講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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C.金衢系 金華、衢州、厳州など[br]
D.温台系 温州、台州、処州など[br]
(三)閩音系 福建の大部分と潮州、汕頭、瓊州、台湾(マレー半島、シンガポール、フィリッ[br]
ピンの華僑たち)[br]
中国語文概論では左の五系に分けている[br]
A.閩海系 福州、古田など[br]
B.廈漳系 廈門、漳州など[br]
C.潮汕系 潮州、汕頭など[br]
D.瓊崖系 瓊州、文昌など[br]
E.海外系 シンガポール、シャム、マレー半島などの華僑[br]
(四)粤音系 広東の大部分と広西の南部(アメリカとサンフランシスコの華僑たち)[br]
中国語文概論では左の六系に分けている、[br]
A.粤海系 番禺、南海、順徳、東莞、新会、中山など[br]

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B.台開系 台山、開平、恩平など[br]
C.高雷系 高州、雷州など[br]
D.欽廉系 欽州、廉州など[br]
E.桂南系 梧州、容県、貴県、鬱林、博白など[br]
F.海外系 アメリカ、シンガポール、安南、南洋群島などの華僑[br]
(五)客家語 広東の梅県、大埔、恵陽、典寧。福建の汀州、江西の南部または[br]
広東の高欽廉一帯と広西の南部(南洋、蘭印ことにバンカの華僑た[br]
ち)[br]
中国語文概論では左の七系に分けている、[br]
A.嘉恵系 嘉應州、恵州、大埔、興寧、蕪嶺など[br]
B.粤南系 台山、電白、化県などに散らばっている[br]
C.贛南系 江西の南部[br]
D.閩西系 福建の西北一帯に散らばっている[br]

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E.広西系 広西の東部南部の諸県に散らばっている[br]
F.四湘系 四川、湖南などに散らばっている[br]
G.海外系 南洋、蘭印などの華僑[br]
などなどこれらの中で五大系はその区域が至ってはっきりしているが、その中の小系になると今のところ[br]
極めて粗略な推測を出でないものである、と王力その人もことわっている。しかし五大系そのものも多[br]
少は取り扱いがことなって、ことに官話音系をいくつかに分けて呉・閩・粤・客家各系およ[br]
び客家語に対立させたものもある。すなわち前にあげた李方桂氏は(1)北方官話(2)東方官話(3)[br]
西南官話を分け、(1)には河北、山西、陝西、甘粛、河南、山東を中心として、北は新彊省、[br]
内蒙古および満洲に、南に湖北、安徽、江蘇までにひろまるといい、(2)には揚子江下流一[br]
帯、安徽・江蘇などで話されるといい、(3)には四川・雲南・貴州および湖北・広西の一部で話さ[br]
れるごく一様な型のことばであるといい、つぎに(4)呉語(5)贛客家語(6)閩語(7)粤語[br]
をあげたのち、さらに(8)として湖南の湘語と(9)安徽南部の方言や湖南と広西東北[br]
地方のある方言のごときいくつかの孤立せる群をあげているが、(8)と(9)とは王力氏の説では[wr]官話音[br]

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系[/wr]の中の湘贛系や徽寧系にあたるように思う。特に李氏の閩語に関する記述で、これを北[br]
と南の二群に分かち、北の一群は福建北部で話され、南の一群は福建南部から広東の東[br]
部海南島および雷州半島の一部で話され、ことに海南島の方言はタイ語の一つと想像される[br]
原住民の言葉の影響を受けたような特異性を示していることを注意しているのは、極めて凱[br]
切であると思う。[br][brm]
元来かかる系統を区別するために必要な条件は、だいたい音韻上の様相で、これに多[br]
少なり特有な語彙的要素があるといわれ、李氏は前者について若干の説明を与えているが、[br]
そのことはしばらく後の節に譲り、ここではいささか諸方言について常識的な説明を加えておき[br]
たい。まずいわゆる官話とは長い間中央政府の所在地であった北京方言を中心とするもので、[br]
これを官話と称するのも、つまりは官場において公式に使用された言語という意味[br]
である。官話という名称はいつから始まったか明らかでないが、俞正燮の癸巳存稿[br]
 巻九 には清朝の雍正六年に勅旨をもって福建広東人には官話を諳んじないものが[br]
多いから地方官をして訓導せしめよと命ぜられたことによっても、相当ふるくから官話[br]

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と称していたことがわかる。元来、清朝の制度として地方官は学官を除いては、その[br]
出身の省には赴任できないことになっていた。したがって例えば阮元山東学政、浙[br]
江学政から浙江巡撫、江西巡撫、河南巡撫、さらに湖広総督、両広総督、雲貴[br]
総督などに歴任したが、江蘇巡撫にも両江総督にも任ぜられなかった。そうして各地[br]
を転々するについては、やはり官話を学んで、言語の疎通をはかることが何より必要であ[br]
ったわけである。つぎの呉音系とは蘇州語であって、江蘇浙江を中心とし、面積としては官[br]
話音系に比して遙かに狭いのであるが、この地方はいわゆる東晋の南渡以来、久しく[br]
文化の中心をなしたため、一種特有の言語が存在し、たとえば西南部のいわゆる西南[br]
官話地方の如く、最近まで格別な文化を持たなかった地方が、漢民族の進出ととも[br]
にその土語を失って官話地域に隷属したのとは反対に、北京地方とは相当頻繁な[br]
交渉がありながら、かえってその地方語が維持されたわけで、ちょうど北海道あたりの如[br]
く原住民の言語が敗退するとその後に伸びてゆくのは東京語であり、そして京阪地[br]
方の如く独自の文化を保有しているものは一種京都弁と大阪弁が今に勢力を占めて[br]

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いるようなものである。清朝の末年に韓子雲というものが海上花という十四面にわたる長[br]
編小説を書いたことがあるが、これは当時繁華を極めた上海の妓楼の内幕を巧みに[br]
描写した傑作であった。この小説ははじめ花国春秋といって、二十四巻まで書いたと[br]
き、たまたま友人の孫玉声も海上繁華夢という同類の小説を書いていたので、お互[br]
いに見せあったところ、韓子雲の作は、白の部分を呉語で書き、孫玉声の作はすべて[br]
普通の白話で書かれていた。そこで孫氏がいうには、君の小説は全部呉語を用いて[br]
あるから他所の人にはよく分かるまい、それよりは通俗白話に改めた方がよかろうと忠[br]
告したところ、韓氏は「曹雪斧が石頭記を作ったときに京語を用いたに対して僕[br]
の本は呉語を用いてもよいではないか」といい、呉語でこれまで有音無字であった「[勿曽]」、[br]
「[勿要]」など自分で文字まで創作した。当時孫氏の書物は数十万部も売れたのに、[br]
海上花は世に広まらなかったといわれているが、今日になって見ると、海上花は新式標点[br]
さえできて誰も知っているに拘らず、海上繁華夢は極めて得がたいものになったのも皮[br]
肉な現象である。閩音系と粤音系とはいわゆる福建語広東語であって、この[br]

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二つの地域は、東南の海辺にくらいして、背後には山を負うているため、交通が不便で、[br]
昔はいわゆる中原とまったく隔てられ、むかし政府の官吏が罪を被って流されたのはおおむ[br]
ねこの地方で、たとえば蘇東坡が今の海南島に流されて杳々天低鶻没処、青山一[br]
髪是中原という詩を作ったり、韓退之が左遷されて潮州に韓文公廟が建てられたり[br]
したことを見ても、いかに中原と遠ざかっていたかがわかる。かかる交通不便は当然の結[br]
果として特種の方言をなし、しかも同じ東南沿海の地方でありながら、閩と粤とでまたも[br]
系統をことにすることになり、同じ閩音粤音の中でもさらにかなり大きな隔たりができた[br]
のである。最後の客家語とは、はじめ山東山西または河南あたりに住んだものが次第[br]
に部落をあげて南に下り、安徽あたりから江西をさすらい、ついに南のはて海岸まで出[br]
て行きつまり、多くは半ば水上生活をして暮らし、自然、一種定着しつつも土着人や[br]
後に移住してきた人々とは交わらず、一種特別な生活とこれに伴う言語とを保有して[br]
いるもので、他の種族から見て「よそもの」とされているため、社会学者言語学者の注意[br]
を引き、西洋人の学者にも研究があり、中国にも客家語研究導論という相当詳しい本[br]

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があり、その住民は比較的少ないといわれながらも、広東省内だけで四百万人にのぼる[br]
といえば、その勢力も軽視を許されない。台湾で従来台湾語と称せられたのは福建語[br]
であるが、広東語と称せられたのはこの客家語である。[br][brm]
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第二節 標準語と表記法[br]
中国の標準語はまだ標準語という意識の発達または発生しない中に、官話という名[br]
を借りて、一応の準備を終っていた。前節に述べたように、遅くとも雍正年間には福[br]
建広東の人たちが官話を諳んじないのを匡正するために、正音書館が設けられているし、嘉慶十一年[br]
には上書房行走のものが粤東口音では授読の際に不都合だという上旨があり 癸巳存稿巻九 、[br]
広東通志に掲げられた上諭にも正音撮要に拠る広東福建両省の人は拝謁して履[br]
歴を奏上するときにも、地方音を用いるから了解ができないし、現に仕官している人[br]
も、中央政府ではその申達することが人に分からず、まして他の地方に赴任したとき、ど[br]
うして聖旨を伝達したり訴訟を裁断したりすることができよう、また一般人民にし[br]
ても官庁の布達が了解できないようなことでは、上下の心もちが捍格して通じない[br]
という不便が生ずる--というふうに諄々として官話学習の必要を説いておるが、これ[br]
は当時の政治ないし社会意識にもとづいて、官場用語を統一し、上下の意志疎通の[br]
具に供しようとするものであった。このため、嘉慶十五年ごろには正音撮要が作られ、[wr]道[br]

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光[/wr]には正音咀華が作られ、いずれも広東人のための会話入門書となったし、かの正音[br]
書館として福建省城の四門などに設けられた官話教育機関がやはり正音の二字を[br]
冠している点から見て、官話は正音なりと認められていたことがわかる。その話と音とがほぼ[br]
同じ内容を持つとせば、官は正なりという答も成り立つと思う。そこに官話が単に方[br]
言の一つであるという以上に、多くの方言に対し正という立場を取っていたことが証明さ[br]
れる。[br][brm]
官話は単に官場の用語というばかりでなく、また文学の用語でもあった。元明以来の[br]
著名なる戯曲小説の如くいわゆる口語で記され、しかもあるいは自然に、極めて多数の[br]
読者を持った文学は、ほとんど官話音系の言語に立脚したもので、かの水滸伝の如[br]
き、はたして伝説の如く元代の作であるかどうかは疑わしいとしても、明の初めを下るこ[br]
とはないが、その小説の舞台が山東曹州府を中心とする以上、この地方の言語によって[br]
記されたと見るのが自然であり、かつて山東出身のある学者が、京都に来ていたとき水滸伝の朴刀という[br]
ことばは、決していわゆるしこみ杖ではなく、そりのない刀のことだと、自分の方言から説明され[br]