講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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第四節 標準語の語彙[br]
中国語は原則として単音節制であり、どこまで行っても単音節的であるというために、そ[br]
の概念は何とかして比較的おのれの姿を写すにふさわしい音節を求めて、そこに休[br]
らおうとする。たとえば中国人、今標準語を取って例にすれば北京人が、全面的[br]
にそして咄嗟に他人の言葉を遮ってそれを否定しようというとき、必ず唇を突[br]
き出してㄅㄨˋという音を発する。これはおそらくその心中に否定しようとする気[br]
持ちが浮かんだ刹那に、いわば他人のことばにいち早く嘴をさしはさもうとするよ[br]
うな衝動で、唇の筋肉が緊張するからであろう。たとえかかる咄嗟の場合[br]
でないまでも、およそ否定を意味する文字、没のごとく非のごとく別のごとき、すべ[br]
て唇音に属しないものはなく、勿などは北京では一応母音で始まっているが、そ[br]
れはかつての唇音が脱落した結果で、現に蘇州語などでは今でも唇音で口頭に[br]
常にのぼせている。このことは小児が始めて言語、少なくとも子音を発するときに[br]
選ぶものが唇音であり、自然父母を呼ぶことばが唇音になるという世界におけ[br]

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る多数国語の共通性-中国語もその一つであるが-と合わせ考えるとき、一つ[br]
の興味ある問題を提示するものと思う。このことは母音においても大体の傾向[br]
が認められ、たとえば斉歯音ㄧを母音として持つことばは大体平たいものや長[br]
いものが多く、旗がㄑㄧˊ枝がㄓであり、渓がㄒㄧであり、池がㄔˊであり、[br]
尸ㄕであるというような例はいくらでも拾うことができる。また合口音ㄨを[br]
母音として持つことばは大体丸のもの穴の空いたものが多く、団がㄊㄨㄢˊ、[br]
洞がㄉㄨㄥˋ、窓ㄔㄨㄤˊが、環がㄏㄨㄢˊ、唇がㄔㄨㄅˊであった[br]
りするような例がいくらでも拾える。かように概念が発音と密接に結[br]
びついて、ほぼ一音節の内に安住の地を見いだすということは、この言語の根本の[br]
性格であり、標準語たる北京語もまさしくその枠の中に箝まっているわけ[br]
である。かつて冰心女士がなお若くしてアメリカに留学し、病のためボストン[br]
市外のある療養院に入っていたとき、つれづれなるままに同じ病院に入院[br]
中のアメリカの一少女に中国の文字を教えたことがある。ところがその最初に[br]

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教えた文字が「天地人」の三字であったので、その少女が驚いて「シナの方って[br]
不思議なものね、あたしたちが最初に習ったのはcat, dogでしたのよ」といったという[br]
 寄小読者 による。冰心女士がほとんど無意識にこの三字を拾ったのは、もとより文字[br]
の形に一つの思いつきがあったと思われるが、これとともに中国人においては抽象的[br]
なものも具体的なものもすべて一音節で表現するという習慣が久しく積み[br]
あげられ、その結果として、犬や猫も天地人と同じくらいの重さであり、逆にいえば[br]
天地人というような深遠な概念も犬猫同様であっさり取りあつかわれることを[br]
意味し、アメリカ人が驚くわけも理解できると思う。この言語はこうして概念[br]
を一音節ないし一つの文字に宿しているため、今日から考えていわゆる語源の研究、[br]
特に音義二者の関係を説こうとする企てが多く、それは言語の意識から今[br]
では忘れ去られた古人の思想を探り出す手がかりとなるものであり、もし牽強[br]
付会に陥るおそれさえなければ、この研究は今後とも種々の意義をもって活発に[br]
行われていいことである。[br][brm]

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 しかるに前にも述べた如く、音節の数は少なくて、概念を一つずつ収容するには足[br]
らず、自然、二音節という形のもとにその収容につとめねばならないということになる。その[br]
二音節という中にも前に述べた椅子や尾巴とおなじく、お日さまのことを日頭といい、[br]
お月さまのことを月亮といい、お星さまのことを星々といい、その他、爸々、媽々、弟[br]
々、妹々の類から卓子、繩子、石頭、枕頭、花兒、棗兒など極めて多くの一定[br]
した表現ができあがっている。これらはいづれも第一音節の意味を耳からもまちが[br]
いなく聞きとるためであるが、月亮のように絶対に特別なものはともかくとして、子、[br]
兒、頭のように多くのものに共通したものでは、元来やはりある種の意味があって、[br]
子や兒は物の小さいことを示した、いわばドイツ語の-leinにあたる感じであり、頭[br]
は堅まった固い物を示す感じである。だから両のものを両兒といえば小両のこと[br]
であり、特に子と兒とをどちらも取ることばでは、卓子は大きなテーブルのときに、そして[br]
卓兒は小さくて手のこんだものに用いるし、進んで三字になっても小孩兒といえば五六[br]
歳の子どもで、中学生だったら小孩子といわねばおかしいし、可愛がっていえば[wr]小孩[br]

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兒[/wr]というが、怒っていえば小孩子となるというところに、その差を見いだすことができる。したがって[br]
そういうものが全然意義のないものだということはできないわけである。次は二音節とも[br]
相当の価値を持つものを並列して、単音節では分析することのできない概念を分[br]
析する。前に述べた皮包や粉筆とともに、その作られた材料による区別を示[br]
すものには豆飯とか木桶とか油畫とか布鞋とかがあり、動かす力による区別を示[br]
すものには電燈とか汽車とか風琴とかがあり、用途による区別を示すものには花[br]
瓶とか風帽とかがあり、位置による区別を示すものには天窗とか地板とかがあ[br]
り、時分による区別を示すものには日報とか月帳とかがあり、すべて上にある音節[br]
は下にある音節の区別を示している。そうして上にある音節は下にある音節[br]
を修飾し限定するが、その間においても音節としてはいささかの変動もない。さら[br]
に他の音節を修飾し限定する間に、その音節の意義自身が相当の変動[br]
をおこすこともある。たとえば同じ「天」であるが、天窗といえば天にむいている窓であ[br]
るが、天はすべて人力ではいかんともしがたいものだというわけで自然ということになり、天産[br]

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といえば自然にできた産物であり、天府といえば自然に恵まれた土地であり、天足と[br]
いえば自然のまま人工によってゆがめられない足であり、天花といえば自然に皮膚に[br]
模様のできる病気、つまりは天然痘である。また天には何かしら主意もあり権[br]
能もあって一種神聖な力を代表するというところから、天公といえば自然界の現象を[br]
管理するものであり、天主とか天使とかいうことばもそれから出る。また天といって人に[br]
すぐれたものをいうときは天才とか天人とかいうようになる。さらに二つの名刺が同等に連結されたものとして、品格とか形象とか次序とか部位とか、新しい熟語にはこの形式のものが非常に多い。ただすべてこうした意[br]
義の連合ないし推進にあたって、音節そのものには何の変化も認められないところ[br]
が、この言語の特色である。[br][brm]
以上は名詞という類に収めてよいものであるが、形容詞または副詞についても、本来[br]
の質料、品格、形象、状態、数量、次序、部位などを示すほかに、いろいろ活用[br]
されており、黒心腸的人といって腹黒い人人間をいい、黄色人物といって政治的色[br]
彩の青々としない人間をいい、清官ではお金を貪らない人、渾蛋で常識のない人間[br]
をいい、粗人とか精兵とか曲筆とか真筆とか冷眼とか熱血とか薄情[br]

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とか乾笑とかいういいまわしが発生する。これは名刺が名刺を限定するに対し[br]
て形容詞が名詞またはこれに準ずるものを限定したのであるが、さらに二つの形容詞[br]
が連結されると、原来の意味を強めたり別の意味を加えたりする。たとえば明、清、[br]
白という三つの形容詞があるとすると、その組み合わせは今のところ清明、清白、[br]
明白の三つであるが、その中の清明は人の考えがしっかりとして評判のよいことであり、[br]
清白は身分や行為の汚れないことであり、明白ははっきり人に分かることであって、[br]
初めの明 光りのあること 清 きれい 白 色が白い とは大分違ってくる。なお形容[br]
詞の上に名詞を加えたもの、たとえば雪白、漆黒、粉砕、筆直などはその意味を[br]
具体的絵画的ならしめるという効果をもって、しばしば使用される。[br][brm]
次に動詞というべきものについては、看見とか組織とか圧迫とかの二音節語がしば[br]
しば用いられ、ことに新しい熟語は大体名詞と兼用で、ほとんど横行しているありさま[br]
である。それに引きかえて旧来の動詞は多く一音節で、それが口語で聞きとりにくいた[br]
めと、いささか助動とでもいうべき概念を添えるため進(走進、跑進、踏進、飛進、[br]

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流進、透進、照進、爬進、推進、買進、用進)とか下(吃下、喝下、記下、[br]
寫下、取下、跌下、解下、留下、睡下、坐下、停下、掉下)とか見とか到とか起[br]
とか掉とか上とか開とか得とか出とか著とか道とかを加えるものがあり、さらに名詞[br]
を含んで一つの動詞を形づくった睡覚、鞠躬、願意、生気、成功、幫忙や[br]
形容詞を含んで一つの動詞を作った冒険、説明、討好、付清[nt(050220-1080out01)]の如きものが特[br]
例といえないほど、しばしば使用される。ただこの言語の性質からいって、名詞を含ん[br]
だ動詞と形容詞を含んだ動詞とは区別のしにくいことが多い、つまり名詞と形[br]
容詞は次の語法で説くようにコプラなしに説明語となるかどうかという相違[br]
しかないからである。しかもこれらの形容詞は動詞とも判然たる区別のないこ[br]
とがあり、冷淡とか軽薄とか煩労とか秘密とかいう形容詞はそのまま動詞とし[br]
ても用いられるし、名詞でもものの形状を示すものになると、そのまま動詞として[br]
用いられることもあって、たとえば堆とか片とか点とか封とか包とかいうことばが、[br]
把柴草堆起来というように用いられる。さらに自然物や人造物をそのまま[wr]動[br]

[050220-1080out01]
説錯

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詞[/wr]として用いれば、そのものを使用した場合の動作を示す、油一条船とか漆一張[br]
卓子とか剪一件衣服とか鋸一根木頭とがその例で、また図、画、蓋、頂、鎖、[br]
釘、籠、醤、糟、車なども、すべてその作用を持つものである。ただしこういう場[br]
合も、かりにこれらのことばを名詞と定義するとすれば、別に形容詞副詞または動[br]
詞になったと考える必要はなく、この国の人々の意識では形容詞または動詞のあるべ[br]
き地位に座りこんだだけのことで、本質的の変化は考えられない。名詞はあくまでも名[br]
詞としてその実体、およびこれに伴う一切のことがらを包括的に示しているのであり、[br]
してみれば形容詞とか動詞とかも、ただその観念に伴う一切のことがらを包括的[br]
に示したもので、語彙そのものとしては一向特別な区別を考える必要のないこと、あた[br]
かもその形式に何等の変化も認められないと同様である。[br][brm]
こうしたことは動詞の性質についても考えられることで、標準語では買はㄇㄞˇであり売[br]
はㄇㄞˋであって、声調が異なるというだけで発音は全然同じであるが、このことは古い時[br]
代には声調も全く同じであったことを想像させるもので、現に蘇州語では両者の[br]

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間に全然差別がなく、区別をするときは買進とか売脱去とかいった助動の力にたよる。[br]
これをわが国語から考えると、「うる」とか「かう」とはその動作をする人が正反対になるの[br]
で、それを同じことばで表そうなどとは思いもかけないわけであるが、もし動作をする人を[br]
予想せずに、ただある品物が甲の手から乙の手へと貨幣の代償によって譲り渡される[br]
という概念を表すものとせば、一つの動詞があればよいのであって、北京語のように[br]
区別することは必ずしも旧来の姿でないと思われる。そのことは「うける」と「さずける」が[br]
文字を異にしていて同音に読まれることも思い合わされる。これというのも、動詞は[br]
単に動作を示すだけで、その他のことは動詞の関するところではない、といった分業組[br]
織が徹底してあるからであり、そこに一種の分析的性質が認められるわけであり、一面から[br]
いえば、単音節言語としての束縛が感じられる。このことはさらに動詞における概念[br]
の分裂のほかに、形容詞の「おもい」と「かさなる」とは初め必ず同音であったに相違[br]
ないのであるが、後になって「おもい」はㄓㄨㄥˋといい、「かさなる」はㄔㄨㄥˊというようになっ[br]
たし、「つたえる」ということと「つたえられるもの」すなわち伝記も昔は必ず同音であったに相違[br]