講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
きないとすれば、いかに顔はきれいであっても、泣いたり笑ったり感じたりできても何にもな[br]
らないと云ってゐる。勿論、これらの点から見て、胡氏の説が今日の常識たること明かであ[br]
るが、當時のいはゆる保守的な人の中には、胡氏が自分の「物」と文以載道の道とを[br]
截然として分別したことにあきたらず、かの所謂「道」とは決して胡氏の云[br]
ふ如く浮泛のものではない▲▲▲▲▲、といって抗議してゐる。つまり、道といふのも胡氏の云[br]
ふ物の中に包含さるべき上乗の思想であり、虚渺な空論とは違ふと云ふので[br]
ある。勿論、道といひ物といひ、いづれも抽象的な名詞である以上、お互に縄張り[br]
を争ってもはてしないことであるが、胡氏の一派がかくも道を排斥したのは、從[br]
来の支那の文學者たち――陳独秀をして云はしむれば▲▲▲ 、韓昌黎から[br]
曾國藩までの載道の文は、孔孟以来の極膚淺極空泛の門面語にすぎず、[br]
つまり唐宋八家の文以載道といふのは八股家の代聖賢立言とまったく同じ[br]
鼻いきにすぎないと云ふ。もとより孔孟には孔孟の立言の趣旨もあり主張もあり、[br]
その價値を疑ふのではないが、その末流がまったくこの殻の中に入りこんで、そこを[wr]安全[br]
地帯[/wr]と考へて、何かと云へば孔孟孔孟といふばかりでさっぱり今の時代に生きてゐる人間[br]
の特色がなく、聞くものにとっては番茶の出がらしであることを▲ったのである。こ[br]
れでは、いかに辛抱づよいのが支那人であっても遂に尻を捲くらざるを得なくなるわけ[br]
である。しかも、さういった出がらしが道の守護神を以て任じ、幾多の青少[br]
年はたゞその語氣を▲倣して八股文を作り聖人の代りに述べるといふ稽古ば[br]
かりして、それも型にはまった表現と極端な▲擬思想で、なるほど本人はそれに[br]
よって科擧の難関を打ちやぶり一身の栄華を遂げても、日進月歩の世界の[br]
文運から見れば、甚し無関心・停滞を敢てして顧みない。血の氣の強い青[br]
年たちの不満がかうして勃發したのが文以載道に對する反撥であった。[br]
かゝる反撥は支那の文藝史の妖雲が然らしめたのであって、元来、文以載道そ[br]
のものが、もし胡氏のいはゆる思想を有すべきものといふ條件まで推しひろめら[br]
れてゆくとせば、全然矛盾は起らない道理である。つまり、胡氏の云ふ情感が[br]
言志にあたり、思想が載道にあたるとするならば、この両者の綜合すら可能[br]
となってくるのである。[br][brm]
周作人氏は、中国新文學源流の中で支那の文學は言志載道の二潮流が起伏[br]
してきたもので、[br]
図[br]
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とたがひに弯曲した河流をなし、抵抗にあっては又轉変してゆくと称してゐるのは、たし[br]
かに一つの見かたであり、その説によれば、晩周即ち春秋から戰國にかけては國家[br]
が統一せず強力な政府もなく、社會には道徳の標準もなく、從って文學を統制す[br]
るだけの力あるものもなく、思想が自由に發展したところが言志の第一次である。[br]
漢になると、董仲舒の思想統一によって儒家の思想が全思想界を統一したの[br]
で載道に流れ、司馬遷など少数の人物を除いてはよい文学はなかった。それが[wr]魏晋[br]
六朝[/wr]の紛乱とともに解放され、清談の如きことが流行し、世説新語・洛陽伽藍記・[br]
水經注・顔氏家訓などのすぐれた作品が生れた。唐はまた両漢のやうに社會[br]
的統一が好く保たれて又もや載道の文となり、その代表者たる韓愈は盤谷[br]
序のやうなまづい文章を書いて得意になってゐた。さらに五代になると、言志の道[br]
にかへり詞が起ったが、宋になって政局の安定とともに陸放翁・黄山谷・蘇東坡[br]
も載道の潮流に抵抗できなくなった。元になると曲が起って言志へと進んだ[br]
が、明では前後七子の復古運動が起った。さらに明末には、公安・竟陵の一派、ことに[br]
公安の三袁――宗道・宏道・中道が言志の説を唱へた。[br]
公安派の文章は清新流麗であり、その詩も巧[br]
妙にしてわかりやすく、前後七子のやうに治國平天下を論じなかったが、たゞあまりに[br]
透明で底まで一目で見とほせたのがその弊となり、竟陵派の鍾惺・譚元春[br]
の如く奇僻なわかりにくい文章が現れたわけであるが、再び清朝の乾嘉諸儒[br]
によって打倒された。そして、民國の文學革命はちゃうど公安・竟陵二派と同じ[br]
で、胡適や謝冰心・徐志摩の作品は、ちゃうど公安派の如く清新透明ではあ[br]
るがこくがない。ちゃうど水晶の球みたいなもので、きれいだけれども味がない。ところ[br]
が、兪平伯や●●になるとなかなかわかりにくく、同じく白話で書かれてゐるが、水[br]
晶のやうに透明でなくよっぽど考へないとわからない。たゞこの公安・竟陵と今の文[br]
学革命とが結局どう違ふかと云へば、彼等は十六世紀の人たちで、利瑪竇も[br]
支那に渡ってこない前で西洋思想を缺いてゐた。それ故、現代の人たちの主張から[br]
科学・哲学・文学および思想など各方面について西洋の影響を抹殺したら公[br]
安派と同じになってしまふと云ふのである。[br][brm]
以上、周氏の説明は言志と載道とを左右に使ひわけた巧妙な説明であり、こ[br]
とに最後の公安・竟陵を以て新文学の源流と認めたのは特に面白い説明であるが、[br]
これは専ら散文を中心とした考へかたで、中間に詞や曲をはさんではゐるが、詩ことに[br]
唐詩についてはちゃっと始末に困り、[br]
詩は唐時代に新しく起ったもので、詩の体裁も唐になって七言詩・絶句・[wr]律[br]
詩[/wr]などと増加した。だが、これは當時詩によって人材を登用したからで、詩の試験があ[br]
るから詩人も増加し、作品が多くなれば好い詩も多くなるわけだが、この状態[br]
は結局六朝時代の創作の状態とは違ふ。[br]
と云って逃げてゐるし、五代の詞・元の曲もたゞあげたと云ふだけのことである。して見れば、[br]
韻文を中心にして見ると別の考へかたができて好いのではないか。これが、前に時代性を述[br]
べる時にあげた考へかたの許される理由である。元来、詩乃至韻文といふものは言[br]
志の最もティピカルなものであり、胡氏の云ふ情感の發洩したものであるから、思想[br]
の方はやゝ乏しいことを免れないが、同時にその時代の全般的氣分といふものを代表[br]
しやすいもので、かの一代有一代的文学といふ諺を敷衍すれば、唐詩宋詞元曲[br]
といふ山をなして変動する公式も十分考へられる。つまり、周氏がとった方の態度[br]
は、そのあげた作品が六朝では世説や水經注であり、明末では公安・竟陵で[br]
あることに重点がおかれ、即ち小品文といふものと經世の大文章との差であった。そして、[br]
すべて經世家を載道にかため小品文家を言志にもちあげたわけであるが、こ[br]
れこそ周氏自身が小品文家であるためで、最後の新文学がすべて公安・竟陵の[br]
西洋化なりといふ断定には相當のわりびきが必要である。少くとも新文学の将来[br]
のためにはあまり喜ぶべき指導方針とは考へられない。[br][brm]
元来、言志にしろ載道にしろ、一面は相當違った傾を持つものであるが、もし情[br]
感と理想とを文学の境界とするならば、前述の如く●とる所があり、ことにそれ[br]
らの作者のよって立つ基地が如何なるものであったかによって言志と載道とが適[br]
當に調合されないでもない。即ち、作者が廟堂に立って天下の政を燮理する責[br]
任を負ふ場合、その所謂理想は自ら廣い意味の經世の文学になるであらうし、[br]
もし山林に悠遊し麋鹿とともに朽へる場合ならば、それは陶淵明の如く隠居[br]
して道を楽むといふ思想となるであらうし、自分の理想が現実に入れられずして不平に満[br]
ちた場合ならば、それは司馬遷の如く一つの哲学的世界をその思想とするであら[br]
うし、たとひ直ちに責任はとらぬものの一つの社會人として社會改良にその才筆を[br]
向けたとき、儒林外史の著者の如く現實の忌憚なき描寫を試みるであらうし、[br]
人間の情性に本づいて男女の感情・生活家庭のいきさつを心に刻んだこと紅樓[br]
夢の作者の如くであるならば、あの複雑きはまりなき大家族を通じて赤裸々の人間[br]
を寫さんとするであらう。すべてそれらは思想なくして行はれるものでなく、これを載道と[br]
いふことは不當であるかも知れないが、同時にこれを言志とのみ云ふことも許されない點が[br]
ある。つまりこれらの稀世の文人たちの心に浮かぶものが思想は新鮮にして調子の溌剌たるもので[br]
あってこそ文学として長く後世に傳はるものであり、ちゃうど詩歌を通じて志を[br]
言ふとき、その調子の新鮮にして思想の溌剌たるものがあってこそ後世まで吟詠[br]
されるやうなものである。[br][brm]
さらに民間文藝に至っては、前述の如く(一)風教の維持(二)不満の解消(三)娯楽とい[br]
ふ重要な使命があり、さらに廟堂山林の士大夫文学とは別種の趣きを呈するが、これ亦言[br]
志であり載道であって差支ない。周氏も、むかしの人は水滸を以て誨盗の小説といふが、[br]
その實誨盗どころではなく社會的に多くの危険を減ずるはたらきを持つ、即ち侮辱[br]
や損害をうけたものはすべて復仇を思ふものであるが、もしその人たちが水滸をよめば[br]
それで痛快な心もちになり、自分の仇が梁山泊の英雄に打ち殺されたやうな氣がして復[br]
仇の念も自ら消滅する、紅樓夢また然りといってゐるのは、余が前に述べた所と表[br]
裏するのであって、支那の如き社會において必須の安全期であると云っても過言で[br]
はない。[br][brm]
しかし、文藝は単にさういふ安全辨的存在を以て満足すべきであらうが。もし社會が覺[br]
醒しない時、文藝の力によってこれを覺醒せしめることができたら、それは文藝の非常なる[br]
用途でなければならない。徒らに退嬰的な考によって小品文の世界にたてこもり公安・竟陵[br]
の再来を以て任ずることは、利瑪竇未だ渡米せざる支那の地位と、今日の國際関係き[br]
びしき支那の地位とを混同せるものであって、新文学の使命を単なる言志にのみ局[br]
促せしめむとする錯誤に陷ることになると思ふ。周氏の兄魯迅氏は醫学をおさめたが、[br]
支那の弊は身体にあらずして精神にありといってメスを投げてペンをとった。周氏も亦海[br]
軍に入りつゝ弱小國家の文藝を民族革命の立場から眺めんとした壮年を持ったの[br]
である。胡適落伍し魯迅逝き周氏の韜晦せる今日、文学革命の前途なほ遠きものを思ふ也。[br]
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