講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
つものであるが、後にアラビヤの数字が發達して、いかなる多数といへども1より0まで[br]
の十個の記號で統一されるやうになった結果、西洋の数學は長足の進歩を見たと[br]
云ふが、支那の文字言語は遂にさういふ状態を見ることなしに、いはゞ0を用ひることな[br]
しに過ぎた結果、科學の發達には最も不利であったと云ひ得る。これと同時に、具象[br]
的な表示をしてその影像を次ぎ次ぎに目に寫し耳に聽き頭に考へるとすれば、支[br]
那の言語文字ほど好適なものはなかったと思ふ。それ故、たとひ古典の負擔なしとす[br]
るも、支那においてその言語文字を自然の方向に活用した文といふものが最もよく[br]
發達し、自然、その結果としてでも、文の方が科學よりも上位に置かれ、さらにその結[br]
果として、ふたゝび文が科學を凌いで發達することとなるのである。とは云へ、支那[br]
に於ては、文學といふ概念のもとに文藝も科學も(少くとも技巧に流れて文字に縁の乏しい[br]
ものでない限り)同一の範疇に一應は歸属するのであって、ちゃうど今の科學者も[br]
文學者も同じ國語を媒体として思惟してゐるやうに、●な同じ文字を通して呼[br]
吸してゐるのである。[br][brm]
この現象は、單に科學者にとって一種窮屈な立ち場に追ひこまれて相當な發達[br]
をはゞまれる外に、ふりかへって文そのものの最高の藝術即ち最高の發達たる文藝[br]
そのものにとっても、決して十分に歓迎されなかったらしい。その証據には、いはゆる文藝といふもの[br]
は、二つの方面に於て自分を峻別しようとしてゐる。その一つは、學ことに儒學すなはち古[br]
典學との区別であり、も一つは、筆即ち實用文字との区別である。前者について、はっ[br]
きりした区別を示したのは、今の范曄の後漢書で、その列傳の中に、黨錮・循吏・[br]
酷吏・宦官についで儒林列傳と文苑列傳とを並列し、さらに獨行・方術・逸民・[br]
列女の諸列傳を以て結んであるのであるが、試にこの二つの列傳の賛を●●へて見ると、[br]
斯文未陵、亦各有承、塗分流別、專門並興、精疎殊會、通閲相徴、[br]
千載不作、淵原誰澂 儒林[br]
情志既動、篇辞為貴、抽心呈貌、非彫非蔚、殊状共體、同聲異氣、[br]
言観麗則、永監淫費 文苑[br]
といふやうな美しい文字を韻文に列べてゐるが、前者は古典の研究によって古人の真を[br]
求めようといふ氣分が溢れてゐるに對し、後者は當代の人心による表現の美を尚ぶと[br]
いふ点に目標を定めてゐることがはっきりわかる。かういふ区別は、後漢書に始まるので、史記[br]
や漢書はたゞ儒林の目だけあって文苑を立ててゐない。これから後は、儒學とか文學とかい[br]
ろいろな名称にはなってゐるが、はっきり文藝といふ目を立てたのは欧陽修●訂の新唐書で、[br]
この時はその對の意味であらうが、古典学者には儒學といふ名を與へてゐる。これは、はっき[br]
りと文藝を以て儒學即ち古典學と区別した言ひかたである。[br][brm]
たゞこの場合において特に注意すべきことは、如何なる歴史においても、儒と文とが對立された[br]
場合、例外なしに儒が上にあり文が下にあることであって、而かも文武といふ概念が持ち出[br]
された場合は、必ず儒林も文苑も文の部に属することである。これは、すべて事功を以て貴[br]
しとする支那思考に本づくものである。かの新唐書の儒學列傳には、武とは世を救ふための▲剤であり文とは膏梁[br]
である、乱が定まれば必ず文によって之を治める、即ち武は創業であり文は守成たること[br]
は百世不易の道である、その文の中にて天下をすべて仁義に入れるものは儒のはたらきであ[br]
り宰相大臣の如きはこれによってその功をかぐやかすものであり勿論儒學傳中の人物ではある[br]
がそれは別の本傳に見えてゐる、今こゝにあげたのは別に大事業を立てたわけではないが専ら[br]
古典を研究して後世に傳へた人たちである、といひ、之に對して文苑傳では、「功業をたて[br]
ゝ不朽に垂れることはできないが、文の道に遊んで人をそしったりすることもなく、君を善に[br]
導くことを忘れなかった人物をあげ」「天子の門では文學を下科とする」と云ってゐる。こ[br]
れはつまり、孔門の四科でも文學が最後に列せられてゐると同様なわけで、儒学も文苑[br]
もその点は一様に政治上の事功にあづからない人物のことに限られる。[br][brm]
次に筆との区別に至っては、「支那學」の第十巻特別號に斯波六郎氏の文筆[br]
考といふ、極めて精細な論文があるのでこれに譲っておくべきであるが、大体、六朝ごろには、[br]
文といふ概念と筆といふ概念とが對照的に用ひられた實例があり、これについて、文といへば韻文で[br]
あり筆といへば散文であるとか、文といへば今の文學的な創作であり筆といへば實用な[br]
書牘であるとか、いろいろの説もあるが、要するに文藝としての味に至っては文の体に[br]
帰すべきであり、筆は●ら文藝の立ち場の上から見れば文に比して一歩を譲るものであ[br]
ることは明きらかである。といふことは、その當時における文藝の標準が著しく韻律に重[br]
きをおかれ、これを以て文藝の中心勢力としたため、こゝに凝結した力があれば、その中心[br]
を去ることやゝ遠きところにもっと稀薄な部分ができたわけで、かうした暈の濃淡[br]
をすべて通じたものを文を總称したことは、文選の中にこれらがすべて收められてゐたことで[br]
証明できる。して見れば、かういふ主張の行はれた時代は文藝が最もよく蒸溜さ[br]
れ、ちゃうど水を蒸溜して異分子を抽出するやうに、同じ文藝の畑の中に純文[br]
藝と不純文藝とが認められたことになる。つまり、純文藝とは用途の上から云っても他[br]
の政治などに関せぬものであり、不純文藝は少くとも片足は政治の範圍に突っこんだ[br]
ものである。その上、文そのものの語義から云っても、文は▲の形が示すやうに、文[br]
飾であり文様であって、自然、できるだけ文字言語の精密な組合せたることを要[br]
求される以上、純文藝においてはその要求が特に強烈であり、不純文藝においては[br]
必ずしも強烈でないことになり、之を他の面から云へば、文藝が純化されて、實用文字[br]
[050160-0250out01]
実用●●文学●支那●文藝及●●[br]
から自分を区別しようとする要求を持つに至ったものと思はれる。しかし、この場合は、[br]
前の儒學文藝の関係と反對に、常に文筆の順序をくづさないことは、その立脚点[br]
が全く正反對であるからに相違ない。[br][brm]
かうした文藝観念が六朝に蒸溜されたことは、支那における文藝が決して政治の從[br]
属者でないことを示すものとして重要であるが、これと同時に、支那の文藝はほとんど社[br]
會からさへ佚脱してしまふ危險をはらんだ。むしろ、社會を厭離することが文藝の本[br]
質であるやうにさへ考へられた。これらの点については、青木正兒氏の支那文藝に溢れた[br]
る高踏的氣味といふ論文において明快に説破されてゐるやうに、かういふ「高踏的氣味[br]
は支那文藝の隅々まで行きわたり」これが「諸國に比し支那文藝がより多く有っ[br]
てゐる特徴の一つだと考へ」られるわけである。つまり、文藝が政治を離れて純文藝的[br]
立ち場を見出す以上、當然それは反政治的に進む。政治家は儒學を背景として天[br]
下の救済に努力を積まうとつとめ、もしそれが成功せねば「妥協」もしようし、妥協が[br]
できなければ「阿世」とまで墮落してゆくことも考へられよう。これは、同じ支那人にしても、[br]
かういった深淵に墮ちることを肯んぜず、早く見かぎりをつけて獨善的境地を求め、世の乱れ[br]
にたいして強ひてでも目を閉ぢようとするであらう。青木氏のあげられた例の中で最も適切[br]
なものを拾へば、陶淵明が五斗米の重荷を卸して田園に帰去来せることを、●●にさかのぼれば、魏の阮籍[br]
や▲康が竹林に嘯いて、或は青白眼をなして人を避け、或は公に絶交を聲明したり[br]
したこと、下っては、元の末の倪雲林の潔白、王冕の隠棲であり、明末の八大山人の酒[br]
顛・徐枋の窮乏の如き遺民の操守などであって、その詠ずる所は人間を離れた大[br]
自然であり、その耽る所は飲酒であり音楽であり、いはゆる書画琴棋の慰みにその[br]
鬱を晴らすわけである。して見れば、當然、儒學を背景とする政治家とは「水と油」に[br]
なることが考へられるのであって、その点は、同じ形式の詩に現れても、廟堂に坐して政治[br]
を行ふ人と、山林に隠れて自ら潔しとする人との間に、はなはだしい相違を見るに至るもの[br]
である。[br][brm]
こゝに、民國六年、雑誌新青年に文學革命が唱導されたとき、いち早く之に共鳴し[br]
た人たちが、最初北京において文學研究會といふ結社を作ったが、これは少くとも文學革[br]
命以来最初に作られた純文藝團体であった。その結社の宣言号は周作人氏の起[br]
草であると云はれるが、その中に、[br]
将文藝當作高興時的遊戯,或失意時的消遣的時候,現在已經過[br]
去了。我們相信文學也是一種工作,而且又是於人很切要的一種工作。[br]
と云ふ文句があって、これが、この團体の示した唯一の文藝に関する主張であった。つまり、[br]
こゝに至って、文藝家は社會から隱れて獨善的な自己滿足にその生涯を蕩尽すべき[br]
ではなくて、自ら社會に躍り出すべき義務を荷ったのである。といって、その立ち場は旧来の[br]
政治家の如き儒學の古い殻ではなくして、むしろその古い殻を叩きやぶるべき点を求め[br]
たので、いはゞ嘗ては儒林と文藝とが正反対の方向に走ったに對し、さらに一つの新し[br]
い立ち場を見出したものである。一面、それは儒林の持つ儒學思想といふしゃちこばったもの[br]
をきれいに流してしまったが、これと共に、文藝のよりどころとした古い形式――思想の乏[br]
しい理論のない遊戯をも決然として振りすててしまひ、社會とは何ぞや人生とは何ぞやと[br]
云ふ問題に切りこんで行ったのである。[br][brm]
勿論、かういふ宣言は單なるから宣言に終ったわけでなく、たとへば冰心の如き、比較的生活にめ[br]
ぐまれ、自然、社會にたいする經験の乏しい少女作家といふべき人の作品さへ、人生とは何ぞや[br]
といふ問題を提げて、小説月報に多くの波瀾を捲きおこしたし、新潮に現れた汪敬煕[br]
の雪夜とか、小説月報に連載された葉紹鈞の諸作のやうに、社會の暗い面が始めて[br]
文藝家の筆に上ったことは、その人たちの宣言した[br]
文學應該反映社會的現象,表現並且討論一些有関人生一般的問[br]
題[br]
といふことを地で行ったものである。かういふ立ち場がさらに深刻に進めば、郭沫若等の[br]
創造社の人たちが、自分自身の生活と闘ふほかに、遂に困窮のどん底にある同國[br]
民をひきあげて、ある水準に達せんがために、表面は赤くさへ見える態度をとって、文藝[br]
自体はその主張を彩るための彩色にまで顛落して、いはゞ、むかしの廟堂に立っ[br]
て民を救ふための堂々たる文藝と、今の身を鋒鏑にさらして民を救ふための血な[br]
まぐさい文藝とは、あたかも、民を救ふといふ線を中心として、一見上下に對称的な形[br]
をとるやうに見えるが、それは決して同様の色彩どころか、まるで正反對の性質を[br]
もつものである。それから見ると、或は人生派とまで云はれた文學研究會の一派は、要[br]
するに隠逸文学の変形であって、その所謂人生問題といふものも、決して真の人生に[br]
切りこむものではなくて、自分の安全地帯を求めてそこから社會を傍観したものにす[br]
ぎない。さてこそ、周作人先生の如き隠逸的性格に富んだ文人――知堂老人と號す[br]
るだけに、何もかも知りつくして收まりかへるといふ支那風の型が指導者として立[br]
つのであって、たとひ、かつての正月に刺客のピストルの丸を食って、今なほそれを身体[br]
に收めてをられようとも、要するに悠揚迫らずして、己の好むがまゝに雨の音をき[br]
ゝ、物賣りの聲を愛して、このきびしい時世に生きつゞけてゐる。その主幹たる藝文[br]
雑誌のごとき、すべて三十年一日の感がするのは、山中無暦日の面影と見て好い[br]
と思ふ。これは、いはゆる人生派そのものも結局は高踏的氣味から少しも佚脱[br]
してゐないのであり、或はそのむかしの高踏文人たちも、今の人生派ぐらゐの社會的[br]
関心ははっきり持ちつゞけてゐたのではないかとさへ思ふ。だゞその表面的な姿が大き[br]