講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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この言語の特質を単音節に求めることは決して的をはずれたことではない。ただこれらの二音節[br]
の詞を複合詞という名で処理してしまうとすると、カールグレン教授のあげた金錶や吸[br]
鉄石のようなものはよいとして、さきの工夫などをあげて、それを非複合詞にする説 呉主恵氏 [br]
が起こってくる。但しこれはさきにも述べたように現在では複合された概念が忘れられて[br]
いるが、歴史的にさかのぼるかぎり、金錶や吸鉄石と争うところがない。否、金錶そのもの[br]
までが反省されないかぎりにおいて、むしろ工夫と同じく複合してしまっているともいえる。こ[br]
こにおいてWilhelm Grubeが.Geschichte der chinesischen Litteratur(1902)にお[br]
いて早くも述べている如く、元来は単音節であった中国語が熟字を作ることによって言語とし[br]
て新しい階段に進んだという説が想い出される。そのいわゆる新しい階段が前に述べた複[br]
合詞そのものであるとすれば、新しい階段に進むというのは、その性格を変えたということか、[br]
それとも自然に本質内部の延長であり生長とあるということか、若干の吟味を必要とす[br]
る。元来、一つの民族が本能的に発音できる子音もしくは母音の数は、どの民族にとっても[br]
決してそう多いものでなく、ただその組み合わせによって巧みに意志を運搬しているわけであ[br]

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る。ことに単音節で概念を吐き出す習慣を持った民族においては、その組み合わされた[br]
単音節そのものも決して非常に多数というわけにはゆかぬもので、いきおい概念の膨張に[br]
伴う処置として単音節を複数化する方法が考えられる。それは飽くまで独立した(ルビ:(同じ大きさの建築材料)ルビ割注:カールグレン)(細字:●●●●)[br]
単音節である以上、何らかの方法でこれを倍数にすることでなければならない。その第一の方法[br]
は、音節そのものを動かさずに声調、詳しく言えば音階、高低[br]
の差を付けることで、自然、同じ変化の型がどの音節にも平等に配当されて、ここに単[br]
音節倍数化の第一歩が完成された。しかしながら、こうした傾きにも拘らず、依然として[br]
概念の膨張にたいする音節の不足は緩和せられることなく、かくして二音節の複合詞[br]
が潮の如く湧き起こったのである。その二音節というのにも、たとえば椅子や尾巴のように[br]
第一音節を強く第二音節を弱く、しかも弱き音節によって強き音節が人の耳によ[br]
って識別される方法もあったし、また皮包とか粉筆とかの如く双方の共同せる力によ[br]
って、複合されつつも一つの概念が、あたかもものそのものが一つであるが如くに他人の頭に[br]
印象される方法もあった。近代になって多数発生した複合詞はもとより音声のみの[br]

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関係でなく、むしろ文字の力によることが多かったが、ほとんど全部が後者の方法によったものであり、結[br]
局現在の中国語の大部分はこういう種類に属する、あるいはこういう種類として一応とり[br]
あつかうことのできるものであるということがいえる。こうしたことを考えてみると、グルーベの[br]
いう新しい階段とは。決して根本的な性格の上の変動でなく--もとより言語の如き[br]
社会性を持ったものがかかる根本的変動を蒙る筈がないともいえるが、多少なりその根[br]
本性格たる単音的というものが変動したという証拠はどうしても見あたらない以上、これを[br]
もって性格的革新という余地がなく、自然に内部から発展し生長してゆく、あるいはそうせ[br]
ねばならなかった、しかもそれは単音節という性格をその一端さえも切りくずすことなくして達成される方[br]
向を選んだ以上、これを本質の内部における延長であり生長であるということが許され[br]
よう。ということは、この言語における単音的なるものが、全く単音制とでもいうべきもので、[br]
骨の髄までしみとおったものであることを反省せしめるものである。[br][brm]
次には孤立的ということであるが、王力氏は 二頁 これについても意見を述べ、中国語は西洋の[br]
言語のように屈折性inflectionもなくトルコ語のように黏合性agglutinationを持つもの[br]

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でもなく、その孤立とは一つの詞が一つの完全な観念を示し、一つの句の中に置かれたさまざま[br]
の詞は、詞の位置によって詞性を決定する。たとえば「国大」といえば「大」は「国」の説明語であり[br]
「大国」といえばその「大」は「国」の形容詞であるから、中国語を孤立的だというのは、これを単音[br]
的というのよりも合理的であるが、なおその特性を表示したとはいえない。つまり中国語は[br]
完全に孤立せず、一つの詞は一つの完全な観念を示し得ないものがある。それは虚字と称[br]
せられたもので、実字を聨絡するだけの職能を持った「於」や「也」などは孤立といえない--[br]
これが王力氏の意見である。しかし「於」や「也」の如き助字を楯にとって中国語の孤立[br]
をさまたげようということはちょうど夫人や大夫や葡萄までを持ち出して中国語の単音[br]
制を打破しようとした試みと同じく、極めてはかないもので、「於」や「也」の如きものが実字を聨[br]
絡するための職能を認められるとすれば、これは明らかに観念──もしくは準観念を示[br]
しているものでなければならない。事実「於」や「也」は句の中でその音調的制約によるあるいは加[br]
えられあるいは刪られるが、これは他の詞にたいし本質的影響は一切およぼしていない。むし[br]
ろ孤立ということばが選ばれたのは、それが他の言語のように屈折のための附着詞inflexional [br]

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affixや派生詞を作るための附着詞derivative affixを持たないことを目標としたも[br]
のである。ところが王力氏は今一つ分析的analyticalということをもって中国語の特性とする説を[br]
あげ、これは単音・孤立の二説に比しさらに優秀であるといっているが、そのいわゆる分析[br]
的とは、あまたの観念を一つの詞の中に綜合する綜合的syntheticalなるものにたい[br]
する表現であるといい、その綜合的なるものとして挙げられた例は、英語のsing-sang[br]
の如く時間の観念を動詞の中に綜合したものであり、分析的なるものとして挙げられた[br]
例は同じく英語のwill singの如く助動詞をもって将来を示し、時間の観念を動詞[br]
の中に含ませたものである。しかるにこの例から推せば、中国語はいうまでもなく、後者に[br]
あたるものに相違ないが、これこそ問題となった孤立的なるものであり、屈折を持たないことにほか[br]
ならないし、推しひろめれば派生詞を作らぬことにも当る。のみならずこうした特質ははたし[br]
てこれを分析的と称すべきかといえば、あるいは逆に綜合的とさえいい得るように思う。つまり「唱」な[br]
らば「唱」という中に概念としては動詞的なるもののほかに名詞的なるものも含まれ得るとすれ[br]
ば、それらを綜合的につかんだものとさえいい得るのであって、むしろかかる表現が惹きおこす[wr]誤[br]

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解[/wr]をさけることが必要となるわけで、孤立的ということを忌避する理由はなりたたないと思う。今ここ[br]
に若干の例をあげるならばㄌㄞˊという音節は単に「来る」という概念を示すものであり、あ[br]
るいは厳格にいうときは「来る」ことに関する概念を綜合的包括的に示すものであ[br]
る。これはわが国語の動詞の語根とも性質が違うのであって、これだけで基本的観念[br]
を完全に示すのみでなく、もし特別な必要を覚えないか、またはほかに適当な方法が[br]
あるかぎり、このままの形でさまざまの時や相までを表現することができる。ㄌㄞˊについて[br]
も国語では「今日来る」「昨日来た」の区別はハッキリしているが、中国語ではどちらも[br]
「今天来」「昨天来」でいささかも可笑しいことはない。いわば最初に今天とか昨天とかの如[br]
く時間を示す詞のあるかぎり、わざわざ動詞に特別な形式をそれぞれに示さなくとも現[br]
在か過去かが極めて明瞭であるというつもりである。アメリカのNora Waln女史のThe [br]
House of Exile 一九三三年 (昭和十五年宮崎信彦氏訳「支那流浪記」六九頁)に、中国での生活を叙[br]
して「私は文法にテンスというものを持たぬ言語を聴いたり話したりしている」といっている[br]
が、これこそ西洋人の驚きを端的に表現したものである。またわが国語の著しい特色[br]

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とされる敬語についても同じようにいえることで、中国における敬語は日常の会話では[br]
動詞の負担にならず、「私がまいります」のも「先生がいらっしゃいます」のも「犬が来る」[br]
のも中国語に訳すれば、すべてが「来」に統合され包括される。といって中国人が自分も[br]
先生も犬も同様に考えて尊卑の観念を持たないかというに、それはそうでなく「我」[br]
といい「先生」といい「狗」といえば、早くもそこに尊卑の観念が示されていて、その観念[br]
の支配の消えないかぎり、わざわざ動詞に複雑な差をつけるに及ばないというのがこ[br]
の言語の鉄則である。[br][brm]
ここに一歩を進めて考えるとき、この言語における以上二つの特質には果たして互いに関係の[br]
ない、いわば並列的なものであるかというに、その孤立的であることはむしろ単音制の[br]
当然の結果といえる。つまり単音という制度が厳重に守られてゆくかぎり、それに屈折を[br]
持たすということは極めて困難で、わが国語でも来る、来ないといったわずかな場合にそれと[br]
多少は似た現象があるくらいで、屈折を持つこと自身単音制とは相容れない点がある。そ[br]
れは派生詞についても同様である。してみれば中国のもっとも大きな特質としては、むしろ[wr]単[br]

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音制[/wr]をあげるべきで、その単音節というのは一種の語幹をなしてそれは非屈折性である[br]
といってよい。故に李方桂氏の如き 支那における諸民族の言語と方言、小川環樹君訳、支那学十一巻四節 今日の中国語は[br]
非屈折的な単音節の語幹uninflexible monosyllabic stemのみから成るとい[br]
っているくらいで、少なくともこちらの特質は一つの楯を両方から見たものにすぎず、これを[br]
大きくまとめるならば単音制というべきである。しかしてこの著しき特徴は支那語およ[br]
びタイ語群においてのみ見られるのであって、少なくともチベットビルマ語ではいくつかの接[br]
頭辞--それには非音節的なものと音節的なものとあるが--を有するにたいし李方桂同上[br]
明らかに区別されるとすればこの言語の特質を単音制の三字でいい切ることも[br]
妨げない。それを多数少ユーモラスな表現を用いたのが、わたしのいわゆる「この民族は一つの音[br]
節ごとに一つの概念を吐き出す」というものである。[br][brm]
この民族は一つの音節ごとに一つの概念を吐き出すのみならず、かくして吐き出された概[br]
念をそれぞれ一つずつの符号、すなわち文字によって受けとめた。かくして無数の文字が制作[br]
されたわけであるが、これまた派生的ながらこの言語の特質の一端をなすものということができ[br]

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る。さきに中国語の概念過多にたいし、これを救うための方法として熟語の発達ということを述[br]
べたが、これはもっぱら耳による救済法であって、もし目による救済法がありとするならば、それ[br]
は文字であった。音節の数が多くないにも拘らず、概念の数が多いとき、同一の音節でありな[br]
がら違った概念、もしくは多少違った概念を区別する方法は、本来ならば耳によるこ[br]
とができないわけで、これを区別するものは文字よりほかにあり得ない。そうしてあの夥しい文[br]
字が作られた。西洋人はこれをテリブルと称するのも無理からぬ、まったく夥しい数であった。[br]
文字の数がどのくらいあるか、おそらく誰も知らないであろう。しかしどこの国でも概念の数[br]
がどのくらいあるか知っている人はなかろうから、中国人の迂闊さを笑うことはしばらく差し控え[br]
ねばなるまい。さらに肝要なことは、こうして発明された文字が逆に概念の増加、ことに熟[br]
語の発達を促したことで、中国語における極端なる複雑性は、単に古代人が不用意に[br]
蒔いた種がいつしか繁茂したというばかりでなく、近代人がその概念を耳からする方法[br]
のみで受けとめることを怠った結果として、さらに簡単な手続をもって目からする文字という方[br]
法を濫用したことに責任を帰すべきであり、同時にこうした簡単な手続によって夥しい[wr]概[br]

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念[/wr]を蔟生せしめ得たことに、文字は功罪とも十分に負うところがなければならない。これというの[br]
もこの国の言語が全て単音制であることにもとづくのであって、さきにもいう如き同じ大[br]
きさの建築材料と称せられる音節は同じ大きさの建設材料たる文字によって一層[br]
その特質を発揮した。音節は建築材料としてなお貧弱であり、例え熟語を作るとしても[br]
それは決して夥しいものではあり得ないのであるが、文字に至ってはその数豊富を極め、そ[br]
の二つずつの組み合わせによっても厖大なる熟字が発生した。この国の人たちが選んだ熟[br]
字としては大抵二つずつをもって原則とし、あえてそのほかに伸びなかったのは、三字以上の熟字を[br]
作るほどの必要が諾められなかったからであると思う。実に二字の建築材料は極めて安定した[br]
姿をとって無数に使用された。そして文字によって習熟された表現が、多くの人たちの[br]
目から記憶されたとき、その方便として発音が利用されるかぎり、その発音を他の人が発す[br]
るその耳できくものは、ただちにその目による記憶と合致せしめ、文字の幻とともに、あるひは文[br]
字の幻さえ伴うこともなくして、かつて文字によった記憶を再現せしめる。かくしてたとえ同音[br]
の、もしくはそれに近い熟語があっても、自らこうした手続によって耳から識別し得ること[br]