講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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 客裏相逢、籬角黄昏、無言自倚修竹。[br]
 昭君不慣胡沙遠、但暗憶江南江北。[br]
 想佩▲月夜歸来、化作此花幽獨。[br]
 猶記深宮舊事、那人正睡裏、飛近蛾緑。[br]
 莫似春風、不管盈々、早與安排金屋。[br]
 還教一片隨波去、又卻怨玉龍哀曲。[br]
 等恁時重覓幽香、已入小窗横幅。[br]
の如く、極めて錯●たるが如く見えてその實はやはりどこまでも偶数の精神を失はない。[br]
就中、苔枝假玉の四字は、いはゞゆっくりと調子を起すものであるから特に単句を用ひ[br]
てゐるが、その四言は完全なる對をなし、苔枝の二字は平、假玉の二字は仄となってゐる。[br]
そして次の有翠禽小々、枝上同宿に至って型どほりの偶句になるが、なほ四言を基[br]
とした短い句であったが、その次に至っては、客裏以下の二句は終ってもまだ韻にならず、自然[br]
偶の調和を破って、その無言自倚修竹といふ長句を點出した。而かも客裏の二句は[br]

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逢・昏と比較的響きの近い平字で踏み落して次の句の竹とは著しい對照を見せたそ[br]
の技巧は、やはり猶記深宮の句や莫似春風の句でも用ひられてゐるが、前者では事・裏[br]
と韻ならぬ韻を見せ、後者も風・盈と韻ありげな響きを持たせたところ、さすが音律の第[br]
一人者と歌はれた人の作曲だといふ感が深い。[br][brm]
このことは散文に於ても極めてよく見られることであって、紀▲の閲微草堂筆記を例にと[br]
って見ても、[br]
 昔在、舅氏、陳公、徳音家、遇驟雨、自巳、至午、乃息、所雨、皆▲麻、[br]
 水也。時西席、一老儒、方講學、衆因、叩曰、此雨、究竟、是何理、[br]
 老儒、掉頭、面壁、曰子不、語怪。[br]
と切って讀むならば、意味に於て或は奇怪と見えるかも知れないが、讀んだリズムは極[br]
めて快い。といふことは、逆にいへば支那の言語を通した意味はまさにさういふ切りかた[br]
になるべきだと云へないまでも、さういふ切りかたが許されるといふことを憚らないのである。[br]
たとへば陳公徳音といふやうな妙ないひかたが許されるのは正しくこの関係に相違ない。就中大切なことは、たとへば家といふのはそこで前の一節が切れる所にあたり、そし[br]

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て次の一節を起すには遇の一字で始めるといふのは、音曲で云へば終と始とは調[br]
子をゆるめる作用にもあたり、又前につけた変化が次を起したわけで、一種の不平[br]
均を平均ならしめる作用ともいへる。さらに皆▲麻水也といふのもそこで断定するた[br]
めわざわざと調子を狂はせたものであり、ちゃうど後の此雨究竟是何理といふ狂った句法[br]
と同じであり、又、月落鳥啼霜滿天と同様にもなるのである。[br]
今一つ面白いのは、時西席一老儒方講學という一段で、これはすべて半端な云ひか[br]
たをたゝみかけてゐて、そのためその勢はそこで止まらずに次の問答に落ちてゆく活氣[br]
をつける働きをなしてゐる。さらに詳しく考へると、みんなの問ふことば即ち此雨究竟[br]
是何理と狂はせたのはいかにも頚をかしげた言ひかたであり、それに対して老儒が子[br]
不語怪とカッキリカッキリ四字で云ったのはまさしくぶっきら棒に投げつけた語氣を出したも[br]
ので、その点恐らく作者には無意識で造った境界であらうが、それだけ自然の絶妙[br]
好辞として讃嘆措くことを知らないわけで、たゞこの話しが面白いといふことなら●●してしまっても[br]
好いが、かうした味といふものを棄てゝは文藝を談ずることは野暮の骨頂である。[br]

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たゞし支那文学の危険もまさにこゝに胚胎する。かうした技術は得てしてある一つ[br]
の型式となりやすく、ことに韻文のやうに固定したものに於てはこれが著るしく、最初にその[br]
型式を作った人は深いさとりから發したものであらうから、かの梁の沈約が四聲の道理を發[br]
見したとて千年もの秘宝が遂にわが手で發かれたといって感激したものであったが、ちゃうど[br]
電燈を發明した人が最初に光を出したときは感激の涙を以て眺めたであらうが、今わ[br]
れわれは電燈のスイッチをひねっても感激もしなければ涙も出ない。沈約の發明した[br]
四聲の道理によって七言近体の平仄式がきまって八病といふことが唱へられた時、たしかに[br]
文藝界の新しい世界がひらかれたに相違ないが、今の支那人にとっては何等の新味もな[br]
い日常茶飯のことであり、たゞ型にはめさへすれば誰でもできるものであり、むしろ型が[br]
細かければ細いほど智慧がいらぬ道理で、律の方が作りやすいことになる。つまり幾つかの[br]
紋切り型をはめてゆけば好いのであって創作のゆとりが乏しい。自然、支那人どころか支[br]
那語も知らない日本人でも型を拔くことさへ知れば判で捺すやうな近体詩が作られる[br]
わけで、日本人が絶句を好んで作るのは型を拔くことも下手で小さいものならできるが大き[br]

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いものが作れないためにすぎない。これで支那文藝を論ずるといふことは危険この上もない火[br]
あそびである。[br][brm]
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支那の詩は一個の概念を持つ一個の文字が一定の約束に從って排列されたものであると[br]
いふ機械的な見かたをすると、その組合せはたとへば七言絶句のばあひ、かりに第一句の末は[br]
東で終り第二句は空で終り第三句を飛ばして第四句は工で終るという條件をつけ、その範[br]
圍であらゆる漢字を平仄の許すかぎり並べなほして数學の順列組合せの式をつくって[br]
見ると假定したら、その数十萬の式の中で或は数十億の式の中でその條件に叶ふ詩といふ[br]
ものが相當数拾ひ出される。つまり●●がさせるわざにより詩を藝術から数學へ[br]
と移行させて見ても詩は誕生する。無数の前後不通の排列中から●●●●類別するといふ[br]
手数さへ發見されるならば確実に詩は作られる。いはゞこれを資本主義的な詩[br]
の作りかたといへる。しかしこれは勿論一つの空想であって、実際こんな工場の組織や[br]
計美器械みたいなぐあひで詩を作ることは不可能であるが、昔の人が一つ一つ彫[br]
刻したり手で磨いたりしたものが今は機械力で無限に生産されるといふこと[br]
を考へれば、かういふ夢想もあながち笑ひ去ることはできまい。而かもこれにも比[br]
すべき一つの問題は、支那の詩における集句の例である。即ち集唐詩ともいって[br]

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唐人の成句を拾ひあつめて新に一首の詩にする方法である。[nt(050160-0980out01)][br]
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この方法は要するに、たゞ今の資本主義的な大工場の工業を一種小さい工場組[br]
織に押しつめたいはゞ株式の大會社でなくて、個人資本でもできるやすあがりの自然可[br]
能性のある方法である。しかも、かういふ方法は日本の歌でもほとんど行はれず西洋[br]
の詩でもきかない、いはゞ支那特有の現象といふべきものである。それはなぜであるかと[br]
云へば、支那の詩を形づくる漢字乃至支那語の性質が、かくも孤立的であり、しかも[br]
容易に接續し得るほど曖昧な使ひ方が許されるからである。元来の唐詩で歌はれた境遇や感興が、まっ[br]
たく背景を異にして同じ表現が可能であり、又そのまゝで違った境遇や感興と[br]
容易に接續し得るといふことに外ならない。してみると、その表現を古人に借りるとい[br]
ふ裏に、重大な問題としてその感興までを古人から借りるといふことになる。尤も[br]

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集句は王荊公に始まる[br]
夢渓筆談十四[br]
風走花猶落[br]
鳥鳴山更幽[br]
蟬噪林逾靜[br]
宋王籍詩[br]

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終日昏昏醉夢間、忽聞春[br]
盡强登山、因過竹院逢[br]
僧話、又得浮生半日閑トリカヘ[br]
 元白珽湛淵静語ニ[br]
 莫子山暇日●山之事[br]

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これは文人の遊戯であって、まともな評價をすべきでもなく、又実際に作られたものがどれ[br]
だけあったかと云へば必ずしも多くはない。[br]
しかし、これより更に多いのは和韻詩であって、これ亦遊戯といへば遊戯であるが、その作ら[br]
れかた普及しかたは前者の比でない。これは、さきの例に述べた七言絶句なら七言絶句[br]
の韻脚を東空○工と作った作に對し別の人がそれに歩みを合はせて新しい七言[br]
絶句を作る方法で、韻脚に対する制限があるだけ詩を作る人にとっては困難[br]
が加はり、その困難を突破することに興味がかゝる。ちゃうど複雑な遊戯に対[br]
する興味が簡単なものより多いように、脳のひだの多い人にはかういふものがずっとや[br]
りがひがあるとさへ云へる。勿論、この方法は一面から云へば集唐詩のやうに古人の[br]
發想や表記を借用するのではなくして、いはゞ近人而かも大抵は友人の發想を借用するの[br]
であって無理は比較的少ないが、その發想は、原作者から云へば偶然に選びだした[br]
韻脚が、今度は動かしがたいきづなになって新しい詩の發想を束縛する。作者の興[br]
味はかうして束縛されたきづなを如何にして巧に輪ぬけするかと云ふ点に帰してしまふ。[br][brm]

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勿論、そんな藝當のできるのは支那語の孤立性・附着性に本づくのであって、これまた[br]
支那文學特有の現象でもあるから、これを遊戯的分子として度外に置くこと[br]
も考へられようが、こゝに支那文学の危険性を孕むことを注意せねばならない。[br][brm]
支那文學の危険として最も重大なことは模擬である。模擬とは個人を失った、又は[br]
個性のない行動である。といって、あらゆる文學が完全に個人の創案であることは極[br]
めて困難であり、李白の如き天才といはれる人物さへ杜甫は▲開府・鮑参軍[br]
を以て擬してゐる。それが必ずしもたゞの比喩にすぎないかどうか杜甫を起してたづねな[br]
い限り、今日的確に証明することは困難であらうが、李白の詩の世界には先住民がなか[br]
ったとは断言できない。まして中小作家の詩に至っては、先住民が多すぎ、又は偉大[br]
すぎて自己の姿をいふものが見出されにくい状態に陷る。そして自分の姿を主張[br]
するには、杜工部とか韓昌黎とか白香山とか黄山谷とかに似てゐるといふ表[br]
現を用ひる。つまり自分は影であって主役者は古人であったのである。結局古人を假[br]
りて自分を主張してゐるにすぎない。これは藝苑▲言によるのであるが、[wr]李夢[br]