講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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假に詩經をとって見るとき、たとへば▲風の、[br]
相鼠有皮、人而無儀、人而無儀、不死何為、[br]
相鼠有歯、人而無止、人而無止、不死何俟、[br]
相鼠有体、人而無礼、人而無礼、胡不▲死、[br]
といふやうな詩を始めて讀んだ時、余はその何の意たるを解しなかった。それほど純朴であ[br]
り簡単であり幼稚であるといっても差支ない。或は現代人に理解されがたき何物[br]
か乃至は現代までに失はれた背景の力があったかも知れないが、少くとも、これだけの文[br]
字の形で殘された死骸を見た時、これに恋を感ずるといへばたしかに変態に相違ない。[br]
尤もこの詩は今日に傳はる文字を介してさへ音韻の調子が極めて滑らかである[br]
ことは十分感ぜられるが、余が始めてこの詩を讀んだ時の如く、さういふことを知らず[br]
して先儒の國字解を通して意味を解かれただけでは、むしろ顔をそむけざる[br]
を得なかったのである。これは勿論最も甚しい場あひであるが、とにかく古典文学[br]
は要するに古典文学であり、たとひその●列はいかに華やかであっても棺の中にある[br]

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ものは遺骸にすぎない。つまり、これを現代の面に倒影してこそ始めてその意義を見出される[br]
のであって、足が現代についてゐるものとは話が違ふのである。しかるに、あらゆる點において見[br]
られることではあるが、ある安定点に達すると、足が地についてゐなくともそれが地をふまへ[br]
てゐるやうな錯覺をおこし、自分の影が地に映じてゐるのを見て直ちに自分が地に在り[br]
と考へ、そこに遊離のあることを忘却する虞が十分に發生する。古典文学の足も[br]
とが急にさらはれるのは正にその弱点あってのことである。その証據に詩經の如き四言の[br]
韻文は詩經三百篇を除いて後世の文藝史上さらに活躍したことがない。もとより、[br]
近い頃までの支那人の詩集に四言詩の若干はのせられてゐるが、全く影の薄い[br]
存在にすぎない。[br][brm]
その四言詩に変ったものは、漢から六朝にかけて盛に行はれた五言詩であって、當時の詩[br]
とさへ云へば五言に統一されてゐたことは、文選や玉臺新詠の如き當時の文藝集を[br]
見れば直に認められることで、かの古詩十九首の如き古典文学の尤と称すべきものがその[br]
代表でもあり又その標准でもあったが、支那の詩形が整然と同数の文字即音節を[br]

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排列するかぎり、六言といふものは發達せずして七言に躍りあがった。その詳しき詩形[br]
の問題は後に譲るとして、支那の詩形のある條件のもとに於て七言は最高峯であっ[br]
たと云へる。それだけ唐の詩壇の盛况といふものを察知できるわけであって、これだけの舞[br]
臺が與へられた以上、そこに技を競ふ俳優の出現も十分に期待されることであり、ちゃう[br]
ど唐の文化が一時に冠絶した如きものと符節を合した。しかし、その唐の治世も玄[br]
宗を境としてふたゝび亂に陷れるが如く、詩の殿堂もやがては形式化して精神を失は[br]
むとすることになった。[br][brm]
唐の文化は六朝の承継者として、而かも當時の世界文明を吸收した意味に於て、支那に[br]
於ける空前の時代と云へるが、その文化を經營したものは六朝以来の貴族社會であり、[br]
それが唐の王室を擁して文化――文藝の采配を振ったのであり、九品中正といふ如き制[br]
度が唐の文化の中心に寄生してゐるかぎり、唐の詩壇も亦貴族文学の精華[br]
といふことができる。しかし、試みに白楽天の歌行、ことに有名な長恨歌・琵琶行の如き當[br]
時の歌妓がこれを暗誦したことを誇ってゐたくらゐであるから、少くとも前代の作品に比べて低い階[br]

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級まで浸潤したことは明かである。もとより支那の長篇叙事詩には、なほ古くは孔雀東南飛の[br]
如き五言の長篇の玉臺新詠に收められてゐるが、これは作者の氏名を傳へてゐないものであり、れ[br]
っきとした作者が作った長篇叙事詩としては正に白楽天から指を屈すべきであらうが、して[br]
見れば、教養のある作者が比較的教養の乏しい讀者を對象として物を書くといふことは、正[br]
にこの頃が一つのエポックと見てよいわけで、比較的教養の乏しい所までその對象を擴張すると[br]
き、量から云って相當な膨脹を意味するものであり、ちゃうど唐一代にして所謂六朝[br]
風の世襲貴族のサークルが破れて、新に當時のインテリ階級が登用されて政権をにぎり、[br]
そのインテリ階級はつまり曾ては微賤であっても經済の膨脹によって次第に水平線上に[br]
浮かびあがった――乃至は水平線が下がって自ら頭を擡げた人たちといふことになる。それ故、唐[br]
の盛時における最もはなやかな文藝は七言律詩であると考へられるが、唐詩選にもある[br]
如く、賈舍人至が早朝大明宮呈両省僚友に於て[br]
銀燭朝天紫陌長、禁城春色暁蒼々、千條弱柳垂青瑣、百囀流鴬[br]
繞建章、剣佩聲隨玉▲歩、衣冠身惹御爐香、共沐恩波鳳地上、[br]

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朝々染翰侍君王[br]
と唱ふれば、王維や杜甫が之に和し、就中杜甫の、[br]
旌旗日暖龍蛇動、宮殿風微燕雀高[br]
の前聯の如き、蘇東坡もこれを七言中の偉麗なるものとして絶賛してゐる位であるが、[br]
この偉麗といふ評語の物語る如くに、かゝる句の整斉たる韻文こそは宮殿樓閣の巍[br]
然たるにふさはしい作品であって、民間の●●を詠じ自然の感情を歌ふに適しないこと[br]
固よりである。まさしくこれらの詩形は中世風といふ特質を持つものといはねばならない。[br][brm]
しかるに、かくの如き詩形のたゞ中にあって最も軽快にして自然に近く、その當時としては明かに現[br]
代的感覺に近かったものは七言絶句であって、宋の詞が唐の七絶から胚胎したと考へられ[br]
ることは、この意味から見ても極めて妥當であらう。而かも詞に詠ぜられる内容は多く男女[br]
の情事や離別哀苦の感動を取ったため、それは唐詩に比べて卑近となり纖弱となってゐ[br]
るが、これこそ近代の詩形にふさはしく、殊に女性的性格に富んだ宋朝とぴったり對應す[br]
る如く感ぜられる。のみならず、その表現形式が文字藝術に重きをおいた中世様式を[br]

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脱却して新に言語藝術に踏みこんだ近世的發達を認むべきであり、かくして宋代とい[br]
ふ特異な朝代に對應すべき詞といふ文藝に獨自の領域を許さねばならなくなる。[br]
とはいへ、宋時代自体の崩壞とともに詞も亦やがて機械化してしまひ、その生氣を失っ[br]
たが、一般に韻文――即ち前代の遺産たる詩をもふくめて――が文言から白話化し、古典から[br]
現代化したことは儼乎たる事實であった。といふのは、宋も亦唐のある意味の延長であり、[br]
詞も亦詩のある意味の延長であって、前代の韻文から取る所があることは、同時に次代の[br]
韻文が十分の發展できぬやう制禦される所以であって、長い歴史による王朝の興亡[br]
の如く、文藝の時代性もこの意味において一時代だけの時代性たることに限らないので[br]
あるとともに、大きな変化は決して一時に現はれつくすものでないこともわかる。[br][brm]
この意味から云へば、支那の歴史における元時代の意義こそ注目すべきものであり、それが[br]
漢民族の文化に犯されない純潔性を保ってゐるだけ、漢民族の●●的缺陷にたいしても、これを補[br]
匡する作用と實力とを具えた、いはゞ天與の好機であった。そして、この短い王朝と表裏した[br]
文藝は實に元曲であって、それ自体韻文を中心とするものではあるが、明きらかなる歌ひ[br]

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ものであり、さらに舞臺の演出を伴ふといふ点に唐詩宋詞に見られない特●をもった。[br]
すでに宋代においても、たとへば欧陽修の如く當時の名臣として國家の聲望を負うた人た[br]
ちが詞を作って纖麗の流を表し、朱熹の如く哲學の大家として一世の輿望を負うた[br]
人たちも口語の駆使を恥としなかったが、元に至っては、曲の作者はほとんど政界・学界に地歩を[br]
持たず、まったく劇作家乃至韻文作家としてその生涯を終った人たちが多い。こゝに最も[br]
近世的な文藝の獨立乃至文学者の専門化が成功しようとしてゐたことは、その文[br]
藝の弾力性ある重大な原因として指摘されることであらうと思ふ。文藝はこゝに至[br]
って餘技ではなくして本職となり、装飾でなくして生活となってきたことが注意されねば[br]
ならない。[br][brm]
明の太祖による革命が八十餘年にして早くも元朝を駆逐したことは、漢民族のために慶賀すべきか否か。[br]
もし元が少くとも清朝ほどの名君を輩出し得たならば、かくも足ばやな退陣はしなかった[br]
らうと思はれるし、漢民族を煉りなほす上にも十分の效果を奏し、さらに大東亜が[br]
そのまゝ世界制覇を実現し得たらうとも夢想されるが、すべては蒙古民族のあまりの[br]

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未開さが祟って、遂にかゝる重要な契機を逸したことは、大東亜民族のため遺憾に堪[br]
へぬことであり、漢民族のためにも實は惜しむべきことであった。あらゆる古典的背景を打[br]
破し、新規まきなほしに現代から口語から出發した元とは反對に、明時代は早速科擧[br]
を再興し、古典を以てその餌とした結果、再び文藝は復古へと、はなはだしきは擬古へと[br]
進んだのであって、すべて文藝は政治家・學者の副業なり装身具なりに化してしまった。[br]
勿論装身具とて時に應じた改良も加へられようし、人造ダイヤが自慢のこともあらうが、[br]
要するに飯の足しになるものではなかった。真の人間性を培ふ力のないものであった。たゞ[br]
し、これまで養成された生活としての文藝も亦一朝にして尽くるものではなく、これらは[br]
在来の韻文から離れた散文――口語散文――小説の形をとって出現したことは非常[br]
なる喜びといはねばならない。かくして小説の文藝としての独占は公認されたのである。もと[br]
よりそれは社會の公認であって、政府の公認ではなかった。それ故、小説は社會を風靡した。[br]
しかしその作者は何人であるか誰も知らないのである。しかし、偉大なる文藝は作者を[br]
棄てて全國に流行した。三國志・水滸傳さらに西遊記・金瓶梅の如きがそれであり、これ[br]

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は政府の公認した文藝を實質的に壓倒してゐたといってよい。その証據には、政府は常[br]
にこれらの小説を目の仇にして、これを禁絶することに力を注いだ。支那の政治家の如き中庸[br]
を得たものが、たとひ看板なりと禁止せんとするところを見れば、むしろその偉力を知るべき[br]
であり、これが真の意味における明乃至清の文藝の時代性を示すものと云へる。[br][brm]
清朝は元と同じく塞外から起こった民族であるが、不幸にしてその天子は古典を尚[br]
ぶことを以て漢民族を懷柔し、幸にして漢民族の人心を收攬したが、そのために却てその民[br]
族自身が漢民族の文化に吸收されて生氣を失ひ、今日ではまったく同化されて、その母國語[br]
さへ失ふといふざまになってしまった。これは大きな意味において清朝の失敗であり、むしろ[br]
元の玉砕にすら及ばないことになると思ふ。かういふ時代はやはり古典主義の横流を見るの[br]
が當然であり、政府の公認した文藝はやはり詩の一途で、詞はその附庸として認められたに[br]
すぎぬが、やはり真に社會の公認した文藝は散文――小説であったことは、清朝を通じた[br]
文藝として紅樓夢・儒林外史の右に出づるものがないことを見ても知ることができよう。そして、[br]
紅樓夢はいくたびか為政者の彈壓を蒙り、あるひは石頭記あるひは金玉縁と[br]

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いくたびか姓名を変じて亡命した革命黨の先鞭をつけてゐる。つまりこれも明以後の文学[br]
に對する不當なる干渉壓迫を排撃せんとする文藝の革命であって、それが[br]
成功しえなかった重要なポイントは、まさに科舉が●力の地位にたって一歩も譲らな[br]
かったからである。少年は小説に非常な魅力を覺えた。しかし、その親たちはそれが科擧[br]
のさまたげとなり、少くとも利とならないが故にこれから遠ざけた。これが不自然なる時代性の[br]
壓迫にあらずして何ぞやである。底流は滾々と流れてゐるが、たゞ表層の上にこれを抑[br]
へんとする力が空しく動いてゐたのである。それだけその害も深刻であり、又反動も大き[br]
いことは覺悟しなければならない。[br][brm]
かうした文藝の時代に應じた自然の發達を妨げてゐた科擧が、遂に時代の反攻に[br]
遭って、光緒▲七年あへなくも自滅した。もとより、その長き道程による最後のねばりは少しの[br]
立ち直りを見せたものの、遂に土俵の外に突き出されてしまったのは、むしろ力負けとさへ見え[br]
るあっけなさであった。かうして科擧が人生のふり出しでなくして學校がこれに代り、西洋の[br]
文藝も物凄い勢で、いはゞ粗製濫造的に卸賣り小賣りがはやった。西洋や日本への[br]