講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
も、その頭の中を整理して見たら、驚くほど多数の舊小説がしまひこまれてゐることが發見[br]
されるであらう。それ故、たとへば胡適と銭玄同とが討論した舊小説の得失の如き、実に詳[br]
密を極めたもので、胡適が聊齋志異を攻撃したに對し、銭玄同は全然とる所がないわ[br]
けでもないと云ひ、銭玄同がはじめ西遊記を封神演義の列においたのを、胡適は[br]
世界の神話小説にもない妙味があるといって、銭玄同がこれに賛同したり、胡適が、三國志[br]
は婦人女子まで曹孟徳を恨ましめるだけの魔力があるといふに對し、銭玄同はそれだ[br]
からいかんと抗議し、その他、官場現形記二十年目睹之怪現状をあげて▲海花を[br]
貶したりした説や、金瓶梅は第一流、品花寳鑑や鏡花縁は第二流だといふ品評の如[br]
き、実に手のこんだもので、ちゃうど相撲や野球の番づけに熱中してゐるファンと同じで、新[br]
文學を鼓吹してゐる先生たちが如何に舊小説に血の道をあげてゐるかゞわかる。むかしの[br]
支那の讀書人は翰林にも入り、四六文を手もなく書くであらうが、話がもし紅樓夢に至[br]
れば、手の舞ひ足のふむを知らずに語ってやまないといふ姿が、洋服をきて英語を自由に[br]
しゃべる支那の青年の中にも倒影されてゐたと見ても好い。[br][brm]
これに伴ふ重要な現象は、舊小説に通行されてゐた白話が、その小説にのって全國的にひ[br]
ろまってゐたことで、なるほど文言は支那におけるエスペラントであるといへるが、白話も亦[br]
然りであって、何も文言だけが統一してゐたわけでない。文言は統一してゐるとは云へ、目で見る[br]
だけのものであって、それを讀むに就ての發音はやはり各地方まちまちであった。白話もこ[br]
れを讀む人の郷貫によってそれぞれの發音に異同はあるが、それに標準の國語の規定によ[br]
ってわづかな轉移さへ加へれば、直ちに國語の話しことばに轉入できる。しかも、その準備は[br]
文言教育の如き強迫によるのではなくして、やめようにもやめられない小説耽讀の間に養[br]
はれたものであるから、新しい小説の用語がかゝる白話を基底に持つ以上、その用具上[br]
の準備工作は早くも数百年前から行はれてゐたと云ふことができる。胡適のことばにも、自[br]
分の十五になる姪兒はずっと徽州にゐてよそへ出たことがないのだが、今年白話で手[br]
紙を書いてきたがなかなかよく書けてゐる、徽州語と官話とは非常に違ふのに、姪兒は[br]
白話小説を讀んだだけで白話の文章が書けた、と云ってゐるとほり、その浸潤の力は決[br]
して侮りがたいものがあるのである。[br][brm]
かく云へば、舊小説が直ちに新しい小説に鞍がへできるやうに思はれるが、かの魯迅が新青[br]
年に於て狂人日記を發表した時、支那の青年の驚きが非常に大きかったことは、決して[br]
この二つの間●簡単な連絡ができない状態にあったことがわかる。それは、文學革命の実績[br]
として、又表現の深切と格式の特別によって讀者を激動したものであるが、魯迅自[br]
身はその激動をば、欧洲大陸文學の紹介を怠ってゐたからだといひ、さらに、一八三四年[br]
ごろにロシアのゴーゴリは狂人日記を書いてゐるし、一八八三年ごろにニーチェはザラートス[br]
トラの口をかりて、「君たちは虫けらから人間への路を歩んだ。君たちの中には幾多の[br]
虫けらが残ってゐる。君たちは猿だったから今になっても人間は特に猿だ。しかもどん[br]
な猿よりも一層」といってをり、薬のをはりには明きらかにアンドレフ式のつめたさを残[br]
してをる▲▲▲▲といってをるとほり、西洋文學が染みこんだ点に大きな問題がある。[br]
これまででも林▲をはじめとして多数の西洋文學の翻譯は行はれたが、すべて桐城派式の[br]
古文であり、又蘇曼殊などの創作小説も、精神としては、西洋または西洋を受容した[br]
日本を傳へてゐたこと、その人の血液の如くであらうが、これと白話とがピッタリ融合して一つにな[br]
ったのは、魯迅の狂人日記がその皮きりであった。つまり、これまでは白話とは長篇の舊[br]
小説を書くための工具であり、西洋文化を代表するものは、政論であらうと哲學であらうと[br]
文學であらうとすべて文言の領域であるやうに殆ど無意識の信仰があったに反[br]
し、今や西洋的思想をもった小説が白話によって美ごとに表現されたといふ、一面から[br]
見れば驚くべき、また他の一面から見ればあたりまへなことが達成されたのであった。この[br]
ことは、後に魯迅の創作集「吶喊」がまとまって刊行された時、當時の青年たちが、[br]
その赤い表紙から装釘までをなつかしみ、●●して奪い合ってよみ涙を流したと[br]
いふ記録によっても傍証されるわけであって、如何にも自然なことが、如何にも驚くべき[br]
こととして取りあつかはれたのである。たとへばそれは、文言といふ岸に立つ西洋乃至近代[br]
精神が、白話の岸にある舊小説の地盤と一すぢの橋によって結ばれたやうなもので、[br]
もし白話の岸にある舊小説の高さが近代精神の高さとほゞ相近かったから[br]
こそ、かういふ架橋工事も行はれるわけであって、そこに支那の舊文学に於ける小説[br]
の高さといふものを改めて見なほして好いと思ふ。[br][brm]
しかるにこゝに一つの問題は、支那の古い短篇小説は、京本通俗小説から以後三[br]
言二拍を経て今古奇観に集成されるとともに、俄然その發達を停止してしまった。[br]
然るに新しい小説は短篇より發足した。そして、古い長篇小説は清朝になっても駸[br]
々として發達してやまない。そして、新しい小説は長篇小説とならずして短篇小説となった。[br]
胡適に云はせれば長篇小説と戯曲との發展はおくれてゐる、といふ現象は、どう説明[br]
したら好いか。これは恐らく、両者ともに同じ短篇・長篇といふ名称を用ひてゐることから来[br]
る混戦にすぎないので、支那の短篇小説といふものは高座で語った語りものの範圍を出でず、[br]
つまりは發達を停止せねばならぬ程ある特種の性格を持ってゐた。それは完全なる娯[br]
楽機関― 市民的娯楽に寄生してゐたもので、それがある程度發達すればそのものと[br]
しては極めて面白い― 今よんでも面白いものであるにしても、現代人の心を動かすものではな[br]
く、又、あり得べきこと実際あったことを生々しく描寫したものでもなく、つまりはこしらへ[br]
ものであり、少くともその面白さの大部分は技巧にあって精神にないのであって、この点は、先に[br]
も述べたやうに水滸傳や老残遊記を讀んで胸中の不平をまぎらす氣もちとは[br]
別で、ちゃうど世界お伽噺をよむ位の渺茫たる思ひがする。その間の変化錯雑は[br]
讀者の興味をひくに十分であり、たとひ魔法つかひは現はれないにせよ、現実の有為轉[br]
変はどうなることかと手に汗をにぎらす可能性もあり、その中に含まれたる社會性・[br]
倫理性はもとより結果として善玉榮え悪玉亡びる教へとなるにはなるであらうが、[br]
社會や倫理を積極的に動かす力もなく、個人の針路を指導する意思も[br]
ないものである。したがって、かゝる文藝の榮えた時代は何といっても太平を楽しむこ[br]
ろであって、長篇小説とてその中から生まれ、又娯楽に重点をおいてはゐるが、決して[br]
短篇の如きその場かぎりのものでないことは確かである。それ故、新しい思想との連絡[br]
は短篇とか長篇とかいふ分量の問題によって解かるべきではなくて、その最も發達[br]
した頂点に於て結びつけられて好いことであると思ふ。[br][brm]
しかし、これを結びつけることはやはり別種のものを結ぶのであって、簡単にゆくわけには[br]
行かず、自然結びやすい形に於て結ばれたわけであって、短篇の發達が目ざましいの[br]
に比して長篇がおくれたのは、その間の作者がはの難易が條件であって、本質的の[br]
差があるとは思はれない。では、作者が何故に短篇をやすしとし長篇をかたしとした[br]
かと云へば、當時の小説は、いはゞ教養によって書かれたもので経験によらないことが第一に[br]
考へられる。つまり、その小説の作者たちは概ね専門家ではなくて餘技である。たゞ或る[br]
種の教養、ことに文学に對する訓練が積まれ― 林語堂の云ふやうに、小品散文の[br]
訓練のある人が乘り出して小説を書くといふのがたてまへであったから、勢短篇小説にな[br]
らざるを得ないのである。彼等の多くは、相當の階級に生まれ、どちらかと云へば暮らし[br]
に困らぬ仲間の人であるから、その経験といふものは、身近の雑事か、社會改革の理[br]
想にからんだ事実か、或は魯迅が正直に云ふやうに、ニーチェやアンドレエフの焼き[br]
直し― といはぬまでも、それからヒントを得たものといふことに限られてしまふのである。こ[br]
れは、作者と社會とが極めて狭い面でしか交渉してゐない結果、その狭い面なりで捕[br]
へる題材が結局大きな規模を持ちがたいといふことになるものと思はれ、根本に溯[br]
れば、文藝がまだ真の社會性まで達しがたいといふ嫌ひを多分にもってゐる。それ故、小[br]
説のはじめで、生まれたころは大体身近のスケッチをしたものが[br]
多く、而かもみな都市のインテリ生活を描寫した。●●茅盾がいふ所によると、民國十年[br]
の四・五・六月に發表された小説は一百二十篇あるが、その中で、[br]
男女の恋愛関係が七十餘篇で最多数、[br]
農村生活が八篇しかなく、[br]
都市労働者生活が更に少なくて三篇、[br]
家庭生活が九篇、[br]
学校生活 五篇[br]
一般社會生活小市民生活 約二十篇[br]
その二十篇も大多数は恋愛を中心とし、家庭生活の九篇も男女関係を描いてゐる[br]
ので、つまり男女の恋愛小説が全体の九十八パーセントを占めてゐる。即ち大多数の創[br]
作家は、農村や都市の勞働者生活とはいたく疏遠であり、全般的社會現象には[br]
注意せず、その最も興味を感じてゐるのは恋愛であり、しかも個人主義的享楽の傾向[br]
がいかにもはっきりしてゐるといふのである。さらに、この恋愛小説は結婚の不自由をのべる[br]
か、解決の途なき多角恋愛をのべ、しかもその雙方に共通な缺点は観念化であって、[br]
その人物や思想も同じであり、挙動も同じであり、どこに立ってどういふことをいふまでが同じで[br]
ある。そして、この恋愛小説の主人公は作者自身か乃至はその最も親しい友人であってさへ、[br]
紙に現れると観念化する。まして農村生活や都市勞働者の生活を描いたものでは、そ[br]
の観念化が一層烈しいといふ。[br][brm]
以上の議論は、自分でも後から苛刻かも知れないといふが、私は、その観念化の烈しい原因の一つ[br]
はやはり文字の関係にもよるものであらうと思ふ。つまり、漢字とは元来概念を観念[br]
化したものであって、それを使用してゆくかぎり、普通の技巧では観念化するのがあたりまへで[br]
ある。從来の支那文藝は、韻文ことに詩に於てかゝる観念的文学の特長を捕へて、[br]
あの一種独特の境界を生んだのであるが、それだけ各人の個性を發揮したい場合には[br]
むしろ非常に不利な立場にあって、常にいはゞ重ね寫真みたいなピントの合はない――[br]
誰にも合ったものが映りやすい。これは、あれだけ漢字が多いにも拘らず免れないことで、む[br]
しろあまりに多すぎ性格がきまりすぎて、紙にうつす時になるとどうしても一定の格[br]
か枠かに一人でにしめつけられてしまふと云ふなやみを持つものである。これをもし拔け出る[br]
人物があれば、一面はその経験に物を云はさねばならず、一面はその文字から離れてことばに[br]
立脚せねばならぬ。この二つは、一つは支那の社會の枠につかへ、一つは漢字の枠につかへてな[br]
かなか容易でないのであって、社會の扉がわづかにひらかれた隙をとらへてスケッチするこ[br]
とはなほ可能であるが、全社會と決死にとりくんで、しかも尨大なる分量の漢字[br]
を駆使して生きたことばの文学をくみたてるといふ長篇小説がなかなか書きにくいわ[br]
けである。[br][brm]
しかし、胡適が長篇の起らぬことを嘆いた後、茅盾の子夜とか、蝕三部作(■[br]
■■■)とか、巴金の家・春・秋の三部作の如き長篇が次第に發表されたこと[br]
は、支那の文壇もたゞ停滞のみをつゞけるものでないことを物語るものであるが、さて、これらの[br]
作が果して全社會とあひてどっと戰ひをいどんでゐるかと云ふに、必ずしもさうはいかぬ。尤も[br]
茅盾が自身一時共産化せんとした地方都市に身をもって体験した■■の記録[br]
や、巴金の舊家庭に対する反抗の精神などは、われわれにも共感できる所である[br]
が、惜むらくは、巴金のばあひは瑣末なことがあまりに多くて日記をくるが如く、茅盾の[br]