講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
加えるのはすべて形容詞を重ねるか形容詞に副詞を重ねた最強的国家、遠行的[br]
人といった場合が絶対的である。もう一つは動詞を修飾として用いた場合で、これにも飛[br]
鳥のように鳥飛という叙述句を反転すれば仂語というか、あるいは一つ[br]
の詞のようになること、描写句でいえば国大-大国の関係と同じものもあるが、これと同時[br]
に狗叫が叫狗とならずして叫的狗となり小孩児哭が哭小孩児とならずして哭的小孩児とな[br]
るものがある、否これは動詞としてもっとも普通な場合であって、これというのも形容詞ならば描[br]
写句の述語としてその下に賓語をもつことはないが、動詞では叙述句の述語として下に賓語を[br]
もつ機会が多いため、叫狗とか哭小孩児とかいういいかたは叙述句の構造とまぎれやすい[br]
からである。したがって中国における的を英語の of と同視することは大きな誤解誤用を招く[br]
おそれがある。[br][brm]
次に叙述句の述語について考えることは、王氏のいう及物動詞不及物動詞すなわち他動詞[br]
自動詞の別であるが、あたかもそれぞれの詞に一定の類を賦与した行きかたでゆけば、喝や吃[br]
を他動詞とし哭や笑を自動詞とするのが当然であるが、動身とか下窓簾のように動[br]
く降りるが動かす降ろすといった使役的になったり、笑他とか坐車とかのように[br]
笑う坐るといってもあざ笑うとか車で行くとかというかなり変わった意味をもったりするように、[br]
元来自動詞であったものが目的語をもつこともあるし、その逆には説といえば説話、打聴[br]
といえば打聴消息、吃といえば大体は吃飯なので、単に您吃過没有というように元来他[br]
動詞であるものが目的語を持たぬこともある。すべて目的語には我打他のように目的にあるも[br]
のが動作によって顕著な影響を受けるものと、我笑他、我回家のように動作の対象にはな[br]
るが、一向先方では感じないかわからずにすむものと、我看見他、我愛他のようにこちらの五[br]
官ないし心理作用であいては別に影響を受けなくとも構わないのみか、むしろ五官ないし心理[br]
作用は相手の影響だといってもよい場合とあるが、すべてこれは論理的分類で、語法としては[br]
全然区別がない──この説明は従来の黎氏文法が自他の論理的区分を固執してい[br]
たのに比べて極めて簡明であり、私も多年そのことお論じてきたことであるが、この点、わが国[br]
語では「を」「に」というテニヲハによってその区分を明らかにしているのと大きな相違であ[br]
って、すべて物を動かすかあるいはただ関係するだけかということは大きく関係するという[br]
範疇でくくられていて、動詞が上にあってそれを無言の中に示している以上、名詞はただ黙[br]
って後に並んでいるだけで用が済むといったところに、中国語法の基本的性格、語序にす[br]
べてを托している姿が認められようと思う。なお名詞形容詞が叙述詞になることはむつかしいわけで[br]
あるが、ただ一つというべき例外は低頭でありそのほかは奶了他這麽大とか心冷了半截とか他紅着臉とかいうよ[br]
うに了または着の力を借りた場合である。自然名詞形容詞が叙述句になるかどうかの証[br]
明は了か着が附くかどうかということで分かり、形容詞が目的語を持ち得るかどうかという[br]
ことも合わせて証明される。 目的語が告訴你這個縁故というようにいわゆる双であるとき、直接目的語たる「物」は間接目的語たる「人」の後にあることは、標準語としての鉄則であるが、方言によっては逆になるものがある。なお我給了他三塊銭了の如くこれを我給了三塊銭ともいえるし我給了他了ともいえるものと、我告訴你這縁故のように我告訴你とはいえるが、我告訴這個縁故とはいえないものもある。これは告訴という詞が人に物をということでいわば説給という意味を持っているからではあるまいか。[br][brm]
次に描写句の述語について考えると、もとより形容詞がその本質たるものであるが、そのほか[br]
にたとえば他很粗心とか你太大意了とかの如く名詞を用いることもあり、這花真可愛の[br]
如く他動詞に可、好、難、易、夠、中などを加えたものが用いられることもあり、他很会做菜[br]
や他不配做這件事のように動詞の上に能、会、配を加えて描写性に近づいたものもある。[br]
またその逆に元来形容詞であって叙述詞に近づいたものには、我這幾日忙といったように時間性[br]
を持たせたり、你別忙といったように命令形にしたりしたものが考えられ、さらにも一つ逆になっ[br]
て他十分推讓とか二人最相投契とか程序をいうことばが叙述詞に加えられれば多少描写[br]
性を持つといえるが、要するにこれらは副詞もしくはこれに近い性質のことばの作用によるもの[br]
で、元来動詞のみに時間性を持たせ形容詞のみに程序を与えようとするところに無理があるのであっ[br]
て、むしろ自然の言語活動が品詞の無用な蕃育を抑制したことを物語るものと考[br]
えられる。[br][brm]
さらに判断句はただ「是」一つをもって主格と実際上の述語である名詞とを連繋するものであ[br]
るが、ちょうど描写句で国大を反して大国とするように荀卿是趙国的人を反すれば[br]
趙国的人荀卿という apposition となるものが──官名親属職業などを固有名詞に結[br]
んだ場合──あって句を仂語に転ずることができる。中でも他是喜歓念書的人などは[br]
叙述句であったものを判断句に転ずるものであって、他喜歓念書ということをほかの動[br]
作を叙述するのでなくて、その人がらを判断しようとすればこの形に改めねばならない。また[br]
描写句であったものを判断句に転じようとするには、我的身子乾浄を我的[wr]身[br]
子[/wr]不是乾浄的とせねばならない、この際に我的身子是乾浄というように是だけを加えるのは、中国[br]
語在来の法則からいえば誤りである。これは我的身子是乾浄的身子の省略した形であって、[br]
身子を略するついでに「的」まで略するのはいけない。なお王氏は同じような形式でも、たとえば[br]
自然是知道的とか難道你是不出門的というような句は決して判断を示すものではなく、た[br]
だ語意を強めて前にこうだったのだ、今こうなのだ、これからこうなるのだとはっきり判断し[br]
た形でいってあるが、本当の判断句でない、なぜなら主語の指さす人物がある性質や種[br]
類に属することが断定されていないといっているが、いやしくも判断句の形を借りている以上、これ[br]
をも判断句にふくむように判断句の概念を拡張すべきではなかろうか。かようにして黎氏文[br]
法で是を同動詞とし、次に補語を伴うという解釈は改められたことも、極めて明快であっ[br]
て、 capula の概念は十分有効に導かれていると思う、しかるに黎氏は同動詞として「是」の[br]
ほかに「有」をあげ、「有」をあげれば「在」も当然考えねばならないが、王氏の語法ではどういう扱いとしてい[br]
るであろうか。王氏によれば「有」は普通の動詞である、したがって「有」を述語とする句は叙[br]
述句である、自然、花園裏有一隻狗の一隻狗は目的格となる。したがって「有」の句は[br]
英語の there is ・・・よりはむしろフランス語の il y a ・・・に近く、さらに一歩進めると、花園[br]
裏を主格と認めることができる。つまり中国人の語像(verbal image)では人がものを領[br]
有すると同じく場所も物を領有するのである。ただし「有」を叙述句とする句は、形こ[br]
そ叙述句であるが、意義からいうと描写句または判断句の性質を持ち得る。つまりさきの[br]
花園裏有一隻狗はたしかに叙述句であり、時間的に始終のある事件を叙述しているが、[br]
もし他很有胆量というときは、別に事件を叙述せず、時間性のない描写であること他很[br]
勇敢と同様である。さらに馬有四蹄といえば馬是有四蹄的と同様であるから、これは[br]
判断句の性質を帯びたことになる。一般に桌子上有書といえば位置を先にして物を後に[br]
いういいかたであるが、物を先にして位置を後にいおうとすれば書在桌子上といって、単に[br]
両者の順序を顛倒するばかりでなくて、「有」と「在」とを転換する、したがって有と在[br]
とは同じ性質の品詞としてとりあつかわるべきであるが、王氏もやはり他在家を時間性[br]
ある叙述句と認めるとともに、星在天上は星是在天上的で判断句の性質を帯びた[br]
という、そして「有」と「在」との如きは叙述句と判断句との橋わたしになるもので、形式としては[wr]叙[br]
述句[/wr]であるが、実質は判断句として認めるわけで、かくして両者の間の論理的根拠は失われ[br]
るがゆえに、もっぱら形式によって句の種類を判断するほかはないといっている、実はこれが文法の[br]
結末であり、言語の姿なのであった。[br][brm]
王氏語法では substatives が句の中での地位を格といわずに位といっているが、主語として[br]
用いられる主位と、目的語として用いられる目的位のほかに、修飾的に用いられる関係位とい[br]
うものを考えている。それは時間または場所方式を示すもので、いきなり述語の上に現れる、[br]
すなわち我下星期一等你、他們十点鐘開始工作、雪下吟詩、一頭碰在一個酔漢身[br]
上の如きがそれであるが、ときには主語の前におかれて這麽大熱天我来了という形をとる[br]
が、関係位の字数が多くなればなるほど、主位の前に置かれる率が多くなるというのは恐[br]
らく途中で息を切る加減によるものと思う。次にはある動詞が目的語を伴った形[br]
のままで述語の修飾に用いられる場合がある。すなわち他在書房裏看書とか他[br]
靠左辺走とか哥哥拿筆写字、今天我替你上課とかいう如く、場所を示す[br]
には在、朝、向、対、靠、到を、方式を示すには用、拿、依、照を、原因を示すには替、[br]
為を、比較を示すには比を、範囲を示すには除などを用いる、これは黎氏文法では介詞と[br]
称し、英語の前置詞の如き観念を持たしめているが、中国語ではこれらの詞はすべて動[br]
詞として別に活用されており、英語の with, for, than, as, to, toward の如く専[br]
門化してはおらない。またこれらの詞には動詞の記号たる「着」「了」を伴って現れるから──[br]
他向着我大哭や我為了他才做這一件事など──どこまでも動詞そのものであり、[br]
別にわざわざ名称を定めて区別する必要は認めないというのも、われわれが十分に賛成し[br]
てよいことである。もし動詞が目的格を伴うことを一つの公式とし、修飾語は修飾[br]
される語の上に来ることを一つの公式──中国語は極めて少ない公式、わずか二三種の公式[br]
の二つを組み合わせれば、こうした現象は苦もなく理解される。ただし若干の例では[br]
少なくとも今日は単独の動詞として認められないものがある。たとえば才打学房[br]
裏回来とか従小児什麽話児不説とか你近日就給我磕了頭去というように[br]
打学房裏、従小児、給我をかりに単独に使用したとしても意味がすっかり違って[br]
くるので、これこそ介詞とあつかうべしということも考えられるが、これらの[wr]動[br]
詞[/wr]にしても動作性は完全に消滅しておらず、むしろ完全な動詞の末に加えた方がよいというのが王氏[br]
の説である。こういう風に動詞+目的語ないしは主語+動詞+目的語という形式[br]
はそのまま文の主語の位置を占めたり──[nt(050220-1590out01)]「撂在水利」不好──文の目的語の位置を[br]
占めたり――我看見「八個年軽的女子来了」──主語を修飾したり──「用馬拉」的車[br]
といったりするが、すべてはこれまでの説明によって推知できる。[br][brm]
別に他説錯了の如きは説の結果として形容詞を加えたものであるが、こうした動作の結[br]
果を一息で述べきってしまうときのほかに、述語一つでは動作が完結せず、その動作の次[br]
々に起こるべき動作を引きつづきいうことがある、すなわち他出去看門はまず出去して次に[br]
開門するのであり、我叫他打你ではまず叫他してそれから打你となる、さらに我叫他[br]
出去買点心給你吃ではまず叫他して次に出去でそれから買点心で次は給你、そして[br]
最後に吃となる順序がきれいにそのまま表現される、したがって前に述べた介詞と称せら[br]
れるものもこうして考えれば別の困難は伴わないと思う。この際に注意すべきことは、叫[br]
他で目的語であった他が自然、出去買点心給你の主語となり、你はさらに吃の主語[br]
[050220-1590out01]
文の述語の位置を占めたり──他名利心重──
となることで、こうして上から押してくる語気は少しのゆるみなしに受けとられる。また独立[br]
した文章でも主語がなくてもわかるときは主語をいわないのみか、下雨了や有一個人在窓[br]
戸外面のように主語をいわないことが原則になっているものがある。これらを黎氏文法では省[br]
略といっているが、それは西洋語の通例によるからであって、むしろこれを常例と見ようという[br]
王氏のいいかたに賛同したい。ことに王氏のことばに「句の結構についていえば西洋の言語は[br]
法治的であり中国の言語は人治的であって、法治ならば主語がいるときもいらないときも、[br]
ただ句の形式の一律ならむことを求めるだけであるが、人治ではいるときは用い、いらないときは[br]
用いず、対話の人が意味を理解できたらそれでよいとする」というのはよく中西語法の要[br]
点をおさえたものというべきであるが、わが国の語法では一層主語が少なく、中国語を直[br]
訳したとき、主語としての代名詞が常に過剰となるのはすなわちその表れである、といってわ[br]
が国の語法が中国語よりさらに人治的であるとは断定できない、その原因はおそらく国[br]
語の動詞の持つ複雑な性質が主語なくして意味を誤りなく伝え得るためではなか[br]
ろうかと思う。[br][brm]