音標文字を用いなれたものが中国に訪来するにつれ、漢字の音を[wr]羅馬[br]
字[/wr]で転写しようという企てがおこり、その先鞭をつけたのは利瑪竇Mateo Ricciなどらしく、[br]
彼が程氏墨苑のために書いた羅馬字漢字対照の文章が今日に残って、十数年前に北[br]
京の輔仁大学から明季之欧化美術及羅馬字注音と題して印行されている。つづいて[br]
金尼閣Nicolas Trigaultは西儒耳目資を著して、詳細に中国語の組織を考え、[br]
自鳴 すなわち母音 五と同鳴 すなわち子音 二十、あわせて二十五の元音を錯綜して、一切の漢字[br]
音を表出した。もっともその根底となるものは南欧の羅馬字つづりで、-mに終るものは[br]
北欧では-ngにあたるわけであって、当時●なお-m音があったとは考えることは許されない。その[br]
後ゼスイット派宣教師の勢力が一時全く駆逐されたが、アヘン戦争以後になってイギリス、ア[br]
メリカのプロテスタント宣教師が訪来するにEedkinsやWilliamsの努力を経て、それ[br]
らが威妥瑪Thomas Wadeの語言自通集 一八八六年 に吸収され、西洋人による羅馬[br]
字表記法は一応の結束に達したということができる。[br][brm]
中国人がその言語のために音を記録しようと努めたのは、日清戦争以前に遡ることで、[br]
福建の人盧贛章がシンガポール、アモイなどで宣教師を助けるかたわら勉強している中[br]