講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
最後にもっとも微妙なる語法成分はいわゆる語気を示すものであって、前にのべた決定の[br]
意味を示す「了」の如きがそれであるが、これについてかつて博先生が助詞的研究において[br]
興味ある例をあげておられる、すなわち同じ疑問句でも[br]
(一)他怎麽不去啊[br]
といえば彼が行かない理由を軽く尋ねただけで、格別問いただす意思はないが、[br]
(二)他怎麽不去呢[br]
となると、なぜいかないかという理由を突きこんで調べる語気であってあくまで回答を求める、[br]
(三)他怎麽不去了[br]
これは前述の如く一旦取り決めたものをなぜ行かないことに決定したかといって軽く尋ねるものであり、[br]
[br]
もし飽くまで突っこんで問うときは他怎麽不去了呢ということになる。[br]
(四)他怎麽不去喲[br]
これになると、その人の行かないことについて怨んだり心配したりする気分をふくみ感嘆の[wr]意[br]
味[/wr]をふくんだ疑問になる。したがって中国語において助詞の用途を明らかにしないかぎり、その[br]
語気を理解できないわけで、こういうものの研究が古典においても注目されたことはむしろ当[br]
然の現象である。今、王氏の語法について見るに、語気を確定、不定、意志、感嘆[br]
に四大別し、確定には[br]
決定(了)表明(的)誇張(呢、罷了)[br]
を不定には[br]
疑問(嗎、呢)反詰(不成)仮設(呢)揣測(罷)[br]
意志には[br]
祈使(罷)催促(啊)忍受(也罷、罷了)[br]
感嘆には[br]
不平(嗎)論理(啊)[br]
をあげているが、決定語気の了と完成を示す助動詞の了とはちょっと見わけにくいので、[br]
王氏は(1)前にものべたように完成の了は子句の終わりに用いるが、決定は全句末でないと用いない、(2)[br]
完成は動詞のあとにのみ用いるが決定は形容詞的名詞のあとでもよい(3)完成の了は目的[br]
語や数量を示すことばの前におくが、決定はその後にしか用いない(4)音からいっても[br]
決定は勒とよむほかに啦、咯とよむが、完成の了は啦、咯とはよめないということを注意[br]
している。表明の「的」とは真実性を表明するものであるが、通うに原因を説明し真相を[br]
解釈する以外に、たとえば原是你起的端、他是去年九月結的婚というように事は[br]
誰から起こったか、何に施したか、どこで起こったかということについてはっきりいういいかたが──少し[br]
古いいいかたともいう──この的は目的格の上に位置する、その点は決定の了が新太[br]
爺到了任とか他来了三次のように句の間にはさまるのと同様で、動詞と次の名詞との[br]
間をへだてることは、極めて明確にする作用を持つことになるわけである。ただこの二つを並べて[br]
這是你不能不管的というときと這是你不能不管了というときとを比較するに、前[br]
者は本来「管」しなければならないことを示すし、後者は本来は「管」しなくてもよいものが今や[br]
「管」せざるを得なくなったことを示すのである。疑問の嗎と呢の差は前に疑問詞があれ[br]
ば呢、なければ嗎を用いるほか、いきなり「李四嗎」といえば「李四ですか」といってはっきりききと[br]
れないのを確かめる気もちを示したり、あの人が?といって意外の気もちを示すが、「張三呢」[br]
といえば「張三」はどうなったかといって追求する語気である。元[br]
来疑問には完全な疑問と、大体そう信じているがまあ聞いてみるのと二通りあるが、前者は[br]
今天你出去不出去といってどちらとも分からない気もちを示し、いわば二つの中の一つを[br]
随意に選ばせるわけであるが、後者は今天你出去嗎といって出ていくだろうという[br]
予想のもとにそれを確かめる。その並列的な問いかたでは語気詞として呢を用[br]
いるが嗎は用いない。それも矛盾したことばを並べたときは他今天来不来呢?是不是啊?[br]
のように呢か啊を終りに用いる。もっとも看見了他没有というときなどは呢を[br]
用いることがない。[br][brm]
以上述べたような語気に対する見かたが、表現としての分類を基本とすることもも[br]
とより考えられるが、元来、語気というようなものは自然にある気分を反映している[br]
だけに、その語気を示す音節を捕えてその用法を考えることも極めて重要な意味を[br]
持つ。ことにこうした音節はどこの国のことばでも限られたものである以上、それについて徹[br]
底な研究をすることに、一層大きなものが期待される。たとえば博先生の助詞的研究は[br]
その方向を掘りさげたもので、ㄚという開口母音についてはその軽快明朗でしかも強烈[br]
なもののあることを認め、今天天気真冷啊といって明朗にしてしかも感嘆の意を[br]
示し、這是誰的書啊と疑問にすれば明朗な質問で、てっとり早い返事を希望[br]
しているが、返事ができなくとも拘わらない。さらに快走啊と命令制止にすればその[br]
命令がきっぱりしていることを示す。もし命令にㄅㄚの音を用いれば、制止の意味[br]
が強く、命令されたものが命令に違反したり疑念をもったりしてはならないことを示す[br]
のである。もしㄅㄚを用いると今までの計画慣例を変更させる──別来了──ことにな[br]
る。またㄋㄧという音はどこか「難」といった意味をもち「滞」や「泥」という感じがするため、これ[br]
が語気として用いられると遅回とか濡滞とか猶予とかいうことで、那是甚麽呢と[br]
いえば委曲をつくした気もちで、これが真の疑問である。前にのべた進行継続を示[br]
すときの哪も結局同じ遅疑であり、進行継続ということは裏からいえば不変化で[br]
あり停滞である。自然これが語尾につくとつかぬとで状況判断がかなり狂うことがある。[br]
たとえばある人がその友人をいつも居そうなところへ尋ねていったとして、偶然来ていないとき、[br]
別の人に「他来了麽」と聞いたとする、もしその答えが「他没来呢」であったとすると、その人は[br]
きっと喜んで待っているであろうが、もし「他没来」といったとすれば、その人は待とうか[br]
待つまいか思案にくれ、退屈しながらしばらく待つこともあろうし、今日は駄目だ[br]
なと思うかもしれず、あるいは居るすを使ったと思って怒るかもしれぬ。同じように他[br]
不買といえば、彼が買わないことだけであるが、他不買哪といえば今は買わなくとも[br]
将来は買おうとする意味を示すし、別来というよりは別来哪といえば一時の禁止[br]
であり永久の禁止でないことを示す。したがって他還要上山哪といえば同じ動作がなお継続[br]
して山に上るのであり、我不但得吃飯、還得穿衣哪といえば、同じくない動作でも[br]
継続することを示す。ことに興味のあることは鉛筆在桌子上哪といって状態を示[br]
すのは移動できるものが、今のところその状態が継続していることを示すのであり、[br]
永久に変化しないものについて哪といえば非常におかしい。たとえば「他姓李哪」といえば、今[br]
だけの姓が李だということであり、時々は姓を変えることが予想されるし、鼓楼在地安[br]
門外哪といえば、鼓楼がどこかへ歩いていくこともあることになる。ところが、かりに美国[br]
在太平洋的東辺哪といったからとてアメリカが太平洋の西岸に移動できるわけでは[br]
なく、この場合は遠く離れているという気分を示している。したがって鼓楼在地安門外哪と[br]
いっても意味が通ずる条件は、そこまで歩くのを目にあげたときか、または病気でねてい[br]
て起きられない人が地安門内に住んでいたかでなくてはならない。したがってこれらの哪は、纔、[br]
還、可などの副詞に伴って用いられることが多い。[br][brm]
了についてもいろいろなケースが考えられるが、たとえば他喫了五碗飯とだけで句として[br]
完成しているが、これに語気の了を加えると、他喫了五碗飯了となって、たくさん食べた[br]
ものだということを示す。もしこれを他喫了五碗啊といえば、別にたくさん食べたという[br]
程でなく、何か軽快な気もちを出すだけであり、また五碗がかぎりもなく多いと考えるならば[br]
他喫了五碗飯哪ということ前に述べた如くである。つまり了と哪とは時間の差で[br]
なくて、心理的な差になってしまう。また経過の長い動詞については他在天津住了[br]
三年で、いつか三年いたことを示すが、住了三年了というと今までに三年も住んできた、と[br]
いうことに限られ、すなわち住んでいる途中のことになる。これというのも了を加えると、一種飽[br]
きたというような心理が働いたことになるから、完全な完了でない部分完了にこそ[br]
用いられてよいわけになる。我要回家了とか他不来了とかがこれからの動作を決定[br]
する表現であることは前にものべたが、他毎天不来は毎日来ないことであって他[br]
不毎天来了は毎日来たのか毎日は来なくなったことである。他毎天上学は毎日学[br]
校へ行くことであるが、他毎天上学了は毎日行くようになったことで、これまたここで変[br]
化したことを意味する。我在車上と我在車上了の差も同様である。同じように[br]
孔陵在山東とはいえるが、孔陵在山東了とはいえない。哪とくらべると鉛筆在桌子上[br]
哪といえば現在たまたま置いていることであるが、鉛筆在桌子上了は鉛筆が[br]
外から移してそこへ置かれたということで、前にテーブルの上にあったわけではない。これを併用[br]
すると、今天還冷哪,明天就暖了は今日までは寒いが明日からあたたかになること[br]
で、昨天就陰了,今天還陰着呢は昨日から曇って今日はまだ曇っていること[br]
である。また人がコップを口に付けて水を飲んでいるときだと、他喝水了ともいえるし[br]
他喝水哪ともいえるし他喝着水哪ともいえるが、他喝了水了とはいえない。逆に[br]
人が家についたとき、他到家了ともいえるし他到了家了ともいえるが、他到家哪と[br]
か他到着家哪とはいえない。そして人がねむっているときは他睡覚了ともいえるし、他睡[br]
了覚了ともいえるし、他睡覚哪とも他睡着覚哪ともいえる。すべてこういう差[br]
は動詞の性質によって発生するのであって、テンスのようなものと非常に違ってい[br]
ることがわかる。と同時に中国語の語気についてもっともむつかしいのが、この了と呢[br]
との二つであって、これさえ利用できれば、顛すてきなことも大体十分に表現できようと[br]
いうものである。そしてその根本にあるものは、なお継続している気分と、一旦[br]
完了するという気分との相違で、これをつかむことが中国語気の中心問題とするな[br]
らば、案外中国語法そのものの中心問題がこのあたりに伏在しているかも知れない[br]
ことを思わせられる。大きな点はいとも大ざっぱであって、小さい点に年限の足がらみを[br]
残している語法は考えようによればもっとも困難なものといえないでもない。[br][brm]
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