講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
以上はもっぱら単独の句、ないし単独の句がきれいにほかの句を包孕している場合の構造である[br]
が、二つ以上の句が複合して一つの句になる場合、すなわち文字で書けば中間に , を入れ、口[br]
で話せば、ある程度の間隔をおかねばならないものについて考えると、倒立と主従の二大別とそ[br]
の小別とが考えられる。[br][brm]
積累式 叙述描写判断を積みかさねたもので、主語に変更があってもかまわず、述部に肯定と否定とが交わってもかまわない 又、還、而且[br]
離接式 同時に起こりえない事件や判断を複合したもので、或とか還足とかいう助詞的なものを使うことが多い 或(或)、還足(還是)[br]
等立句 転折式 ・・・だがしかし・・・と転折するもの 只、但、但是、然而[br]
按断式 前のことが論拠で後のことが結論になるので、建議の気もちか判定の気もちかになる。特に後の方が反詰の語気になるものが多い[br]
申説式 事実を前に述べて後でその解釈をする、前の部分は、命令のこともあり叙述のこともあり判断のこともあるし、後の部分は解釈でもよし意義の補足[br]
でもよい、解釈の時には一則二則と区別することもある[br]
時間修飾 ある事件の発生した時間によって叙述句を修飾するもの、主語は共通でもよし別でもよく、事件は過去でも現在でも未来でもよい[br]
条件式 ある条件のあるなしによって事が起こるか起こらないかを述べる、仮定の助詞を加えることもあるが、逆に仮定することもある、またこれを活用して二つ[br]
の同時に起こりえないことを示すこともある(これでなければあれだ)、自然時間修飾と同じ結果になることもある 若、要、倘或、再、不是・・・就是、否則(反詰)[br]
容許式 条件式の逆で、あることの存在を認めるが、次のことには影響しないという場合で、事実の場合も仮定の場合もある、つまり等立なら転折式である 雖、雖然、便、就、縦、縦然、那怕[br]
主従句 理由式 前のことが理由になって次のことが起こることをいう場合で、按断式の等量なのに比べて軽重があることが違いになる 既、既然〔就〕[br]
原因式 前のことが原因になって次のことが起こる場合で、時間修飾に近い、以上みな主要部分は後にある 因為、為、〔所以、故〕、見、知[br]
目的式 ・・・するために、・・・するに都合いいようにということを後でいう場合、主要部分は前にある 好、譲、省的[br]
結果式 ・・・したためというように行為の結果を後でいう場合、主要部分は前にある、主要部分を前にしたのは近代の語法である 弄到、弄為[br]
こういう構造について注意すべき事は、西洋語ならば何かの語法成分を加えたり、pause-[br]
pitch(逗調)があったりしないと複合句とは認められないのであるが、中国語では単に逗と[br]
して若干停頓するだけで、別の語法成分を加えなくとも複合句として成り立つことであって、[br]
つまりこれを語法成分の省略と認めてはならない、事実、ふだんのことばでは連詞を用いるときよ[br]
りも連詞を用いない方が多いのである。しかも判断句を按断式に用いるときなどは、た[br]
とえば他一個小孩子家,何曽経過這些事といい我們好街坊,這銀子是不要[br]
利銭的というように繋詞を用いないことがある。これはおそらく句の中に純粋の句の形[br]
を立てるよりも、一つの仂語化した方が語気において軽快であるゆえかと思われ、かの[wr]連[br]
[050220-1620out01]
なお越・・・越・・・といういわば平行式というべきものもあるが、しばらくは時間修飾ないし条件式に入れておく。
詞[/wr]を用いないのも、まさしくそうした繁重な感じを避けたものと思う。さらに西洋語[br]
ならば大体は主要部分が前にあって従属部分が後にあるべきであるが、中国語では主要部[br]
分が後で従属部分が前になり、ちょうど逆になることが多い、これは中国語として修飾[br]
するものは修飾されるものの前にあるという原則にかなうことであって、前にあげた目的式[br]
や結果式で主要部分を前におくことは、近代になって発生した行きかたである。かように句[br]
の順序が一定していることは連詞を必要としないことの主要な原因であって、ちょうど修[br]
飾語と修飾されるものとが一定の順序に並び、述語と目的格とが一定の順序に並ぶかぎり[br]
何等の文法的表示を必要とせぬとまったく同様である。ここに注意すべき事はこうした分[br]
析がつまり、中国語、自然、中国人の論理形式を示すものとして活用されてよいことで、論理[br]
的過程は必ずしも言語の中に表出されないということは、論理過程そのものも日常の会話に[br]
おいては、はっきり意識されておらず、要するに一種の積累的方法が行われ、そうした積累[br]
は多くの場合、最後にいわんとする結論に向かって加速度的に加わってゆく、そうした自然[br]
の進行を妨げるものは肯定と否定、または相互矛盾、少なくとも同時の存在を許さない[br]
概念であって、かくてこそ離折式と条件式、転折式と容許式とに連詞の必要が生ずる[br]
わけである。[br]
王氏もいう如く中国語法の根本精神は、定まった論理形式ないし語[br]
法形式を強制することなく、各自の自律のもとに適宜論理成分ないし語法成分を添[br]
加してゆくことである。従って添加の必要のない場合はそういう成分が発動しないのであって[br]
省略を加えたものでない。これが句の基本構造においても繋詞の如き語法的成分が発[br]
達せず、ただ判断句においてのみ現れ、描写句では絶対に現れないけれど、王氏が以上の構[br]
造について、中国語法の特性としてあげた「描写句は繋詞を用いない」「複合句では常[br]
に意合法 parataxes を用いる」ということも、要するに一つの精神から流れ出たものと[br]
しか思えないのである。[br][brm]
中国人が中国語をあやつる際に何人も絶対にあやまることのないのは詞序 word-order [br]
であるが、それだけにその word-order の固定しかたがどうなっているかということは中国語[br]
法論の根本命題である。その極めて著しいものとしては上にすでにあげた如く国大ならば句と[br]
なり大国ならば仂語となるようなものですでに述べたが、なお若干の実例について観察を進[br]
めねばならない。この点については隠れたる功労者は博良勲氏であって、その苦心になる中国語[br]
法教本の説明には味うべきことばが多いので、今主としてこれに拠って述べると、たとえば早[br]
来というように形容詞が動詞の上に乗った場合は、遅くきてはいけないということを制[br]
限する気もちで、これから来る時間をば実際来るという動作の始まりすらない中に制限してしま[br]
うのであるが、来早了といえばすでに来た時間が適当な時間より早かったことを説明し[br]
たもので、つまり来た上での結果を説明するのである。したがって文の重点は前者では来に[br]
あり、後者では早にある。前者では来!であるが、遅くならぬようというだけのことであ[br]
るが、後者では来はすでに問題でなくて早であったか晩であったかが問題になる。つま[br]
り前者は叙述句として動詞が述語であるに反し、後者は描写句として形容詞が[br]
述語になったものと認められる。後者のような場合は王氏の語法では主として使役式と[br]
いう項目であつかっているが、弄壊了とか擺斉了とか説大了とか踢錯了とかいうものが[br]
すべてこれに属し、これに目的格が加わるときは、仔細站髒了我這地!とか吹到了林姑娘[br]
とか悶死在這屋裏のような形になるが、この場合の後の二つは元来の動詞であって、それが形[br]
容詞的に用いられたものである。さらにその動詞が前に語彙で述べたように「進」「出」「上」「下」「来」[br]
「去」「起」「過」となってゆくと、やはり第一の動詞を助けてその行為の結果を示すもので、この場[br]
合にも挑進蝋燭というように目的格をとる、さらにその「進」「出」「上」「下」「来」「去」「起」「過」の下に[br]
「来」「去」を加えることがあるが、その際には目的格を大体は来の上において掛起簾子来[br]
とか爬上高枝児去了とかいう。王氏はなおこの類に属するものとして到 趕到 成 切成 [br]
見 看見 有 顧有 などをあげている。ところが来と早とを同じ関係において、ただその二つの[br]
間をひきはなしてみるとき、来早と一口にいわずに、来という既定の事実を主語のようにあつ[br]
かうことにすることもできるわけで、来たことが早いと国語でもいいたいとき、来的早といういいか[br]
たができる。我来的不巧了とか還嫌打的軽とかいうのがそれで(その際に目的位は大体[br]
省略される)ある。さらにこれを形容詞に及ぼすと両家和厚得很呢とか路上難走得很[br]
とか妙得很となって、很利厚というよりもずっと力が加わる、すなわち很に重点が移る[br]
のである 形容詞のときは很を用いて妙得很というが、動詞性のものでは了不得を用いて気的了不得、急的了不得という。 。こうして描写性の程度を示すときと[br]
叙述性の結果効果を示すときとでは、単に副詞形容詞だけでなしに短語や句を得の下に連ね[br]
ていうことができる。すなわち説得林黛玉噗嗤的一声笑了というようにまでいかほどまでも[br]
伸びてゆき、結局は次の句の林黛玉という主語からいえば受け身の形になってしまう。[br]
こうした叙述こそは修飾性叙述の弱点を補う方法として極めて有力なものである。この[br]
場合に説のんも句的語が必要なときは、他説話説得不漂亮というように動詞を二度かさね、最[br]
初の動詞には目的語を加え、次の動詞には程度効果を示すものを加えるという方法[br]
をとるのである。今一つこれと似たものに、她不住的笑といえば笑を制限するものであ[br]
るが、これを強く表現して、止めどもなく笑ったといいたいときは、やはり位置を転じて她[br]
笑了個不住といい、不住を名詞化して動詞の下におく、これも她笑得不住といえ[br]
るにはいえるがまだ力が足りず、さらに生き生きさせる方法となるもので、たとえば睡得很[br]
香というより睡了一個挺香といい、打得化鼻青臉腫というより打他一個鼻青臉[br]
腫という方がよく響く、その理由は直接に動詞の賓語という感じが形容的なも[br]
のより、動詞に緊密だといわれるが、同時にやや品が落ちる憂はある。ことばは必[br]
ず強くいうだけが能ではないのである。[br][brm]
次に語序として問題になることは、先生在講台上站着と講台上站着一位[br]
先生とはいわんとする事態は同じであるが、気分は大層違うので、前者においては「先[br]
生」が主題で「在講台上站着」はその先生の状態を述べているに対し、後者において[br]
は「講台上」が主題で「站着一位先生」は教壇の情形をのべている、したがって前者の「先[br]
生」はすでにわかり切った問題であるから、「先生」といったらよいわけであるが、後者では[br]
「講壇上」に何かあるかといえば先生というものが立っているのだから「一位」ということば[br]
が必要になるわけである。この場合は先生そのものが自分の力で立っているのである[br]
が「書在書架子上擱着」となれば、本がどこにあるかを説明し、「書架子上擱[br]
着書」とあれば、書架に含まれているものを説明していて、どちらも静かな情形で[br]
あるが、この「擱」という動作は「書」に属するのでもなく、「書架子」に属するわけでも[br]
なく、ただ置かれたという静止の状態を示したに過ぎない。したがって前者の「書」は受[br]
け身の主格であり、後者の「書」の場合は受け身の賓語である。もし文を受け身でな[br]
い形にしようとするならば、「他在書架子上擱着」とか「他把書擱在書架子上」と[br]
いって「他」の行為または情形を説明すべきである。すべて動詞は能動でも受[br]
動でも、ともかく状態を表す以上動詞に「着」をつけると状態を表すようになる、主語を賓語の位置に置きかえて環境を説[br]
明する形にすることができる。その場合に、重要なことは、こうした語序の転換は[br]
主客の力を転換するもので、主たるものは常に問題として与えられたものであるから、そ[br]
れがまたはそこに、どうしているかまたはそういうことがあるかということが新しい解決となるので、自然[br]
第三のものすなわち「先生」なり「書」が最後に力強く出て、同時にこの句が完結するので[br]
ある。これと同じように、たとえば他について鼻子破了という句によってその情形を[br]
示し、他鼻子破了といったとする、もっともこういういいかたは主語と直接関係ある[br]
描写に限られるが、こうした描写は要するに描写されるものが比較的静かで小[br]
さく、切実な状態の時であり、もし重大なことでしかもやや抽象的な姿をいいあ[br]
らわすときは別の方法による。それはふくまれた句の主語を述語の下に移す方法で、「我鼻[br]
子破了」をいいかえて「我破了鼻子了」という。前者は「我」についてその一部分の姿を[wr]説[br]
明[/wr]したわけであるが、後者は「我」にはこんな重大事件が起こった、これは大変だと[br]
いうことを説いたものである。また「我眼睛紅了」は目が赤くなったといっても我の一部分の姿を説明した[br]
だけであるが、「我紅了眼睛了」というと、それは「我」が嫉んだりやきもきしたりした[br]
格構を述べたので、目が本当に赤くならなくてもよいのである。これを傍証する[br]
よい資料は、たとえば火着了といえば火が燃えついたという事実を描写したものであ[br]
るが、着火了といえば火事だ!ということである、したがって前者ならば火着了烤一烤[br]
罷とゆっくりいえるが、後者になると着火了快救罷と大声でいわねばならない。[br]
ところが他肚子疼といって他疼肚子といわないのは、目に見えて重大な、すぐにも血[br]
どめすべきような事態と違うからであり、逆に他死了太太了とはいえても他太[br]
太死了といえないのは、奥さんのなくなったことは重大事件ですが、「他」の一部分の[br]
姿としてはあつかえない、奥さんがなくなってもその人の体には別に格段のちがいが起こ[br]
らない、むしろ他衣服破了の方がはっきりボロが見えるからである。ただし他[br]
的太太という意味で他太太といったときは「他」について述べたのでなく、また「他太太[br]