講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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ないが、後になってㄔㄨㄢˊとㄓㄨㄢˋの別を生じたらしい。こうして見れば中国人の観念にも名詞[br]
動詞形容詞の別がなかったとはいえない。現に名詞のあるものは椅子、石頭、花兒のごと[br]
き形によって確実に名詞たることを示し、たとえそうした表識を欠いたものも、それぞれの[br]
詞にはそれぞれの登録された詞性はあり得るのであって、「電車」や「学校」が動詞になる[br]
ということもない以上、概していえば動詞と形容詞とはすべて名詞的に使用される可能性[br]
があり、形容詞は動詞的に使用される可能性が多く、そして名詞は形容詞の修飾[br]
形として常に使用される。ただ多くの場合、一種の常識ないし直覚によってその本籍を[br]
知るべき方法が考えられるから中国語の辞書においても品詞を注することは不可能でな[br]
いと思う。[br][brm]
以上に述べた名詞形容詞動詞のほかに、形容詞から副詞を分けることもできるが、本[br]
来は性格の同じものであって、ただ名詞の上に加わるか、動詞または形容詞の上に加[br]
わるかというだけのことである。ただしたとえば「很」のように北京語ではほとんど形容詞の上にだけ用いられるも[br]
のがあって、いわば形容詞を識別するための試験紙の用にたつものもあるが、格別それ[br]

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までの分類をせずともというので、ただ形容詞ないしこれに似た名称で包含している[br]
人もある。また名詞の中から代名詞を分けることもできるが、元来標準語の代名[br]
詞は極めて簡単であって、特に取り出す必要もないといえる。ただしこの言語には一[br]
般に複数を示す表現がなくて、ただ数詞その他を上に加えることによって示されている[br]
に拘らず、特に人称代名詞では我們、你們、他們の如く們を加えるいいかたがあ[br]
る、もっとも人們とか先生們とかいうことばもあり得るから、これをもって代名詞のみの[br]
問題とすることはできないが、一般の名詞にそれが及ばない点を見ると、これらはむ[br]
しろ人称代名詞から波及したものと考えてさしつかえない。そして性に対する表現[br]
としては、名詞に男女などのことばを加えるだけであって、人称代名詞の三人称[br]
についても男性女性中性の差がなく、発音としてはすべてㄊㄚに限られている。た[br]
だ特に注意を要するのは同じ一人称の複数に我們と偺們の二つがあることで、[br]
黎錦煕氏の国語文法によると、偺們は自分と相手とを統べたいいかたであるが、[br]
その他の人を排斥する。これに反して我們はその他の人を統べるから、他[br]

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空気 身上 禽獣 名字[br]
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歓喜 〔屋裏〕 楊柳 〔朋友〕[br]
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中国 桜桃 回答 〔衙門〕[br]
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東京 〔先生〕 楼梯 〔房間〕[br]
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考試 〔主意〕 四季 〔性命〕[br]
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趕緊 了解 到底 道理[br]
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旅行 〔枕頭〕 用人 〔太陽〕[br]
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点心 労心[br]
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們は我們の中に加入してくる。してみると[br]
 我們+你們(あるいは我+你)=偺們 しかるに[br]
 我們+他們(あるいは我+他)=*我們 であるとすると、この
 我們+你們(あるいは〔我+他〕+你)=偺們[br]
という式が成立して偺們の中には自分も相手もその他の人もすべて含むことが[br]
ある。しかし、この場合は自分とそのほかの人とが全然合一していないからであって、結[br]
局は我們と你們とになるという。ただしこの際も我們とだけいうのが普通であ[br]
ると述べている。しかし、たとえば電車の中で友だちと二人が乗りかえを誤っ[br]
たとき、我們錯了とはいうが、偺們錯了ということはない。[br]
その場合に我們の内容は完全に他們を[br]
排斥しているとすれば、我們がそのほかを統べるという原則が破れるわけであるが、実はこの[br]
我們が相手として選んだのは、むしろ同行の友人でなくして他の乗客であり、すなわち[br]
ほかの乗客たちがこの場合の你們にあたり、他們ということは考えられていない。しかるにこ[br]

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こで偺們といったとすると、他們が予想されたことになるわけで、つまり偺們の条件とし[br]
て他または他們があるにもかかわらず、これを意識的に排斥しようとするたてまえであ[br]
って、他または他們がないとすると偺們という表現も成立しなくなってしまうのである。し[br]
たがって、さきの公式においてこの条件を加えるとともに、*我們を持ち出して偺們に他[br]
をも含ませるということは、何の意味もないということになると思う。つまり我們とは他または他[br]
們が予想されてもされなくてもよいことばであり、偺們は予想されてしかも排斥しよ[br]
うとするもので、黎氏の定義はたしかに訂正を必要とする。[br][brm]
以上のほか中国語には介詞連詞および助詞嘆詞など、すべてこれら主要な概[br]
念を示すものを助けてその関係または気分を示すものがある。その中で、介詞とは[br]
大抵他動詞またはその下に補足の詞を持ち得る動詞が、その補足の名詞を伴[br]
って動詞の上に置かれるもので、たとえば拿手巾擦臉の拿や、従學校回来の従[br]
の如きもので、あたかもその名詞をば動詞に紹介するような形になるので、これを介詞[br]
と称する。たとえばそれが時間を意味するならば、在・・・・以前とか在・・・・時候、在[br]

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・・・・以後というように自分を示すことばを伴い、空間を意味するならば在・・・・地方とか[br]
在・・・・上、従・・・・地方というように空間を示すことばを伴う。ただし名詞自体が時間[br]
空間を明示しているときは必ずしもこういうことばを伴わない。連詞とは因為、雖然、所[br]
以、可是のように文と文との関係を示すもので、条件または推想を示すものには如[br]
果、仮使、除非、仮如、万一などがあり、一歩退く気持ちで語気を強めるもの[br]
には雖然、雖有、儘管、那怕、就算などがあり、原因または目的を示すものに[br]
は因為、既然、既経などがあり、前後対立して相反する意味を示すものには可是、但是、[br]
不過、然而、否則などがあり、後の文が前の文の結果たることを示すものには、所以、[br]
於是、因此などがある。すべて文と文とを連結するように見えるからこれを連詞と[br]
称する。助詞は大体文の終りに添えて肯定や完了や疑問その他あまりたしかでない[br]
という語気を示すもので、肯定には的、完了には了(ただし肯定にも用いる)、懐疑し[br]
つつ肯定しないことを示すには、呢と麽とがあって、呢は鼻にかかって不高興の気分が[br]
出るし、麽は口をはっきりあけて直接たずねることになる。そしてあまり希望せず[wr]安[br]

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心[/wr]せぬ気持ちを示すには罷を用いる。最後の嘆詞とは文から離れて独立に用いら[br]
れるもので、哈々、喂々、哎呀などがこれで、すべて文字の必要ない種類のものであ[br]
る。[br][brm]
かようにして概念がそれぞれの品詞性を持って単音節ないし主として二音節に宿った[br]
場合、若干の特例を除いて、口語では大体その概念が的確にききわけられる。単[br]
に字典によって同音の文字すなわち概念が多いことを見れば、いかにも聞きわけにく[br]
いように見えるが、たとえばㄌㄞˊの中に来徠崍淶萊俫郲騋錸のような概念[br]
が含まれ得るとしても、この中で口語として使用されるのは来ひとつであり、ㄌㄞˊと[br]
口でいった場合の代表者は来に確定している。むしろこれらの文字が来を借り[br]
て音符としていることを見て、その事情は十分推察されるわけである。さらに二音[br]
節になれば、その組み合わせは相当の数にのぼるため、実際口で述べる場合に、一つ[br]
の詞ごとにある程度の間隔がおかれるかぎり、これを聞きあやまることのないように[br]
できている。全然同じ組み合わせで概念が重複することは、文語をそのまま口に出[br]

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すとか、固有名詞をまじえるとかいうときのほか、実際にはなかなか起こらないように、多[br]
年の言語生活言語環境が巧みに整理を行っている。まして実際の言語では[br]
前後の関係や間接の暗示、ないし身ぶり手まね、ことに相互の間に既に了解されて[br]
いることがらを基礎としているわけであるから、こうしてこの言語はその乏しい音節を[br]
もってしても単音節の本質を破ることなしに、人と人との意志を通じ感情を伝え[br]
ているのである。かような語彙の性質が厳然として概念を示している以上、その[br]
相互の連絡について格別な表識がなくとも、概念は極めて安定した状態に置[br]
かれるわけであって、この国の言語の確実性はまさにそこにあるといわねばならな[br]
い。[br][brm]
二音節またはそれ以上の語彙が発生するについて、元来の単音節がその材料となっ[br]
ている以上、これらの語彙にも単音節の意味のほかに発音ことに声調の関係が起こって[br]
くる。その場合にもっとも標準となるものは先行音節に対する後続音節の影響であ[br]
る。もとより若干のものはその材料となった聲調をそのまま保存することもあるが、中には[br]

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かなり顕著な影響を蒙るものもある。しかもその影響は、あたかも元来の声調が[br]
規則だったものである如く、極めて規則正しい型となって表われる。この点について趙元[br]
任氏はその国語羅馬字対話戯々譜最後五分鐘(A.A.Milne, The Camberley [br]
Triangleの翻案)の付録として書かれた北平語調的研究において、主として三つの場合[br]
をあげている。その一つは上声の変化であって、上声と上声とが連続すると、第一字[br]
は陽平のように発音する。たとえば你也不在乎他の你は尼と同じく、我有了[br]
の我も陽平に、そして攏総的の攏は龍と同じくなる。また上声が別の声調の[br]
ものと連結すると、平な低い音になり、これを賞半という。我剛才進来的とか你回来啦とか[br]
魯季流とかいう場合の第一字は次の剛回季の影響により、低い平な調子に[br]
なる。このことによっていえるのは、(一)完全な上声は一向表われることがなく、ただ白[br]
の末だけに用いられ、そのほかは陽平または尾の切れた賞半となること。(二)上声が連[br]
なるときは、上の規則を連用できること。たとえば你有你的五分鐘では上の你が[br]
尼となり有が由となり、そして下の你が賞半となる。ところが我想你打定了主意了に[br]