講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
支那文藝學[br][brm]
文藝學といふことばは、ドイツの Literatur wissenschaft の飜譯から始まったもので[br]
あるやうに、わが國で最初に用ひられた頃(大正の末ごろ)は、たしかに西洋中心の文藝學であった。或は今でも[br]
さうであるかも知れない。しかし、わが國の國力が次第に世界の桧舞臺に立つやうに發[br]
展して、國民の矜持も自然と高まり、わが國の文化や文藝が必ずしも西洋に比べてひ[br]
けめを感ずる必要のないものだ、少くとも比較されるほどの違ったものであり、比較されるだ[br]
けのあるものを持ってゐることが自覺されると、文藝學に興味を持つほどの人たちの[br]
間には、自ら日本文藝學といふ合ひことばが考へられた。それが年とともに成熟して、たと[br]
へば昭和九年に雜誌「文學」が「日本文藝學」といふ特輯號を出すに至ったことは、たしか[br]
にその具体的な現はれである。その頃は、云ふまでもなく満洲事変・上海事変のあと、かの[br]
松岡全権がジュネーヴで四十二對一の採決に對し、敢然と國際聯盟を脱退した事[br]
件の翌年であり、身近かに迫る外國の力に對し、日本がたとひ獨力でも對抗してゆ[br]
かうと立ちあがった民族の精神が、文藝の領域においても「日本文藝學」といふ[wr]旗じる[br]
しと[/wr]なって掲されたものに相違ない。その特輯號に「日本文藝學の樹立について」といふ論[br]
文を發表された東北帝國大學の岡崎義惠教授が、その翌年に日本文藝學[br]
と題する六六〇頁の大著を岩波書店から出版されたが、これは從來書きおかれ[br]
た材料を拾ってざっと体系を立てられただけであり、すべての問題が尽くされたわけでもな[br]
し、残された問題も極めて多かった。そこで昭和十四年に重ねて七一二頁にのぼる大著を[br]
日本文藝の様式と題し、同じく岩波書店から出版されたが、この方はすでに出發[br]
点の定まった、体系のほゞ整ったところで組み立てられただけに、秩序整然としてゐて極[br]
めて多くの示唆をさへ與ふるものと信ずる。すべての學問は、長いあひだに貯へられたものが、ある[br]
きっかけから爆發して、それが新しい展開を示すまでの時間を必要とし、自然、日本文[br]
藝學も亦人々の心に宿りつゝ、何とはなしに過された長い時間の後に、日本精神[br]
の昂揚と西洋の文藝學との接觸によって新しい烽火となり、而して一とほりのその[br]
役目や分●が●定される所まで行きつく。これが「日本文藝學」の極めて短い展望[br]
である。[br][brm]
理論的に云へば、日本文藝學が生まれると同時に支那文藝學も生まれて好い[br]
筈であるが、日本文藝學がやかましくなってからさへ既に十年を經過しても、支那文藝[br]
學といふものは生まれてゐない。その原因はいろいろあらうが、これを支那の方面と日本の[br]
方面とに分けて考へると、支那に於ては在来から理論的研究といふものは多くあとまは[br]
しにされた傾きがあり、ことに西洋の文藝が輸入されてからのしごとが非常に多忙で[br]
あり、西洋なら一・二世紀を經過してできたやうな現象が、極めてあわたゞしく自然お粗[br]
末に捏ねあげられて、表面的とりつくろひに紛れて内面的省察の餘暇に乏しかったこ[br]
とは、第一の原因であらうし、さらに、支那人の精神自体が外國の壓迫のもとに[br]
沈みこんで、極端なる西洋崇拝か、さもなくば乱暴な排外運動へと急角度に轉[br]
回したあげく、自分自身の立ち場がはっきりしないため、自然、近代的精神をとり入れ[br]
てゆく標準が立たず、折角外國との交渉があっても國民意識の高揚にはまだ[br]
距離があったことが第二の原因であらう。そして、あらゆる東洋乃至西洋の問題が、[br]
この封建的過程から拔けきれない支那を中心として發生したことは、文藝といふ[wr]や[br]
うな[/wr]長い省察と静かな環境を必要とするしごとにとって大きな妨げであり、か[br]
くして本國にはさういふ企てすら聞かれないのである。云ふまでもなく、文學史の研究は[br]
非常に盛であり、ことに新しい文藝資料の發見・紹介といふことは、一時隨分活溌に行は[br]
れ、それによって從来知られなかった事實が確定し、自然、確定された點と點との間を發展[br]
的に結ばうとする點線や實線がいろいろと引き試みられた。ことに、唐代の遺物として[br]
著名な敦煌出土品の整理や、元の時代の小説などの大量なる紹介によって、現代文学[br]
にもある動力を與へなかったとは云へない。しかし、それらは殆んどすべてが紹介であり、書誌[br]
學的研究乃至傳記的研究であり、その堆積されたものに系統をつけようとする[br]
文献的研究であり、結局、文學史といふより外に名づけようのないものばかりである。それは、[br]
一面その工作に日も足らないほどの新資料― 從来見すてゝおいた資料に目を注いだ[br]
ためでもあり、それらが從来から認められたものと合計して夥しい分量に上ってゐたからで[br]
あるに相違ない。その一面に「文藝概論」と題する小册子中册子が、まったく同じ名[br]
で私の手もとにも三册はたしかにあるが、殆んどすべては翻譯で、時たま支那文學の例[br]
が思ひ出したやうに入れられてゐるにすぎない。[br][brm]
では、日本の支那學ではどうかと云へば、大部分の支那學者――あるひは漢學者といふ方[br]
が適當であらうが、大体は支那の古代といふ、すでに日本で一應咀嚼したものを反芻して[br]
ゐるだけで、自然、日本における地位までも現代に足がとゞかず、この種類の学問が一番普及[br]
した徳川時代に低迷してゐる以上、そこに現代的見地と素養とを必要とする支那[br]
文藝學の立ち場といふものには全く理解のないのが當然であり、これに對して、新しき立[br]
ち場を得たいと希ってやまない少数の人々は、かの夥しい文献――日に増加してゆくばか[br]
りの文献の解讀整理に急がしく、精々が文學史の編纂に止まるほかはなかった。[br]
わが國の支那文學史は、明治▲年ごろの古城先生の著述に始まって――それはイギリ[br]
スのGilesの文學史とほゞ同じ頃の作であるが、近く計画されてゐる相當大がゝりな[br]
文學史までかなりの数があり、それが大部分支那語にも譯されて、その國の學者にもい[br]
ろいろ裨益を與へたことはたしかに相當な成績と云って好いが、あくまでも史學[br]
的であって、理論的でなく、事實や説明であって事實の本質をつかまうとしない嫌ひがある。[br]
中でも、鈴木先生の支那詩論史のごとき、支那の詩の本質に切りこんでをられる[br]
し、青木博士の支那文學思想史のごとき、歴史として見て劃期的なものも公にされ[br]
たことは、同慶に不堪ところであるが、あまりにも支那の事●に即したるため、その内容が、[br]
現代(のわが國といふ地位)に立って見られた時、いかに取捨せられ、如何に吸収されるべきかといふ点になると、なほ[br]
遺憾な点なしとは云はれない。すべてこの世に存在したものは必ずある意義を持つべ[br]
きであり、古代の支那・近代の支那に存在したものも必ずその時代・その國土においては[br]
若干の意義を持つこと明かであり、それらの一々の意義を探ること極めて必要で[br]
あるが、現代の而かも國度を異にしたわれわれにすると、その一々の意義を探った上の[br]
しごととして、それが現代の文藝的観念・現代のわが國度とどういふ風に違って[br]
をり、さらにその違ひが如何なる点に根ざし、又その違ひがわれわれに如何なる影[br]
響をあたへるか、さらには、かくの如き違ったものを持った支那民族がわれわれの共[br]
榮圏内に在るとき、如何にしてこれと接觸してゆくべきか、さう云った複雑にして重[br]
要なる諸問題をふくむ「支那文藝學」は、やはり從来に於て取りのこされてきた[br]
ことを感ぜざるを得ない。われわれは、先輩の長い忍耐によって築きあげられた成[br]
果を利用するとともに、われわれの責任において新しい地歩を打ちたてる日がなけ[br]
ればならない。私とても、このしごとに十分適格なりとは考へてゐないが、さう躊躇をして[br]
ゐるべき時でもないので、いはゞ陳呉の業としてこの道を切りひらくことに本講義を[br]
利用したわけである。[br][brm]
ここに於て第一に問題にすべきことは、支那文藝學が文藝學における特殊部門[br]
か乃至は支那學における特殊部門かと云ふことである。これは一見、まづ題目をきめて[br]
作文を課せられたり、試験問題を與へられて答案を作るといふやうな嫌ひがあるが、むしろ、こ[br]
れを聞く人のために必要な説明で、いはゞ出題者の親切として注釋して好いことと思ふ。[br]
しかし、どの道支那と文藝學とが上で前後に組み合はされてゐる以上、この両者が[br]
密接不離に結ばれてゐることは疑ひなく、この題目は支那を強調しようと、文藝[br]
學を強調しようと、さまで重大な食ひちがひが起るものではない。しかし、この題目[br]
をとりあつかふ手心から云って、上に云った二つの態度が自ら区別されるべきもので、一人の[br]
人が萬能でない限り、完全なる調和を期待するよりも、むしろそれぞれの特徴を[br]
生かして将来多数の人の協力によって次第に完全へと向かふ外はない。この意味で[br]
私の立ち場としては、支那學の一科としての支那文藝學を考へて見たいのであって、自[br]
然、支那學の中における特殊問題としてよりは、支那學における特殊問題として[br]
の方面に重点を置くことにならう。[br][brm]
然らば、支那學といふものについての根本立ち場といふものも、この際極めて必要であるが、支那[br]
學といったからとて、支那に過去に存在した學問といふことでは必ずしもないわけで、支[br]
那に過去から現在まで存在した、又存在してゐるもので現代の學問的見地から[br]
見てとりあげられるものでなければならない。と云って、たとへば数學の如き、支那の古代[br]
にも相當な發達を見たが、これを現代の代数や幾何やその他の水準から見れば、[br]
決して進んでゐるとは思はれない。しかし、さういふものも現代の数學とある點において[br]
連関がある。[br]
その点は、数學の如き自然科學的のものは、如何なる國に於て[wr]發[br]
達した[/wr]ものも、これを他の國に移せば、その植ゑつけさへ誤まらない限り同一の效果を示す[br]
べきで、二等辺三角形の底辺がはさむ角は支那に行っても西洋に行っても互に同じ大きさであるから、[br]
現在の数學においてそれが許される限り、たとへ何千年まへに西洋人と関係なしに支[br]
那人が倡へたとしても、現代の数學と連関があるし、たとへば、墨子の中[br]
に、圜一中同長也とあることは、圓周は中心から等距離にあることを述べたもので[br]
ある以上これは今日の数学における公理乃至定理として取りあつかはれるものと[br]
全く同じことであって、それはギリシア人が發見しようと支那人が發見しようとその公[br]
理定理の性質に少しの差すらないのであり、今日の學問の常識から云って、當然支那[br]
學の範圍に入ってよいことがわかる。しかし、事が人文科學に及ぶと――事實、支那は[br]
その方面の發達が著しいのだが――さう明瞭に決定しにくいわけで、支那人の物の考へか[br]
たには支那人だけの筋があり、西洋人の考へかたには西洋人だけの筋があって、その出入の微[br]
妙な●は、なかなか判定に苦しむこともあらうが、ともかく今日の學問の常識から云って、これ[br]
がある科學となり、又はその根柢となることが理解されるかぎり、それは支那學の中[br]
に取り入れられて好いことであり、その場合、一般に西洋的なり日本的なりと認められるものと違[br]
った立ち場において一つの特色を持つかぎり、いよいよ支那學の中に含まれる[br]
可能性が強くなるわけである。かの数學の公理のごとき、支那数學と西洋数學との[br]
差は全然ないわけで、それはむしろどの國にも属しない数學の公理であることは、たとへ[br]
ば、哲學とか宗教學とか倫理學とか社會學とかが、別にどの國がらと云ふことな[br]
しに人類一般の學問として組み立てられて好いと同じわけであるが、これとともに、支那[br]
の哲學・支那の宗教學・支那の倫理學といふものも、單に哲學史・宗教學[br]
史・倫理學史以外に建設されるべき餘地を存してゐる。さうしたものが、支那なら[br]
ば支那學の發達史以外に支那學として主張されるべき権利を保有してゐる。つま[br]
り、人間としてはあくまで同じ構造かも知れないし、体格の大小の如きは生活の変化に[br]
よって変るかも知れないが、その目の色といひ皮膚の色といひ頭髮の色といひ、單[br]
に外見的なことに於てさへ大きな差異は抹消できない。アフリカの土人の子どもを生[br]
まれてすぐロンドンにつれて行ったところが、頭脳の働きは生粋のロンドン兒と少しも変り[br]