講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
止まる。人間世の創刊號に、京兆市長知堂先生近影といふ大きな寫真をか[br]
ゝげ、その裏面に苦茶庵の打油詩として、[br]
前世出家今在家、不将袍子換袈裟、[br]
街頭終日聽談鬼、窓下通年學画蛇、[br]
老去無端玩骨董、間来隨分種胡麻、[br]
旁人若問其中意、且到寒齋喫苦茶。[br]
半是儒家半釋家、光頭更不著袈裟、[br]
中年意趣窗前艸、外道生涯洞裏蛇、[br]
徒羨低頭咬大蒜、未妨拍▲拾芝麻、[br]
談狐説鬼尋常事、祇欠工夫喫講茶。[br]
の二首を録したのが評判で、沈尹黙・劉半農・林語堂が例の和韻をしてゐる[br]
のは正にその表はれであって、文人遊戯の作がこのきびしい時代に羽をのばしてゐる。それは、民國[br]
廿三年といへば、前々年の上海事変は解決したものの華北に於ける日支の風雲は次[br]
第に急を加えんとした頃であるが、この雜誌はその頃羽が生えて賣れたといふのも明末[br]
の状況に似てゐるといへようか。[br][brm]
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袁中郎の論文にも、「口舌は心に代るものである。文章はまたその口舌に代るものである。[br]
かやうに展轉隔礙してゐるから、いかに暢●に書けたとしても口舌に及ばぬことで[br]
あらう。况して心に思ふことには到底及ばない。故に孔子も文を論じて、辞達而已と[br]
いってゐるが、達と不達とは即ち文と不文との差である」と云ってゐるとほり、わが思[br]
ふことを一管の筆に託して云ひあらはし、之を他人に達することは難事であって、相當[br]
の修養を要し、あるひは天分さへも必要とする。而かも文といふ以上には、一種の装[br]
飾を伴ふものであって美しくなければならない。支那に於ては、これを美しく表現す[br]
るといふことに完全な意味乃至目的を置いてゐるのである。もとより支那人が物[br]
を考へる時には白話で考へるのであるが、従来の長い習慣はこれを筆に表は[br]
す時はその名の示す如く文言を用いた。それは文を作るために用意された特別なことば[br]
である。文學革命を孕んでゐた時分からすでにういふことに對する疑ひが●って、[br]
「われわれは[br]
心では白話で考へながら、筆ではなぜ文言で翻訳せねばならないのか」――これが、その端的[br]
な疑ひであった。[br][brm]
その疑ひは遂に文學革命によって解決されたわけであるが、これまでの支那の少年はど[br]
うしてかゝる文言を學んだかと云ふことにはいろいろの資料があるが、こゝに蔡元培のこと[br]
ばを借りると、自分は六歳で家塾に入って百家姓・千字文・神童詩などを学ん[br]
だ。実は初めて習ふ子どもは三字経を讀む者もあり、千家詩を讀むものもあり、詩[br]
経を讀むものもあるといふが、自分はそれを讀まなかった。次は四書を讀み、それから五経[br]
を讀む。四書までの間は先生は講釋されず、五経になるといさゝか講釋されるが、ぜひ[br]
暗誦しないといけない。讀んでゐる本がわかってもわからなくても数多く讀んでゐると[br]
結局暗誦してしまふ。その外には識字・習字・對句の三法があって、これが文義をさ[br]
とった皮切りである。識字は方塊字を用ひ、一字ごとに音と意義とを云はねばな[br]
らない。習字は描紅字から影格・臨書と進む。對句はその文字をかさねて句に[br]
する方法で一字から四字までで止まる。なぜなら五字以上は詩になるから自由[br]
に作らせる。對句には名詞・動詞・静詞で對をとるほかに、名詞では動植砿[br]
や器物宮室、静詞では顔色性質や数目など、みなその同類でいかねばならない、[br]
たとへば先生が白馬といへば、學生は黄牛とか青狐とか云へばよいので、黄金とか狡[br]
狐とか云ったのではだめである、先生が登高山という題を出すと、望遠海とか鑒[br]
止水とか云へば好いので、耕緑野・放四海など云ってはいけない、つまり色や数で性質[br]
に對することは許されないのである我所受旧教育的回憶――人間世一號――、といふや[br]
うな方法で長い時間を費して頭につぎこむのである。かうした訓練の結果、頭に考[br]
へたことが、筆に現れる途端に文言になって流れる。甚しきばあひは、短いものやきま[br]
った形などは初めから文言で考へることすら起って来る。四書の文句や諺などが[br]
口を衝いて出るのはこの例である。[br][brm]
しかるに、實際上文言の模範として與へられるものは、要するに古人の成語成句であり古典で[br]
ある。その古典は當時なら達でないものはなかったであらうが論文、今の人から見ればな[br]
かなかわからない。そこで、古文は奇奥だから今の人が物を書くにも平易ではいけな[br]
いといふ議論が出る。そこで袁中郎は之を駁して、時に古今の別があれば語言に[br]
も古今の別がある、方言に楚人は知のことを黨といひ、慧のことを▲といひ、跳のこと[br]
を▲といひ、取のことを挺といったとあるが、自分は楚に生長しながらこんなことばを[br]
聞いたことがない。故に史記の五帝三王紀に古語を改めて今字にしたものが多い。疇を[br]
誰と改め、俾を使と改め、格姦を至姦と改め、厥田厥賦を其田其賦と改めた如き[br]
例は数へ切れない。左氏は古を去ること遠くないが、傳中の字句は少しも尚書に似て[br]
ゐない。司馬は左を去ること遠くないが、史記の句も一向左氏に似ない。今日から逆[br]
算すると、前漢までは幾千年もへだてゝゐる、それに司馬が左氏に一致できな[br]
いのに、今の者が左馬を兼ねて之に一致したいといふのは誤りである。その後晋唐[br]
を経、宋元を経る間に文士は乏しくないが、公然古文を▲▲して己の有としたもの[br]
などなかった。昌黎は奇を●●ふと毛穎傳の如きものを書いたが、これは一時のたはむれ[br]
ですべてがさうではない。しかるに空同はそのことを悟らず篇篇模擬しつゝこれを反[br]
正と称したので、後の文人は逆にこれを定例と見なし令甲の如く尊び、一語でも古に[br]
肖ないものがあれば大いに怒って野路悪道といった。ところが、空同の模擬は[br]
一人が創めたときはまだ好かったが、その後になって一が百にな、訛から訛へといっ[br]
てますます見るに堪へないことになった。それに空同の文はなほ自分の意が多く、事[br]
を記し情を述べるにも往々にして真に逼ったが、中でも好いことは地名や官銜はす[br]
べて當時の制を用ひたが、今はかへって當時の制では文でないといって秦漢の名銜を[br]
取って文飾とした。見る者がもし一統志でも調べない限り、どこの生まれかもわからぬと[br]
いふことである。しかも文のよしあしは地名や官銜によるのではない。司馬遷の文はそ[br]
の佳きところは、叙事が画の如く議論の超越した点にある。しかるに近頃の人は、[br]
西漢以来封建●●官師郡邑の名が雅馴でないから子長がまた表はれて[br]
も史を作ることができない――といふが、これは子長の佳きところを夢にも知らないの[br]
であるから、それで子長に肖とるなどといふことはできない、と力を極めて駁してゐるの[br]
は、要するに今日の常識から見て自然な言ひかたである。[br][brm]
殊に面白いのは論文下篇の着筆で、香をたくのに沈なら沈の煙、檀なら檀の氣がす[br]
るのは何故であるかといへば、その性が違ふからである。楽を奏するものが、鐘は鼓[br]
の響をからず、鼓は鐘の音をからないのはなぜかと云へば、其の器が違ふからである。文章[br]
もそのとほりで、一つの學問があれば一つの意見が出るし、一つの意見があれば一つの言語[br]
が作り出される。意見がなければ虚浮であり、虚浮であれば雷同である。故に、大に喜ぶ[br]
ものは絶倒し、大いに哀しむものは號痛し、大に怒るものは叫吼して地を動かし髮[br]
が逆だって冠をさすのがあたりまへであるが、俳優は心に喜ぶこともないのにむりに笑[br]
はうとし、哀しいこともないのにむりに泣かうとするから假借模擬せざるを得ないの[br]
であるといってゐる。そしてその後の文には、模擬して文を作るものの心理を解剖して、結[br]
局は識見がなくして物を書かうとするがために起ったことだと云ってゐるのは、當[br]
時にあってはたしかに痛烈淋漓たるものがあったらうと思はれる。[br][brm]
實に支那文学の第二の危険性は内容の乏しいことである。そして乏しい内容を文[br]
辞によって掩飾せんとすることである。今、その原因をさぐるに、その根本として、支那では[br]
文を書くことがあまりに困難であることが思ひあたられる。蓋し、前述の如き言文[br]
の不一致は勢ひ作文の練習に多くの時日と勢力を費し、而かも塾師がその弟[br]
子に望むことは、その文章が規格に合することで、即ちたとひ假借模擬でも笑ひつ[br]
泣きつしなければならない。これは正しく支那の葬儀における哭の法に似てゐる。巴金の小説[br]
に、祖父の死にあたって家族は弔問客の来るごとに聲をあげて哭する。弔問客の[br]
来たことは門番が▲吶を叩いて奥へ豫告するのであるが、時には帰る時のあいづを[br]
新しく来た人の音とまちがへて哭してゐるが、一向人が来ないのでやっとまちがひに氣[br]
がついたり、客が来ても知らずに霊所で誰も泣いて●●●●●●●●してから突然哭聲が●●したりするといふが、つまり親の喪からして形式化してゐるのであるから、文章の形[br]
式化ぐらゐ何の不思議もない國がらである。哀しくなくて泣ける國民は、嬉しくも[br]
ないのに笑ひ怒りもせぬに怒髮冠を衝き、で行くことに慣れてゐるわけである。[br]
とは云へ、その反面に文字の雕琢に費された苦辛は非常なもので、文字を雕琢する[br]
といふよりも、文字どほり雕身鏤骨であって、かゝる苦勞を稱して推敲といふのも、唐[br]
の賈島が、鳥宿池中樹、僧推月下門の句を得て、その推を敲とすべきかど[br]
うかに迷ひ、京兆尹韓愈の車に突きあたったので、わけをきいた韓が馬をとどめて考へ[br]
てから、敲が好からうといってくれた話に本づく。實は、その場の光景としては、推してそ[br]
っと入らうと、敲いて人を呼び出さうと、さまでの相違があるわけでないが、そこには文字は[br]
一字しか使へない以上、一字の力を極端に惜んでかくも我を忘れたわけで、ちゃうど経[br]
済にたけた人が一錢の金もむだにしない心がけと同様である所から、多くの人に推賞[br]
されたものである。また唐子西文録に、皎然のところへある僧が詩を携へて教を乞うた。[br]
その時皎然は、その御講詩の此波涵聖澤の波の字がおちつかないから改めなさい[br]
といったところ、その僧は怫然として去った。その僧も詩の上手であったので皎然はきっと[br]
又来るぞと思って、あらかじめ筆で中の字を書いて掌に握って待ってゐた。そこへ僧[br]
が案の定やってきて「中の字にしたら如何」といったので、皎然も手をひろげて中の字を示[br]
し、これより交を定めたといふ話もあるとほり、一字の配慮は、ちゃうど庭石の置きかた[br]
の如く、全体から推してかならずきまった地位を要求され、苟くもその道に苦勞したもの[br]
ならば誰でもその意見が一致する筈で、なほ二点の間の直線は一本しかないやうなものである。支那の文芸は實にこの点にその大[br]
部分の精力を傾けつくしたため、自然その發達も畸形異常に近き状態を呈したので[br]
あった。●●●●に八 、王荊公の絶句、京口瓜●一水間、鍾山祗隔数重山、春風[br]