講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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留學生が派遣され新しい世界に目を見はった。そして、●國のおくれたる姿に驚いた。否、[br]
元まではむしろ西洋を凌駕してゐたであらうものを明清の二代に忽ちおぞましくも追[br]
ひ越され、かつての東亜民族の指導者が、今は眼中になかった日本にさへ及ばぬさまとなっ[br]
た。日本は不断に進歩するが、わが國はさらに動いてゐない。これは先覺者のいつはらざる叫[br]
びであった。胡適が留學を終って上海へ帰って上海の洋書店を見た時、そこに並んでゐる書[br]
籍はすべて留學前と同様であった。彼はその時忽ち東京の丸善書店の目録を思[br]
ひ出した――その中には全世界の最新の書籍が一杯に收められてゐる――▲▲▲▲さう[br]
いふ時代性とともに民國の文藝は興隆したのである。いや、興隆させねばならないと氣負ったので[br]
ある。民國初期文藝の特質はまさにこゝにあると思ふ。[br][brm]
しかし、長い歴史を負うた漢民族が、しかく簡単に轉回できるものではなく、古典に對する愛[br]
惜は遂にこの文藝運動と激突して幾多の烈しい論争をさへ起した。ちゃうど官僚政[br]
治に対する學生運動の激突が、有名なる五四運動となり、さらに五▲となりして、あるひ[br]
は共産的に見えるまでに反動を見せ、さらに自宅テロの如きまで行はれた凄惨なる社[br]

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會状態に應ずるかの如く、文藝そのものも猫の目の玉よりも早く轉回した。しかし、それは[br]
新舊の衝突といふよりも、決定的に新が舊を壓倒した記録であった。いかに國粋を叫[br]
ぼうとも八股文を回復しようとは云へない以上、多少の凹凸はあっても、新しい●●が勝ち[br]
を占めるのが當然であり、文藝は榮達の手段でなくして人生の解決であり社會の●●[br]
であることも自明の理となった。それほど社會問題は一般の注目を惹き、人生そのもの[br]
の凝視は青年の流行ともなった。それは、小説において散文において新しい發足をしたの[br]
みならず、又戯曲において歌をすてた對話の形式が採用され、詩において口語の自由[br]
詩が燎原の火と燃えたこと、極めて著しい事實である。それは全く國内の革新運動[br]
と表裏をなすもので、社會の変革が成就するまでは、何れの運動も相當の摩[br]
擦や犠牲を免れず、古典主義者たちの空疏な反對論がいたづらに古典の●列に新[br]
しい花輪を添へたやうな事實がいくたびか報告された。そして、かの文学革命は所期の目[br]
的を完全に果した。[br][brm]
しかし、この目的は単に漢民族自体の自覺といふことにあった。もとより、これが先決問題で[br]

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あること疑ひもないが、革命以後三十年にして、もっと偉大なる大東亜宣言といふものが發[br]
せられた。これは、漢民族も亦大東亜の一員として考へ、立ち、而して戦ふことを示したもので、[br]
今日以後の漢民族は、単に自己の覺醒なり補匡なりに力めるばかりでなく、大東亜民[br]
族の興隆のためにその文藝の面をも擔任しなければならなくなった。このことは、漢民族の如[br]
き永き殻を持ったものにとって最も困難なるしごとの一つに相違ない。自分の殻を[br]
守ることに長け、他人の、否全体のために身を捨つる勇に乏しい民族にとって、大東[br]
亜文藝の精神が徹底するのは果していつのことか。これには、日本も支那も非常な[br]
努力と忍耐とを負擔しなければならない。しかしこれが支那の試金石であり、支那[br]
民族の試煉である。われわれは支那の過去のみを追ふべきでなく、支那の将来を指導[br]
するには如何にすべきかといふ生きた問題が待ってゐる。そのためには支那の歴史を知るこ[br]
とも極めて重要であり、支那文藝の時代性についても明きらかな展望を得ておかね[br]
ばならないが、歴史は過去に重点があるのではない、現代に重点をおかねばならないことを[br]
忘れてはならないのである。[br][brm]

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支那の文藝は他の外國と同じく韻文に本づいたこと云ふまでもないが、その韻文の最も古いも[br]
のと云はれる詩三百篇は、いかなる世にいかなる人によって編輯されたか、もとより詳かでないが、[br]
恐らくはその編輯にあづかった人の手に成るかと思はれる。全書の序文――世にいはゆる[br]
大序なるものは、極めて興味ある文献である。即ち、[br]
詩者志之所之也。在心爲志、發言爲詩。情動於中而形於言、言之不足、故[br]
嗟歎之。嗟歎之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈[br]
之也。[br]
とあって、その表現は極めて素朴であり、而かも藝術的音樂的であり、まさしく詩の序たる[br]
にふさはしいものであるが、その内容は恐らく近代の文學論を壓縮してもこれ以上に出[br]
づることはちょっとむつかしいとさへ考へられる。元来、詩といひ志といひ之といふは、みな同じ[br]
種類のひゞきを持ったことばで、近代の音韻学者の研究によっても、これらは古代まで一つの[br]
音韻類型に属してゐたさうであり、現在の文字を見ても、志の上半や、詩の右旁の[br]
上半は即ち之の字であって、これが音を示すとともに大体における概念をおさへてゐるも[br]

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のである。之といふ文字は、草が萌え出づることを示し、その音は、ある障礙物を押し切って[br]
突き出る時のひゞきを含んでゐる。これが人の心から發するときは志となるであらうし、[br]
さらにこれを言に發すれば詩となるであらう。すべて發洩する所に文學文藝の根本精[br]
神をおいたものである。而かも草が萌え出づるのは、冬の寒さがすぎて春のあたゝかさが蘇[br]
るとき、あの堅い土を破って柔い小さい緑の芽が首をさし出すのである。これは決してやさ[br]
しいしごとではない。人が生まれる時、その十月の間育まれた胎内を出づるのも苦痛[br]
であると云はれる。何等の負擔なくして自然に流れるものが發洩ではなくして、非常な[br]
困難に打ち克って新しき生命を伸ばさんとする時、そこに真の發洩といふものがあ[br]
る。之といふ概念はまさにこれを意味する。したがって、そこに緊張があり、緊張の[br]
後には快感を伴ふべきものである。志といふものも、人の精神が散漫である時に[br]
生ずべきでなく、ある外界の刺戟によって精神が緊張し凝固してきたものであり、[br]
その凝固した尖端が、ある方●を捕へることによって外界にその姿を現はすのが[br]
その發洩であり、これが人類においては口腔にある機関を利用して言語となるの[br]

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である。元来、人間の口腔には言語を目的とするための機関といふものは存在しないといはれる。[br]
從って、言語は既成の機関を巧みに利用した最も後天といふべき複雑な運動であ[br]
る。それだけ言語における表現は極めて困難であり、この困難を突破する所に詩[br]
の意義が存在する。それは、同じ口腔の機関を飯を食ふために働かすのはちゃうど[br]
胃が年中無意識に消化に努めてゐるほど簡単なことで、何人といへども同様であ[br]
るが、言語においては、その後天性のため、決して同じ様式とは限らず、民族や人種に[br]
よる大きな区別はさておくとしても、同じ人が同じ刺戟に對して、いかにせばこれを適切[br]
に表現するかといふ點において、非常な苦心を費さねばならない。そして、それが最も適[br]
切なる表現を發見したのが詩であり、そこに一つの發洩は完成するわけである。しかるに、[br]
その發洩に用ひた方法が複雑にして巧妙なる時、人間の精神作用の一つの特色とし[br]
て、常に同一の緊張状態を保つことができず、ちゃうど呼吸作用の如く、又睡眠を[br]
必要とする如く、常に一張一弛をくりかへさねばならない。言語も亦人間の精神作用[br]
である以上、かゝる約束を受くべきであり、又かゝる約束をさへ巧みに利用する所にその表[br]

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現における重要作用が認められるわけであって、單に音節が機械的に排列されてゐる以外[br]
に、その音節相互の間の関係が極めて重要になってくるのである。もとより音節各自の[br]
高低長短も重要ではあるが、さらに重要ともいふべきは、甲の音節と乙の音節とが[br]
その負擔する概念の強弱に應じて一定のリズムを持たねばならぬことである。このリ[br]
ズムの作用が人の發聲機関に関するかぎりは、嗟歎であり永歌であるが、さらにその[br]
助けを手足の如き運動機関に擴張したのが、手の舞ひ足の蹈むを知らざるものであ[br]
る。これはひとり詩歌の定義としてでなしに、一般に文学の定義として極めて適切なるも[br]
のがあると信ずる。[br][brm]
然らば文学とは、苟くも人にしてある刺戟を蒙るかぎり、ちゃうど常に外氣にふける皮[br]
膚はかなりの寒さにも耐えられるほど厚くなる如く、人の精神の凝固と發洩とを意味[br]
する一種の自然なる作用といふことになる故に、かくの如き見地より文学を論ずるものを[br]
言志派と称する。この派の人たちは、文学とは単にかゝる發洩を以て目的とし、その他の目[br]
的を持たない、或は持ってはならないと主張する。周作人氏の説を用ひれば、冬の挨拶に「[br]

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今天真冷」といったからといって相手から錢を借りて衣裳を作らうといふ根膽を持[br]
つのではなく、たゞ單純に自分の感覺を云っただけのものである。▲▲▲▲[br][brm]
しかるに、かくの如き言志派が成立するといふことは、逆にその反對に立つ載道派といふもの[br]
の存在を証明するものである。載道といふことばは、周濂溪通書文辭の文所以載道也、輪轅飾而人[br]
弗庸、徒飾也、况虚車乎に本づくと云はれる。周子の考へは、その下文にも見ゆる如く、文[br]
辭は藝であり、道徳は實である、道徳を努めずして文辞を以て能とするものは藝にす[br]
ぎぬと云ってゐるとほり、純乎たる道學者の言である。それ故、朱子も車は物をのせるも[br]
のであるが、その輪轅を飾るのは人が愛して用ひんことを希望するからであると云っ[br]
てゐる。從って、もし道を載せない文ならば文の用をなさない、荷物を載せない車は車[br]
の用をなさないと云ふわけであるが、しかし、通書の中にも特に文辭といふ章を設けて[br]
をり、又「言之無文、行之不遠」の語を引いてゐるところを見れば、文辭無用論でな[br]
く、文についても相當な敬意を拂ってゐることは當然である。して見れば、問題はむ[br]
しろ道とは何ぞやと云ふことになる。この点について想ひ出されるのは、胡適が[wr]文学改[br]

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良芻議[/wr]を發表した時、最初にいはゆる八事をあげた、その第一は、須言之有物とい[br]
ふことであった。そして、その説明に、わが國近世文学の大缺点は言之無物といふことであ[br]
る、今の人はたゞ「言之無文、行之不遠」といふことだけを知って、言之無物ならば文を用[br]
ひる必要がないことを知らぬといったあたり、ひょっとすると周子の文以載物の説に[br]
近づく氣味を感ぜられるが、さすがに胡氏のことで、忽ち語頭を轉じ、自分の所[br]
謂「物」とは古人の所謂「文以載道」にあたるのではなく、自分の「物」に含まれ[br]
るものは情感と思想とである、その情感とは前に引いた詩の大序のいふ所の[br]
ものでこれが文學の魂である、文學にして情感がなければ人にして魂なきが如く、[br]
たゞ木偶であり行尸走肉であるにすぎない、又思想とは見地・識力・理想の三[br]
者を兼ねたもので、思想は必ず文學によって傳はるわけでないが、文學は思想があ[br]
るためにいよいよ貴く、思想は文學的価値があるがためにますます貴い。これが荘周[br]
の文・淵明老杜の詩・稼軒の詞・施耐庵の小説が千古に冠絶する所以である、[br]
思想の文学におけるはあたかも腦髓の人身におけるやうなもので、人が思想で[br]