講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
陽空同[/wr]の限韻贈黄子の律に、[br]
禁烟春日紫烟重、子昔為雲我作龍、有酒毎邀東省月、[br]
退朝曾對掖門松、十年放逐同梁苑、中夜悲歌泣孝宗、[br]
老体幸強黄犢健、柳吟花醉莫辞従[br]
とあり、徐昌穀禎卿には寄献吉の律があって、[br]
汝放金鷄別帝卿、何如李白在潯陽、日暮經過燕市曲、[br]
解裘同酔酒風傍、徘徊桂樹凉風發、仰視明河秋夜長、[br]
此去梁園逢雨雷、知予遥度赤城梁[br]
とあるが、李は少陵により徐は青蓮によるが、李は青蓮の長篇の法を得、徐は雀[br]
沈の琢句の法を得てゐて本朝七言律の翹楚といふべきであるが、どういふものか誰も[br]
これを選ばず、李于麟も選びのこしてゐるといってゐるし、その次には、國朝で杜を習ふもの[br]
数家ある中、華容孫宜は杜の肉を得、東郡の謝榛は杜の貌を得、華州の王[br]
維▲は杜の一支を得、▲州の鄭善夫は杜の骨を得たが、みなたゞその一[br]
つづゝに就て近似せるのみ、たゞ李夢陽だけは体を具えて微であるといふ。その批評の[br]
當否よりもわれわれが注意したいのは批評家の態度であって、すべて古の何某に似て[br]
ゐることを説き、しかもいよいよ近似すればいよいよ優れりとする批評は、ちゃうど書を[br]
習ふものが欧陽詢や顔真卿の帖を臨書して少しでもその筆意に違ふまいとす[br]
るやうなもので、藝苑▲言の作者が習杜といふ表現を用ひた意味はかうして始め[br]
て理會できる。しかるに、欧陽や顔公の帖を臨する人は、如何に克明に學んで見た所[br]
で原の筆意が完全に出るものではない。或は元来の筆と違った筆を用ひて[br]
原の筆意を出さうとする方が誤りである。かくして欧陽や顔公に似たものを書く[br]
ことに畢生の力を注ぎ、しかも大抵はその範圍の中にちゞまって動けない。詩に於[br]
ても、李白や杜甫を習ふとすれば必ずやその範圍の中にちゞまって、どうしたら似るか[br]
とばかり手本を見て手習ひする格好になって、而かもこれは全く同じ句を使ふこと[br]
は許されないので、ちゃうど手本の幾分づゝが習ふ人の筆に出るやうに、ある句なり[br]
文字なりが少しづゝ李白や杜甫に似てくる。といふことは、悪く云へば後人が先輩の[br]
句をむしって自分の句を作ることになる。その意味で、李夢陽が一番杜甫に似てゐる[br]
といふのは、一番よくむしって自分のからだにくつけたことであり、しかも具体而微とい[br]
はれるとほり小がらになってしまふのである。尤もこの藝當は明に始まったわけでなく、宋の[br]
始めに西崑体の流行した時にさういふ作が盛に行はれた。そのことは劉▲の中山詩話に、[br]
祥符・天禧中、揚大年徳・錢文僖惟演・晏元献殊・劉子儀●が文章を以て朝[br]
に立ったが、その詩はすべて李義山を宗とした、そこで後進のものは多く義山の語句を竊んだ、とこ[br]
ろがある時内宴のをり俳優が李義山に扮して登場したがきものはすっかり破れ裂けてゐた、[br]
そして太郎冠者に向っていふには、みどもは館職たちにむしられてこんなになりやしたといった[br]
ので、皆がわっといって喝采したと見えてゐる。西崑体とは李義山の詩風を学んだもの[br]
であるが、義山の詩はきはめて幻想的であって美しい名辞や表現を細かく織りあげた[br]
ため極めて美しい模様をなしてゐるが、さてその一々の模様はどこからどうつゞくかなかなかわ[br]
からない。從ってかういふ物ほどこれをバラバラに切って少し巧みに貼りまぜるともとのものとは[br]
違った美しい模様となる。美しいには美しいが、模様の意味がどう續くかは指定され[br]
てゐないのみならず、本人にさへ果してたしかな説明がつくかどうかわからない。さういふ意味で[br]
は盛唐の詩も幻想的な所が多く、ことに律詩の如きは今体詩でありながらその成立[br]
には從来の四六文や賦の影響が多かったであらうから、すべて観念的な句をぶつけて一つの[br]
雰圍氣を出さうとし、あまり助字を使用せず、●實せる概念を繪巻き物の如くず[br]
るずると●げるのである。したがってこれを切りとって美しい貼りまぜ屏風を作ることは、[br]
少し小器用な人なら相當できる道理であり、唐詩の模擬がさかんに行はれたことも[br]
十分うなづけると思ふ。[br][brm]
しかるに最も重要なことは、かゝる方法で作られる文藝作品は要するにある型を守[br]
ることであり、その型以上に出まいとすることでもある。ちゃうど成長しきった大人の如く、た[br]
ゞ消費した營養を補匡するだけでこの上に伸びようとしない。それはやがてその持[br]
續をさへ失はむとするもので、文化全体から見て停滞的な現象がそこに現はれ、文芸[br]
から云っても実は衰頽の道を辿ってゐるとしか考へられない。たとへを病人にとれば、既[br]
に營養を吸収できなくなった病人がなほも生命を持續してゐるのは、たゞ自分の[br]
身体を自分で食ってゆくだけであり、これが生命を持續せしめる筈はない。しかも[br]
なほ一つの延命の方法は注射である。その注射はいろいろな方法で試みられてゐる。[br]
といふのは、李何の七子・李王の七子が古文辞を以て自家中毒をおこした時、これ[br]
に對する注射は袁中郎兄弟の清新軽俊であった。蓋し古文辞派は格調を[br]
重んじたが故に多くは一定の型にはめられ、時代は新しく人の心は新しいにも係らず古[br]
人の調子を出さうとするもので、それは一種の装飾として荘厳でないとは云へないが、結[br]
局は装飾にすぎず、表面にかぶされた天麩羅といふに近い。葉紹鈞の小説倪煥[br]
之の中に、作者が支那の文化を以て虚偽と淺薄だといって罵ってゐる。つまり、内容を[br]
掘りかへすことなしに表面にだけ別のものをかぶしたのであるから虚偽ともいへようし淺[br]
薄とも云へよう。それを古の人は膚廓といふことばを使った。たゞ上っつらの淺いところが膚[br]
であらうし、大きさうな格好だけで中ががらん洞なのが廓であらう。さういった文藝はその[br]
極に達して膚廓の病が發露してしまった。それにはそれに應ずべき薬を注射[br]
せねばならない。その藥品として考へられるものは、その病の特長を醫やすべきものとして[br]
膚廓の二字を解決してゆく外はない。膚とは表面であるから、内容からこれを出し[br]
てゆかねばならない。廓とは格好を作ることであるから、思ひきってざっくばらんにならねばな[br]
らない。かうして清新軽俊といふ合ひことばを生じたのである。宋の楊●●も、從来[br]
天分の低拙な人は好んで格調を談じて風趣を解しない、それは格調が空架子で腔[br]
口の描きやすいものがあるに反し、風趣は専ら性霊を寫し天才でなければできない[br]
といってゐるとほり、膚廓の詩は様子を作り…ばりといふ所を目標にしてゐるた[br]
め、虎を描いて猫に類することはできるが、性霊の詩は臨画ではなくて自由画で[br]
あるだけその才なくしては描けないことたしかである。それ故、李王の末流にできな[br]
い藝當が三袁兄弟によって試みられたわけである。しかるに三袁の性霊は必ず[br]
しも自分の性霊ではなくて、中晩唐乃至宋元詩の性霊であった。故に、その與丘[br]
長孺書にも、初盛中晩にそれぞれ詩がある、初盛のみには限らない、李杜王岑錢[br]
劉より元白盧鄭までそれぞれ詩がある、李杜にのみ限らないといって、李王の[br]
七子の専ら李杜を襲うたことを打ってゐる。とともにその詩は李杜の反動と[br]
して出た中晩以後の詩を學んだに外ならぬ。たゞ性霊派に取る所は、その氣分を[br]
出してその辞句を襲はなかった点で、これが最近周作人先生等の提倡によってそ[br]
の小品文が一時の流行となった原因であらう。[br][brm]
しかるに、三袁の詩文は架子を打ちこはしただけであって、軽快な手がるな小ぎれいな所[br]
がねらひであった。といふことはその作が小品文として一般に承認されてゐるのでもわかる通り[br]
であって、主に身辺の雑事にとゞまり気格はあまり大きくない。これがために纖巧のそしりを[br]
免かれないやうになった。こゝにその一黨の人物として近年俄に名を知られた張岱をあげる[br]
と、張岱には陶庵夢憶といふ小品集があって、兪平伯氏が恐らく周作人先生の影響[br]
により沈啓先などと新に排印したものであるが、たとへばその湖心亭看雪に[br]
崇禎五年十二月、余住(在)西湖、大雪三日、湖中人鳥聲倶絶、是日更定[br]
矣。余拏一小舟、擁毳衣爐火、独往湖心亭看雪。霧淞▲▲、天与[br]
雪與山與水、上下一白、湖上影子、惟長堤一痕、湖心亭一点、與余舟[br]
一芥、舟中人両三粒而已。到亭上、有両人鋪氈對坐、一童子焼酒罐[br]
正沸、見余大驚、喜曰湖上焉得更有此人、拉與同飲、余強飲三大[br]
白而別、問其姓氏、是金陵人客此、及下船、舟子喃々曰、莫説相公癡、[br]
更有癡似相公者。[br]
とあるが如きは極めて面白い文章で、所謂愛玩措くに忍びずといふ所である。その最も[br]
面白いのは、西湖がすべて白一色に塗りこめられた中に長堤がさっと線をひき湖心亭が[br]
點となり舟が芥であり人が粒であるといふ実に氣のきいた表現であるが、さらにそ[br]
の物わびしさの中から別に湖心亭に先客があったといふ意外の人物を點出し、さらに[br]
船頭が旦那さんよりもっと阿呆な方もござったと感心した所で突っ放したのはさす[br]
がといふ氣がする。されば兪平伯の評にも、その人は華▲に生長して終篇着一毫[br]
寒儉不得であるが、かくも放恣でありながら鍼芥の微まで低徊体玩せぬ所はな[br]
いと云って、世にも果報なすきしゃの文藝であるから世にこれを名士派といふ。すべてこの派の[br]
人の詩人は垢ぬけのしたものであり玄人の域に入ったもので、茶人趣味であり文人の遊戯[br]
でもある。從って所謂礼法に束縛され常理に捕へられたやうな生活はその屑しとせぬ[br]
所であり、凡俗から癡と笑はれることを自分の誇りとしてゐた。そこに作者の個[br]
性の發揮があることは近代の文学論と一致する所で、さてこそ周先生も、「現代の散文[br]
は新文学の中で外國の影響を受けることが最も少ない。これは文学革命といふよりは[br]
文藝復興の産物といふべきである。文学發達の途上では、復興と革命とは同[br]
様に進展するが、理学と古文とのまだ全盛にならぬ頃、●●の散文はすでに相當[br]
の發達を遂げたが、學士大夫の眼から見れば重んずるに足らずとされた。その明●の名[br]
士派の文章をよむと、現代文の情趣と殆ど一致する」といはれてゐるが、たしかに支那の文[br]
字遊戯の尤もなるものであって、現代の散文が一番外國の影響を受けず、自然最も[br]
支那的な進歩の頂点に立つものとして承認されるとともに、それがやはり茶人趣味に[br]
低回してゐることは争はれない。それにはやはり明末の散文家の如き個性が十分に認めら[br]
れ、民國廿三年、雜誌人間世の創刊された時、その發刊詞に、[br]
十四年来、中國現代文学唯一の成功は小品文の成功である。創作小説にはたとひ佳[br]
作があっても、やはり小品散文の訓練から来たものである。つまり、小品文は議論を發揮も[br]
できるし、衷情を暢洩もできるし、人情を▲繪もできるし、世故を形容もできるし、[br]
瑣屑を剳記することもできるし、本範圍がなく、たゞ自分[br]
を中心とし間適を格調とした所、各体と同じからず、西方文学に所謂個人筆調[br]
である。[br]
といってゐる如く、まさしく個性を重しとしたものに相違なく、この点は格調派の模擬[br]
と最も正反對の立ち場にあり、近世に至って七子の書がほとんど湮滅に帰したことも、正にその[br]
傾向を語るものである。たとへば李空同の如き、明の中葉より末にかけて、その版本は至って[br]
多く、今見る所でも数種に上ってゐるが、一たび清朝に入ると、その作品は全く影を[br]
ひそめ、わづかに乾隆ごろ桑調元の選本たゞ一つあるのみであるといふことを見ても、単[br]
に明代の風氣と云はず、模擬文学の末路の如何なるものかを知ることができる。[br]
しかも、その反面に、個人筆調を重視した小品文系統も、たとひその範圍は無限とは[br]
云へ、自ら一種の茶人趣味を離れない以上、その論ずる所は経世済民の大にも[br]
及ぶかも知れないが、到底天地正大の氣象を含むとはいへず、結局四疊半の氣焔に[br]