講義名: 中国語学概論 序説の一 中国語学の立ち場
時期: 昭和22年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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死了,孩子也去了」と並べたてるときは別である。かの天地間の大きな現象、[br]
たとえば風雨雷電といったものになると、動詞をさきにいうのもこの道理で、颳起[br]
風来了といえば、天地に風が吹き出したという事実を述べているが、風颳起来了と[br]
いえば、ただ「風」について静かに叙述しただけである。こうした颳風、下雨、死人の風、[br]
雨、人などは本当の主語が後にまわったと見るべきかというに、中国人の語感か[br]
らいうと、やはり動詞の賓語として直覚される。必ずしも颳は風の動作であり、[br]
下は雨の動作であるとは感じない。下雨は天が雨をふらすのであり、颳風は転が風[br]
を吹かすのであるし、死人というのは「喪父」といったときの「喪失した」気もちを示すから[br]
であって、ちょうど国語でも子供がなくなったということを強く表現するとき子ど[br]
もをなくしました、または子供を殺しましたとさえいうのとどこか通うところがあろう。しか[br]
も「来客」とか「鬧賊」とかに至ってはもっと説明困難であるが、博氏の説明では「来客」は[br]
客を「もてなす」ことであり、「鬧賊」は泥棒にわずらわされることである。してみると初[br]
めの「講台上站着先生」は教壇が先生を立たしておく、「書架子上擱着書」は[wr]書[br]

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架[/wr]が本を置いておくことでさしつかえない、自然、主述、目的の三つの位置を通じて、原則と[br]
していえることはやはり加速度的に重みが加わるという現象で、晋に話す人として意識し[br]
ているというか、呼吸しているかというところは、その重みのぐあいで、語序の中心はまさにそこに[br]
かかるものといわねばならない。[br][brm]
なお動詞のあとに来て、助動詞でも助字でもなく、相当な重みをもって現れるも[br]
のとして注意されるのは数詞をふくむことばで、你去幾天、我去五天の類であ[br]
るが、これもちょうど来早のように行ってから幾日という意味で、つまり動作のあと[br]
どれだけの時間が経過したかということになる。これに反して「我三点鐘来得」といえば何時[br]
に来たか、何時間ぐらいたってから、いつになったら行くか──我明天走──どれだけたっても[br]
家へかえらないか──我四年没回家了──ということを示すのであるが、すべて助動[br]
詞「着」や「得」を持った動詞の後にはこういった時間を示すものを加えないのは[br]
「着」は現在まで進行ないし継続したことを示し、「得」は到達したままでそのまま[br]
動かないことを示すからで、行ってから幾日というように「行った」という動作が完了し[br]

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我已經三年不念書了と否定的にいえるが、肯定としては我已経念書三年了(または我已経念了三年書了)というだけで我已經三年念書了ということはできない。

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てしまったものでないと、数詞などを加えることができないわけである。[br][brm]
次に動詞の目的語を動詞より前にいうためには「把」または「将」を用いる、すなわち「[br]
我焼了那一封信」というところを「我把那一封信焼了」ということができる。ただし両者[br]
の意味は完全に等しいわけでなく「我焼了那一封信」では「那一封信」が問題で、焼[br]
いたのはあの手紙であったということであるが、「我把那一封信焼了」といえばその手紙をど[br]
うしたかといえば焼いたということである。同じように你拿一張椅子来を你把一張椅子拿来とはいえない、も[br]
し一張を用いていうならば你把那張椅子拿来という、なぜならば你拿一張椅子来とい[br]
ったときは、どの椅子でもよい、椅子というものを一脚持ってこいということであるが、把を用[br]
いると、すでにわかった椅子を持ってこいというのであるから、ただ椅子といい那張椅子[br]
ということは許されるが、一張椅子ということは許されない。さらに「我愛他」を「我把[br]
他愛」とはいわず、「桃樹開花」を「桃樹把花開」とはいわないのは、「把」を用いる範囲が[br]
限定されていて、人を始末したり、使ったり、あしらったり、物を処理したり、事を[br]

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進めたりする、すなわち「つかまえる」という気分のときだけに限られ、そうした処置をする心もちのない、こちらが愛したり自[br]
然に花が咲いたりするときはこの形が適用されない。ただ戯曲などでいささかその用例[br]
はあるが、「請你把楼上」といったら誤りで、「楼」について何も処理しない以上、ただ「請你[br]
上楼」というほかはない。またこの式は積極的に処置をするということであるから「把」のあ[br]
とに否定のことばを置くことはできない。たとえば「我把那一封信焼了」といえても、「我把那[br]
一封信不保存」とはいえず、「将他二人按住」とはいえても「将他二人不放鬆」とはいえない。した[br]
がって「我把這書不借給你」といったら誤りで「我不把這書借給你」といわねばなら[br]
ない。また実際に「把他打」とか「把門開」とかいうように、目的格のあとの動詞は単[br]
音節に止まることなく、「把他打了」とか「把門開開」とかいったいいかたにするし、誰をどこか[br]
へやったというときに在□□というのは、すべて叙述詞のあとにおく。すなわち普通なら「正在[br]
那辺看人来」といって在那辺を看の上におくが、この式でいうと「把它派在怡紅院[br]
中」といわねばならず、したがって「把廢物在何裏扔」といわずに「把廢物扔在何裏」という[br]
のもその道理である。処置がすぎて損害をあたえたものでは、叙述詞の前に「給」を[wr]加[br]

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えて[/wr]「小弟弟把茶碗給打破了」という。すべてこれらも語序顛倒の一種といえる。ただ[br]
こうした顛倒があらゆる場合に適用されず、もっぱら処置をする性質の動詞であったり[br]
それも積極的に処置するときだけで否定の際に適用できないということは、決して形式を規[br]
定したものではなく、どこまでも「把」の原意をはずれることのない範囲で足ぶみしている[br]
状態は、またこの語法の重大な特色をなすものであって、「把」を介詞とせずして依然動詞[br]
と見ることをも決してこの語法にふさわしくないものでないことがわかる。[br][brm]
甲が乙を処置することを裏から見れば乙が甲によって処置されることであり、すなわち受け[br]
身にあたるが、この方の受け身は西洋の受け身とは違って、すべての場合にその表現[br]
があるわけではない。すなわちこの言語では損害を受けたという感覚以外にいわゆる受け身に[br]
あたる表現はないのが常である。たとえば「他打了你」の受け身は「你被他打了」という[br]
ように小さい主語と動詞の上に被という助動詞的のものを加える、被ほど重くないときは「叫」をもって[br]
換えることもできる。これと処置の式とを比較すれば、他被你們打死の裏を返せば[br]
你們把他打死であり、風把老太太吹病了の裏を返せば老太太被風吹病了であ[br]

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るが、自然処置の場合に「把」の後に否定語をおかないという原則がこの場合にも働[br]
いて、受け身の「被」のあとにも否定語がおかれない。自然「我們被人欺負」とはいえても「我[br]
們被人不欺負」とか「我們被人不尊重」とかいわれる例はない。そのほかの例えば他嚇[br]
得哭哭啼啼は嚇やかされたに相違なく「偷来的鑼鼓兒打不得」は打たれたいに相違な[br]
いが。必ず被という必要はなく、結局、不如意なこと望ましくないことにのみ用いられ、それも[br]
ぜひその事をいわねば収まらないときにだけ用いられるのである。[br][brm]
これと合わせて考えるべきことは使役の言いまわしで、你叫他来といえばたしかに使役の形であ[br]
るが、これには損害をふくんでいない、そこだけが受け身との相違になる。そのほかの構造は叫[br]
の下に「他」が「来」するという文を含んだものであり、まったく受け身と同じことになる。すべてこう[br]
いう構造は你叫他と他来とが重なったものとして理解すればよいわけで、それは「叫」でな[br]
くて「請」とか「勧」とかないし「打発」「催」「給」であっても同じことであるが、ときには「他」にあたる[br]
ことばが省略されることもある。なかんずく「給」がここでは「給他成家」のように好意をもって援助した[br]
ことになっているのに反し、前の「小弟弟把茶碗給打破了」では損失を与えたことになるの[br]

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辞源被買不着了とはいえない

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も面白い対照である。ことに他叫你們教壊了といえば彼等にだめにされたことであるが我[br]
叫你們把他教壊了といえば彼等にだめにさせたことであって、同じ叫你們でも使役に[br]
もなり受け身になる、それは次に処置すべき目的格が出るかどうかによって決せられ[br]
るのである、目的格がなければ主格が・・・されたわけであり、目的格があれば主格は目[br]
的格が・・・するようにさせたことになる点を注意せねばならない。[br][brm]
可能を示すときに能、能夠 その否定は不能、不能夠 可 その否定は不可 可以 その否定[br]
は不能 会、善、配などを動詞の上に加えることはもとよりであるが、別に做得 その否定は[br]
做不得 看得見 その否定は看不見 比得下去 その否定は比不下去 というい[br]
いかたがあり喝得粥 喝不得粥 買得出酒来 買不得酒来 のように賓語を加えることもある。博氏は做得のよ[br]
うな形を「可」といい、看得見のような形を「能」と[br]
いうが、おそらく前者は周囲の状況で許される場合を意味し、後者は能力[br]
のあることを意味してのことであろうと思う。ただ做得のような形には可以做といっ[br]
た場合──これは比較的古い形であるが──のほかに能力を示す場合もあることは注意[br]

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しておきたい。[br][brm]
次に完成を示すには動詞の次に「了」という助動詞を加え、継続を示すには動[br]
詞の次に「着」という助動詞を加える。すべて動詞の後に「着」を加えれば[br]
状態を示すことになるし、形容詞の下に「着」「了」を加えれば動詞としての働きを持[br]
つ。しかるに単に継続を示すというだけでは不完全であって同じ継続といっても、動[br]
作がそのまま継続しているか、それとも動作は終わってもその状態がなお継続しているか、とい[br]
うことを区別する必要がある。それにはまずその動詞の動作が瞬間的なものと持続的なもの[br]
とを区別してみると、例えば「站」の如き立つという動作は瞬間ですむが、あとそのまま立っ[br]
ているものを瞬間動作とすれば他站哪といえば今立つという行動の最中であることで[br]
あり、他站着哪といえば立ったままであることであり、二つは明らかに区別される。同じよ[br]
うな動詞でも開のようなものになると、今門をあけているというときは他開門哪であ[br]
り、我関着門哪,他怎麽会進来了といえば門をしめたままでいることであるが、な[br]
お門開着哪ともいえる。しかるに動作が長時間つづき、終わったら前の状態と違う動詞ではこういう差がな[br]

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く他吃飯哪と他吃着飯哪とは等しい。これを簡単にいえば動詞が動作を示[br]
すとき(着がついていないとき)その下に「哪」を加えればその動作がまだ進行中であることを示し、動詞が[br]
「着」を伴って状態を示すとき、その下に「哪」を加えればその状態がまだ変わらない、継[br]
続中であることを示したものである。完成についても、すべて終わったということを示すには[br]
「了」を用いるが、しあげた、できあがったという気もちを示すときは「得」を用いる。すなわち「他[br]
往西去了」といえば西へ行ってしまって、その事が終わったことを示し、「我從南来得」とい[br]
えば、南から来て今ここにいる、来るという動作が終わって、その成績が今も残っている[br]
ことを示す、したがって「我昨天買了」といえば買うというしごとを昨日すましたことで、[br]
もう終了したことであるが、「我昨天買得」といえば買うというしごとを昨日しあげ[br]
てその結果が残っていることである。しかるに「我吃了飯了」のように「吃了」の「了」で動[br]
作の完成したことを示すほか、最後に助詞「了」を加えて食べてしまったという感じを示[br]
す。したがって「吃了飯再走」というように文が完全に終わっていないときは助動詞は加え[br]
るが助詞は加えない。なお過去の経験をいうときは見過 没見過 のようにいい、また[br]

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否定のときは沒吃飯哪といって「まだ食べていない」ことを示すが、「着」を入れることはない

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了を加えて「叙過了寒温」のように述べてしまったということを示す。ただし没穿過的と[br]
はいえるが、没穿過了的とはいえず、没穿了的ともいえない。さらに近い過去の追憶[br]
を示すものとして昨天看書来着という。同じことについて「他昨天来」といえば単に昨[br]
日来るんだという原則を示すものであるが、「他昨天来了」といえば昨日来たという事実をいう、さらに[br]
「我走了」と立ちかけていえば自分が行くことに決定したことをいう、「他走了」といえば[br]
彼が出かけたことであるが、「我」の場合は明らかに自分がそこにいるのであるか[br]
ら、決定したことを示す、否定でも我不去了といえば、これまで行くことになっ[br]
ていたのを、今度行かないことにしたことで、これまた決定を示す。すべて中国語は[br]
西洋語のようなテンスの変化が全然なく、厳格にいえばテンスを示すのは時間を[br]
示す名詞であるわけで、了とか哪とか着とか過とか来、着とかは、ただ完成、決定、[br]
持続といった気もちを示すだけであるが、そういうものを巧みに組みあわせて西洋のことば[br]
にも少ない特別な差まで現すということは極めておもしろい働きであるといわねば[br]
ならない。[br][brm]