講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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ある。次に主語がどういう性質をもっているかを描写するのが描写句であって、その[br]
述語は必ず形容詞であり、自然、それは発生した時間を持たない、もし時間があるとして[br]
も大体はっきり分からないことである。たとえば「這個容易」といっても何年何月何日から容[br]
易になった、容易という性質をもったか、そのことを証明する道がないものである。つまり[br]
叙述の場合のように始あり終あり自然永続しない動作ではなくして、比較的永続し、そ[br]
して綿延性をもった人物の徳性を描写する。そしてこれは他好といい這所房子很大と[br]
いって描写は完全であり、別に何等の関係する詞を必要としない。最後に主語がどういう[br]
ものと同じであるか、またはどういう性質種類に属するかを判断するのが判断句であって、[br]
その述語は「是」すなわち繋詞 copula である。そしてそれは描写句と同じく発生の時間[br]
がなく我是日本人といってもいつから日本人であったかということは追求されない。ただこの場合[br]
は絶対に主格と同じもの、または主格が属する性質種類を表わす詞がその後に出る。王氏[br]
はむしろ繋詞よりもこの詞表位と称するをもって述語としようと考えているらしいし、黎氏[br]
は是を同動詞と呼んでいる。しかしてこの三種の句型を通じて、述語の詞類はそれぞれ[br]

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まったく違っているが、主語としてはある概念が題目として取り出されるだけに、それは具体[br]
的か抽象的かを問わず、必ず制止的括約的でなければならない。その具体的とは名詞[br]
代名詞であり、抽象的とは新しい科学名詞や動詞形容詞などから転用されたもので[br]
ある。なかんづく、動詞の如き本来は動的な性質が失われて静的、むしろ被動的な地位[br]
にまで追いつめられたものであって、少なくともこの場合はsubstantivesとして扱うべきもの[br]
にほかならない。同様に叙述句において述語の後に来るべき賓語または目的語および判[br]
断句において述語の一部分とさえ考えられる表位は、その主語の動作が及ぶ具体的なるもので[br]
あり、または主語と一岐すべき具体的なるものであるかぎり、やはりsubstantivesでな[br]
ければならない。さらに、こうした緊要欠くべからざる構成要素のほかに修飾的性質[br]
を持ったものが以上のそれぞれの要素の前に加わって豊富にして詳密なる描写を加え[br]
ることができる。これが中国語構成の基本形式であるが、これを前提として前に述[br]
べた三品の説を吟味してみたい。[br][brm]
王氏の三品の説は要するにここに述べた substantives をもってすべて首品にあて述語をば[br]

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次品とし首品の修飾詞を次品とし次品の修飾詞を末品とするものであるが、元来、[br]
中国語が前に述べる如き順序によって文の構成を行い、すなわち中国人が一つのまとまった[br]
思想を発表するときの型がこうして鋳あげられ、これを通らない以上何事も発表されな[br]
いとすれば、主格たる substantive がまず脳中の混沌たる思想の雲を破って現れ、それ[br]
が次の叙述描写の述語ないし判断のための繋詞をさそい出し、もし叙述においてな[br]
お完整しない時およびすべての判断においては必ずも一つないしそれ以上のsubstantiveを[br]
さそい出し、こうした系列をなしてこそ思想型の如く鋳あげられるわけであり、この型に[br]
はまらないもので、別に後に述べる如き多少の変り型をも取らぬかぎり、それは全く思想を[br]
発表することのできないものである。そして修飾語がそれぞれの被修飾語の上に来る場[br]
合は、これも Jespersen のテクニックを借りれば nexus に対する conjunction を形づく[br]
るものであって、この構成においては修飾語は常にやがて引き出されるべき被修飾語を常[br]
に念頭に置くものであり、それがかりに二重になっていたとすれば、第一の被修飾語はさらに[br]
自ら修飾語となって第二の被修飾語すなわちその conjunction の最後へと進むので[br]

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あり、この関係を正しく押さえたものが王氏の三品次品首品の説であろうと思う。かくの[br]
如く conjunction において正しき観察が行われたとすればそれを nexus にも適用すること[br]
は理の当然であるが、ただ前者においては全く修飾の関係のみによって結ばれてきたにも[br]
拘わらず、後者においては述語があり賓位ないし表位がある。ここにおいて王氏は賓位表位[br]
をとって首位とし、述語をば次位とすることにしたものと思うが、単にいわゆる述部だけを切[br]
り離してみるとき、その説明に一応満足しなければならない。つまり述部が述語のみで完成[br]
せずして次の substantives を要求するとき、述語が次品となって substantives が首[br]
品となることは十分納得がゆき、またまさしくそう認めるほかはないが、かりに述部が述語の[br]
みの場合、すなわち描写句の全部と叙述句の一部では、これを主語と対比してその間におけ[br]
る比重を決定してゆかねばならないのであるが、たとえば「張先生来了」といい「這所房子[br]
很旧」というとき主述の二部の比重をもって主に傾くものとすれば、われわれには到底納得[br]
がゆかない、われわれは張先生なり這所房子なりに主題を求めてはいるが、しかし思想の[br]
流れは張先生が如何にしたか、這所房子がどんな徳性をもっているかを追跡しているの[br]

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であって、その追跡に答えてしかも完整した思想の発表に成功した以上、この句における比[br]
重は当然述語に傾かねばならぬ。決して判断句における繋詞が次品であるからといって[br]
──それは後に述べるように確かに次品であろうが──これらの述語をも次品とするようには行[br]
かない。ここに繋詞を描写句においても持つところの西洋語法としかることなき中国語法と[br]
の著しい差異が認められるのであって、穴を推し広げるならば少なくとも叙述句における述[br]
語ないし述部はすべて主語ないし主部に対して重い品級を与えられるべきであって、かりに末[br]
次首の比重が偏しすぎるとしても、次次首ぐらいの比重は認めねばならない。もとより[br]
考えかたによって主部には主部としての品級を考えて主語を首位とし、述部には述部[br]
としての品級を考えて述語と賓位とをそれぞれ次首とすることは妨げないが、もし一つの[br]
句を通観するとき主語を首位とすることには異議を申し立てねばならない。特に判断句[br]
においては繋詞の品は決して高くなくかりに三品を適用するとせば次末首ぐらい[br]
の比率を与えてよいことである。[br][brm]
ここで考えなければならないことは、新たに ranks の観念を中国語に導入することによって、どれだ[br]

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けの新しい立場が開拓できるかという問題である。黎氏文法においても主語述語賓語[br]
補足語等を考えている以上、これまた句における用途を考えたものであるが、黎氏としては[br]
句の中の用途を知ることによって詞類をきめるわけである。しかるに王氏はこれを並行せしめ、一面[br]
詞類をはじめから固定させることによって詞品との立場を別にしたのである。ただしこれだけ[br]
のことならば主語等のいいかたをもってしてもその目的は果たし得る、幾分かは分類が簡単[br]
であるだけ、品詞との組み合わせが楽であるというに過ぎない。しかも王氏は一方で首次末位[br]
をあげるかたはわら、はっきりしないいいかたではあるが、依然として主語謂語、またその地位[br]
として主位目的位関係位などの定義をあげて格の観念も全然捨てていない以上、これだ[br]
けでは特別な効果を認めにくいと思う。しかしその長所──王氏が必ずしも適用していない長[br]
所を考えるなら、主述等の考えは一応反省した場合の論理的分析的立場であるが、詞品を[br]
いう側から行けば、この句が言語として定着される場合の声調的直覚的なものを[br]
取るべきであって、人が言語を発するときに一一主語述語というものを分析しつつ表記するこ[br]
とはなく、ある抑揚頓挫の中にその語気が示されてゆくとせば、これをある用途にまで分解す[br]

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る立場を勿論否定するのではないが、それよりさきに語調による自然の分析が手っとり[br]
ばやくつかまれ、そしてそれが人の言語活動の姿を捕えることに適しているといってよい。したがって詞[br]
類と詞品とは必ずしも一致することなく、元来の動詞も首品として用いられる[br]
ことがあり、名詞も末品となり得るように、詞品と主述等の用途も必ず主語が首品ないし次品であい[br]
賓語が首品でなくともよいだけのゆとりを持つべきである。つまり両者のくい違いがあればこ[br]
そ双方ともに存在する意味があるのであって、単に分類の単複だけによってこの二種の共[br]
存を許すべきではない。この意味からいって、品級の観念は必ず句の声調と緊密なる[br]
関係を持たしむべきであり、その点については本節の最後において重ねて触れてみたいと思[br]
う。[br][brm]
なお王氏がいわゆる la langue としての意味であらかじめ詞類を確定しているが、中国語[br]
の如く屈折作用を持たないものにとって、西洋語の分類をあてはめた嫌いがあり、むしろ詞[br]
類はそれぞれの句できまるという黎氏の考えかたも一理ありといえる。しかし王氏はこれを捨てて[br]
詞類は字典の中で標明し得る、つまり詞そのものについて認められるもので、必ずしも句に入[br]

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った上でなければきまらないものではない。句の中の職務によってきまるものこそ詞品というべき[br]
だと称する。しかも、むしろ中国語の如き分類しやすいとさえ称している。なぜなら屈折作用[br]
が全然ないだけに、詞の屈折作用と論理学ないし心理学分類とを並用するような西洋の分類[br]
法に見えない一本調子が利くわけで、少なくとも賓詞においては、その形式用途について全然考[br]
えることなくもっぱらその中に含まれた概念にのみ標準を求め、論理学ないし心理学的分類に[br]
徹底することができるからである。その中には文字として同じ形を襲用していても、その声[br]
調ないし音素の間の変化によって違った品詞に属せしめるべきものもあるが、大体は一つ[br]
の詞として今日に生存するかぎりそれぞれの所属詞類を持ち得る、人、馬、桌子、政府が[br]
名詞であり、一、二、半、双が数詞であり、白、好が形容詞であり、飛、読が動詞であること[br]
いうまでもなく、病、死の如く行為でなく事件であるものも動詞としてあつかい、したがって語法と[br]
しての問題は一向ない。これに反して虚字はもっぱら句の中の作用について分類されるだけに真の語法問題はむしろ[br]
虚字にあり、したがって虚実の間にある副詞代詞のごときもこの意味において語法的興[br]
味にあたいするわけである。[br][brm]

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 いうまでもなく句を離れて語彙はなく、語彙を離れて音韻組織はない。もし句を離れた語[br]
彙を考えるとすれば、これは辞書にすぎない、ただそうした辞書の如きものが頭の中に貯えられて、それ[br]
が意志の発表に応じて適用されると見るか、意志の発表にあたって用いられた言語を抽[br]
象することによって辞書の如きものができ得ると見るか、そこに哲学的見解の相違はあるが、[br]
それはしばらく太陽と地球との関係の如くいずれがいずれの周囲をまわるとしても暦法上差[br]
異のないものとしてとりあつかって、ここでは中国語法における具体的問題にふれてゆく。[br][brm]
すでに述べた如く中国語が句として成り立つために、(一)動詞を述語とした叙述句(二)形容詞を[br]
述語とした描写句(三)繋詞是を用いた判断句の三つの型が考えられているが、これらを[br]
通じた主語としては名詞およびこれを代表する代詞が用いられる、ただし形容詞また[br]
は動詞が代用されることがある、しかしそれには条件があって、たとえば懶惰沒有好処[br]
とか勝敗是兵家的常事とかの如く二音節からなる詞か、ないしは平列した二つの詞を[br]
組みあわせたものでなければならない。一音節だけの形容詞や動詞がそれだけで主語にな[br]
ることは現代の語法としては極めて稀である、これは逆にいえば形容詞や動詞が名詞化[br]

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する場合の条件になることであって、以上のような条件にあてはまるものとなると自然、[br]
形容詞にしても新しい語彙がその選にはいる、事実、名詞動詞形容詞のあたりをさま[br]
よっている語彙は大体名詞からいえば抽象名詞であり、動詞形容詞からいえば二音[br]
節の若い語彙である。次に主語として一種の仂語が用いられることが常であるが、その[br]
場合にさきに語彙の節であげた程度のもの、すなわち二つないしそれ以上の詞として密着してしまったも[br]
ののほかに、山頂的花、海賊的船のように的をはさむものがある。これも山頂花とはいえな[br]
いが海賊船といえばいえるので、その密着性は語る人の気分によって左右されることもあり、[br]
どうしても左右できない場合がある、概していえば的という記号を加える方が口語的語気[br]
であり、文としての表現が口語に使われる場合は的を略することができる、と同時に馬[br]
車夫のように一語彙として固定したものは、すでに遠い時代から的を用いていないわけである。[br]
形容詞が名詞に加わった場合も小汽車とか爛羊頭といえば的を加えないが、厚的棉襖[br]
と分けていうこともある、ことに黄的河といえば形容詞で修飾した気もちであり黄河といえば[br]
固有名詞になる、もっとも黄的河というのは詩歌のいいかたで間のびがしているから、的を[br]