講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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勿論、摸擬の中に創造があり、創造の中に進化の存することは否定すべくもな[br]
いことであるが、最も大きな問題は、その程度の進化や創造が、この長い時間に比例[br]
したとき、果して進化をいひ創造と云へるだらうかと云ふことである。われわれが快速度の[br]
乘り物にのって旅行するとき、これと同方面に進みつゝある車馬は、すべて後へ後へと走り去っ[br]
てしまふ如く、少くとも、唐宋から清●までの長い時間この程度の創造進化に止まる[br]
ことは、むしろ停滞といひ退化といふことに相當するものであって、これを支那人生活の内[br]
部から見れば進化であり發達であることが、世界文運の全般的立場に立って見る時は[br]
甚しき退化であることは十分に了解できることである。これを詩について見ても、清●に[br]
おける有名なる文藝家の集を見るとき、その集の大部分を埋めつくしたものは五七[br]
言の詩形であり、その詩形はすでに遠く唐時代にその發達を完成したものであり、勿論、[br]
之に伴ふ現象ではあるが、その韻は唐以来の傳統の韻書に本づくものであって、幾分[br]
その條件をば長い間に摩滅させ寛大ならしめたにすぎない。かくの如き詩における[br]
あらゆる條件が遠く唐を祖述して改めないことは、何といっても一つの驚くべき現象であ[br]

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るが、ことの此に至る重大なる原因を考ふるに、唐宋以来の固定した文化財が、ま[br]
さにその社會、ことにその中心たるべき讀書人によって擁護された故であって、讀書人が[br]
そのグループとして加入を許すための資格は、まさにその文化財に関する教養如何にあ[br]
り、すでにかゝる教養を身につけた所の人々は、その社會の根●によって堅固なる安[br]
全性を●與される以上、何も今さら好んでこの根●を棄てることはない。自然、自分たちが[br]
この傳統的文化財の番人としてその生涯を捧げて悔いない。これはちゃうど、大いなる資[br]
産を譲られた人の如きもので、如何にしてこれを守りぬくかといふことに生涯の目的が集[br]
中されるわけで、貧乏人があるひは乾坤一擲のことも企て得るのとは全く違った環境[br]
である。少くとも、かういふ環境の存在といふものが支那文藝の保守性といふものを理解[br]
する一つの重大な鍵であり、かゝる讀書人生活の、ある意味における本質的研[br]
究といふものが、支那學全般において極めて重要なる發言権をもつべきものと考へて大[br]
差ないと信ずる。[br][brm]
しかるに、かくの如き社會中心は要するに少数者にすぎないのであって、その餘のいはゞ一般[br]

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大衆といふものは如何なってゐるか、又如何して来たかといふに、それらが完全に勢力をなさな[br]
い頃は別として、少くとも宋以後の社會組織については、彼等の經済上における一種の潛[br]
勢力は、たとひはっきり讀書人と對抗できぬにしても――又、讀書人自体がかゝる勢力[br]
を握るだけの地盤をもってゐたと思はれるが――彼等には彼等なりの文藝生活といふも[br]
のが要求された。ちゃうど宗教や道徳にしても、讀書人の據って立つものと、一般人の安[br]
心立命を求め、乃至勧善懲悪に資すべきものとは自ら別種のものとなった。即ち支[br]
那において孔子廟は壮大に立てられてゐるが、その中に参詣する人影はまったくなく――[br]
たゞ釋奠の時にその日かぎりの特別な服装をした●●がくりこんで、にぎにぎしい祭を[br]
一度やれば、後は全然よりつかず、その廣い庭といひ敷石の間といひ草がのびるまゝであ[br]
るのに、一般人は陸續として道観に参詣して千里を遠しとしない。たとへば、北京の西北[br]
郊にある妙峯山の如き、市中にはこれに参拜するための講が設けられ、四月の祭典の[br]
ころは●●の民衆が蟻のやうにつめかけて羊腸の小徑を埋める。そして、これらの老幼の登山[br]
を接待するため、多くの團体が進んで奉仕を求め、湯茶の用意といひ、宿泊の便[br]

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宜といひ、至れりつくせりのさまである。これと同様なことは文藝についても云へるのであって、[br]
孔子廟を祭ることは要するに讀書人が詩古文辞を形式に合せて作りつ楽しみつ[br]
するだけのことであるが、それよりも大多数の庶民があの信仰と熱誠とを傾けて妙峯[br]
山まゐりをする、あの力つよい民族の歌に比すべき庶民文藝といふものを忘れてはなら[br]
ないのである。それは多くは文字を有せぬ民衆即ち目をとぢて耳をすます民衆のため[br]
に與へられるもので、その發達の過程が語り物にあったことは最もよくその性質を示[br]
すものと云はねばならない。宋の時にかゝる語り物が盛に地方を風靡してゐた[br]
ことは幾多の例証が求められようが、宋の陸放翁の詩に(▲▲▲▲▲▲)[br]
斜陽古柳趙家莊 負鼓盲翁正作場[br]
死後是非誰管得 滿村聽説蔡中郎[br]
とあるのによっても、盲翁が鼓を負ふ姿こそ民衆文藝の濫觴であると見られる。すべて三國[br]
志にしても水滸傳にしても、かゝる環境から發達して遂に讀み物になったことは疑ふべく[br]
もなく、その文藝として歓迎されたについては、勿論俚耳に入りやすく文字をからず――少く[br]

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とも難解にして多くの教養を前提とし、あるひは現代語を棄てゝ古代語の形式を求めた[br]
やうなことなくして理解できたからでもあるが、その一面、たしかに偽らざる人間の精神――これを[br]
健康といはずして何といはうか――を表現し、だれもこれをきいて深い感激と満足とそして慰安と[br]
を覺え、この人生の疲れたる行路においてさらに新なる前進の勇氣を與へられるも[br]
のに外ならない。そこに必然的に要求されるものは社會心理の表現であり、庶民が互に社[br]
會生活を營むについて如何なる道徳が要求され、もしこれにそむくならば如何なる懲罰[br]
が與へられるかといふことが當然包含されねばならず、こゝにおいて、この種の文藝は教訓の[br]
要素を兼ねることになるが、しかしそれを兼ねるといふだけのことで教訓のために作られたも[br]
のでないといふことは餘計に教訓としても役たつに相違ない。第二に考へられることは、社會に[br]
於ける不平の観念は如何なる時代をとはず存在するものであるが、特に讀書人階級が[br]
社會の上流を占めてあらゆる権利をその手中におさめてゐた時代といふものは、庶民にも物[br]
云はぬ不平といふものが強く働いてゐたに相違ない。これぞ一寸の蟲にも五分の魂といふもので[br]
あるが、それは現実の社會においては發言できないものである以上、かういふ文藝をきくことによっ[br]

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て満足する。故にかゝる語り物は決して明君賢相の太平を謳歌したものでなくして、乱世において[br]
暴をくぢき悪を抑へる方向に傾いてゐる。それは勿論興味をそゝる面をもってゐるか、同時[br]
に平素の抑壓されたるものが物がたりの中に於て發洩することに十分なる喜びを覺えるも[br]
のである。かつて、ある支那の女学生が、支那人の水滸傳や老残遊記を愛讀[br]
する心理は多分にさういふ自己の不平が作中の人物によって晴らされる、とまで行かずとも[br]
弱きをたすけ強きをひしぐ英雄的行為に●はれるといふことを述べるのをきいたことがあ[br]
るが、すべて弱きものは強きものに對するあこがれを持つものであり、ことに支那の庶人の[br]
如き女性的性格を持った社會は、その對蹠的風格をもてる小説を歓迎するのは[br]
理の當然でもある。第三には、その生活に笑ひを要求し諧謔を要求することである。[br]
これも亦その生活に重大なる壓迫を覚える者にとって已みがたき發洩点であって、[br]
支那における民間文藝があまりにも諧謔的であり、場合によっては極めて肉感的であ[br]
ることなどもその要求の現はれであり、むしろ、ゆとりのない生活の中から求められるべき満足[br]
や慰安にはさういった方向に流れることが自然であり、同時に、音楽にたいする愛好[br]

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巴金の家にもあり[br]

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からこれを楽器にかけて演奏したり、少くとも楽と織りまぜてゆくことは極めて必要なこと[br]
であったらしい。かうした感激や満足や慰安は、いはゞ庶民生活の自衛のために必要[br]
缺くべからざる工作であって、風教もかくして維持せられ、生活もかくして營まれる。それは[br]
必ずしも進歩を與へるものでないことは明かであるが、現状よりも頽れた社會といふものを[br]
生じないために消極的に役だってゐる。[br][brm]
かくして支那の文藝は、舊来の立場にたって考へる時、上って士大夫の文藝となっても[br]
下って庶人文藝となっても、いづれもその固定した社會生活を營むがために必要なものであ[br]
って、これを進歩せしむべき原動力となることは困難であったし、社會を改良するといふ[br]
意識をも持ち得なかった。そして両者は、笑はない文学と笑ふ文学、太平を●●する文[br]
学と乱世を楽しむ文学と對蹠的に分かれ、士大夫は庶民の文藝に目をさらすことを[br]
恥ぢとしてひそかに之をよみ、庶人はもとより士大夫の文学を味ふ道なく、かくして両者そ[br]
れぞれに別の道をば、その社會の如く歩み来ったと思はれるのである。[br][brm]
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文藝が支那の社會において如何なる地位を占むるかといふことは、一面に於て支那の時代[br]
性の問題を伴ったものであった。あれほど停滞性を歌はれる支那社會といへども時代の[br]
波は免れることのできないものであり、その社會に發生した文藝も亦時代の波によりて変[br]
相を呈することも當然である。これについて支那人が常に云ふ諺の如き表現に、一代[br]
有一代的文学といふことがある。つまり、一つのエポックをなすべき時間のくぎりめを反省[br]
する時、そこに明きらかな文藝の潮流が存在することであって、かゝる時代的くぎ[br]
りは、社會的にはもとより政治經済のあらゆる面の合成したものであるが、その中に、その[br]
一つの合成材料としての文藝の役わりは決して小さくないのである。然らば、かゝる時代的[br]
くぎりは何によって發生するかと云へば、昔から極めて簡單な治乱といふ表現が即[br]
ちこれであり、社會一般の機構が何とか安定を得たいと希ふ方向に進むときには治[br]
となってゆくが、その極、上下の分・貧富の差が画然として決定される時は、自らそ[br]
の反動としてこれを顛覆せんとする力が貯へられ、上であり富める者の力がこれを[br]
抑壓し得る限りは表面上その状態が継續しても、一旦その力が衰へた場合には、そ[br]

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の反動が極めて明瞭なる答案を提出する。それは乱といはれるもので、その乱に揉[br]
まれぬいたあげく次の治といふものが期待され、その治は前の治とは別の形態をとるも[br]
のである。この極めて簡単なる理論は、文藝の場合においてもあてはまることであって、[br]
たとへば唐の文藝を詩で代表し、宋の文藝を詞で代表し、元の文藝を曲で代表す[br]
ることは恐らく支那の文藝史上動かしがたい鐵案であって、ちゃうど唐宋元といふ[br]
時代と相伴ふこと、単に外形の上の相似でなくして内容から云っても深い連関を持つ[br]
ものといふことができる。これらはまさに文藝の王朝であり、その治●の確立を示したものと[br]
いって好い。[br][brm]
以上試みにあげた三種の文藝は、大きく見れば一つの韻文といふ型の中に入れて然るべき[br]
であるが、さっと見ると、唐宋元といふ長い時代を通じてその文藝の主要な潮流は[br]
韻文にあったといってさしつかへない。而かもいはゆる韻文なるものは世界のどの文学史を[br]
見てもみな最初に發達すべきものであり、支那に於てもその發達は詩經・楚辞の如[br]
き古代まで遡ることができ、それは恐らく相當な發達を見たには相違ない。しかし、[br]