講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
うど、文言と白話との関係によく似てゐるのであって、文言は文字と文字との象徴[br]
によって約束されたものであるが、白話は実際に頭の中で進行する論理を進めて[br]
ゆく。それだけ文言には極めて強靭な訓練が書く人にも讀む人にも必要である[br]
が、白話は現代の常識によって述べられるにすきず、それを讀む人も、つ[br]
まりは常識によって解けばよいのである。たゞし現代の常識はむかしの如き簡単なも[br]
のではなく、内容は豐富であり複雑であるから、これを滞りなく他人に傳へるため[br]
の白話だって決して訓練を要しないどころか、むしろ内容があるだけに一層骨が[br]
折れるとも云へよう。その訓練が実に田漢や洪深が心血を注いだ所である。[br][brm]
ことに大きな相違は、古典的戲曲は歌唱を主とすること前述の如くであるが、その[br]
歌はすべて一定の調子で連續してゆくものが幾くみかあって、それをその作者がどれ[br]
かを選ぶといふことはあるが、新しく作るのではない。殊に元曲などは四幕にきまって[br]
ゐて、第一幕は必ず仙呂調の●●●混●龍……といふ一套にきまってゐると[br]
云ってもよい。それほど型にはまったものである。從ってその関目の変化にはさまざまの[br]
技巧を凝らしてゐるが、その主要なる歌――看客ではない聽客がねらってゐ[br]
るもの――は全然傳統であり、劇によって違ふのは文句にすぎず、そのふしまは[br]
しまでも全く同様である。これは新劇のやうに歌のないものでは完全に事情が[br]
違ふが、その違ひかたがやはり傳統をすて型を破った点にあることを注意したい。[br]
舊劇の俳優は生とか旦とかいふ風に一定の専門にわかれてゐて、それぞれの歌[br]
を歌ふ。なかでも元曲では、正末か正旦かがずっと通して歌ふのが常である。しかるに[br]
新劇にはさういふ区別もなく、その劇の内容によって役わりを決定する。舊劇で[br]
は女子に扮するのも男優であって、たとへば崑曲の名優と歌はれる韓世昌の如き[br]
も女形であるが、遺憾ながら容貌があまり美しくないので、とかく小姐の役にはま[br]
らず、一番はまるのは下女の役である。しかるに、一座の総帥で一番歌のうまい[br]
韓世昌が下女になるといふことは厄介なことで、結局この一座の一番よくあてる[br]
のは、下女が尤も活躍する、たとへば西廂記の拷紅といふやうな紅娘が張生と●[br]
々との間をとりもって後で老丈人に發見され打擲される所になって来る、とかういった[br]
ことが起こるのであるが、新劇は自由に婦人を入れて演員にあてるので、そのうれひ[br]
もないわけである。[br][brm]
かくの如く、舊劇は要するに娯楽のために發達したもので、最初は、人君の道ならぬ[br]
ことを諷刺するにも用ひられたが、これといっても、俳優の身分が下賤であるから[br]
何を言ひ何を演じても咎められないといふためであった。これに反し、新劇は思[br]
想を傳播し社會を組織し人生を改善するといふための工具として二〇提倡され[br]
たもので、非常な人物の奇怪な行動なり驚くべき偶然によって男女がめでたく結ば[br]
れるといふやうなことは主題にならない。勿論、新劇の中にも、たとへば郭沫若の三個[br]
叛逆的女性――即ち卓文君・王昭君・聶▲――をモデルとした歴史劇のや[br]
うなものもあって、主題は現代の人物に限らない。しかし、その人物はかうして舞台に[br]
現はれると奇しくも現代人の心を持つのである。たとへば卓文君の如きは、かの程鄭[br]
といふものと結婚したが、後で司馬相如のもとに奔った。それは歴史では極めて不道徳な[br]
こととされてゐる。しかるに、沫若はそれを捕へて、從一而終といふことの不合理を打破して[br]
ゐる。つまり現代人の判断のもとに活きかへってゐるのである。これはちゃうど、同じ沫若[br]
の小説に老子のことを扱った函谷関といふのがあって、老子が青年になって函谷関を出る時に、関令[br]
尹に道徳經五千言を授けたといふ話に題材をとって、老子がふたゝび函谷関に戻ってきたとき、右手[br]
に牛の尾をにぎり、腹がへったから物をくはせてくれと云って、先づ物を食ってから、沙漠まで来て飢渇にたえず、自分の乘って行った牛[br]
を殺して、その血をすゝったやうな非道なことをした、これはその牛の尾だといひ、こんな自分の書いた[br]
道徳經は人を誤るものだからとて、その●●を左のわきにはさみ、右手に牛の尾をにぎって[br]
悠然として東南に去る。後に残された関令尹は、さてはだまされた、あいつは牛をどこか[br]
で賣り拂っておいて、あんなでたらめの話をこしらへて俺の食物をごまかし、又今度は道[br]
徳經をかゝへてどこかの書店で食物をごまかすつもりだなと歯ぎしりする――すべてかう[br]
いふ故事に題材をとりながら、全く思ひもかけぬ現代的な性格を與へて人を驚か[br]
すのは、郭沫若や魯迅がよくやる手ではあるが、かういふ手法は決して懷古的な古[br]
典的な、そして文言的なものではなくして、むしろこれを突き破って出た改新的な現代[br]
的な、そして白話的な精神として考へらるべきである。もとよりそれには、たとへばワルイドの[br]
サロメとかイブセンの人形の家とか西洋の考へかたが非常に多くの場所を占めてゐるであら[br]
うが。[br]
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支那の新文學が比較的長足の進歩を遂げたのは散文と短篇小説だといふのは胡[br]
適のことばであり▲▲▲▲、現代文學唯一の成功は小品文の成功であって、創作小説に[br]
は佳作があっても小品散文の訓練から來たものであるといふのは林語堂のことばである▲[br]
▲▲ が、少なくとも戯曲に比して小説が優位を占めたことは争ふことのできない事[br]
實であった。戯曲の進歩しがたい理由は、前に述べたやうに、過去の訓練からの援助が期[br]
待しがたいといふに在る以上、小説の進歩は必ずや長い過去の訓練――それは書くが[br]
はの訓練もあり、讀むがはの訓練もあらうが――に負うことは、容易に見とほしのきく[br]
ことである。[br][brm]
支那人が小説についての訓練を如何に受けてゐるか、それを歴史に溯って論ずることは今[br]
の課題でないから、詳しくは論じないが、支那の小説がほとんど講談にその●●を求められる[br]
といふ文學史家の研究が示すやうに、この文學は他のすべての文學と違って、口語に基礎[br]
をおいてゐた。もとより講談にもさまざまの種類があって、口語の語りものの間に文語の味[br]
のかゝった歌ひ物をはさんだ場合も多からうが、さういふものは、むしろ戲曲の歌との連関[br]
に於て、次第に吸收されてしまひ、小説として見るときは、その最も進歩したものほど歌ひもの[br]
から遠ざかるといふ結果を生じた。それは明代の小説、たとへば水滸傳・三國志・金瓶梅・[br]
西遊記の如きものと、清朝の小説、紅樓夢ことに儒林外史と比較してはっきり云へること[br]
であるが、明の小説には、韻文を用ひて、人物や風景さては立ちまはりなどを描寫した[br]
部分が多く插入され、恐らくは昔の語りものの時代ならば、一種素樸な樂器と調[br]
子を合はせて、ちゃうど浪花節の聲はりあげるあたりのやうに歌った――または歌ふ[br]
ことを豫想し夢想した部分にあたるのであるが、清朝になると、さういふ時代の習慣[br]
がいつしか蒸溜され、小説として高度の發達を遂げたものは純散文のみとなり、之に反し、[br]
歌ひものは別に彈詞などといって、樂器の彈奏に伴ふ純韻文としてその滓が分離[br]
してしまひ、紅樓夢はまだ若干の場所にさういふ名残りはあるが、儒林外史に至って[br]
は、全くその影響をすてた。この二大小説は、その制作年代に於てほとんど相等しいのであ[br]
るが、この意味から云って、儒林外史は最も發展を遂げた形といって好いと思ふ。從っ[br]
て、清末にあらはれた社會小説老残遊記などは、もとより口語散文を駆使して、かの[br]
名文を醸したわけであるが、儒林外史の作者呉敬梓にしても、老残遊記の作者劉[br]
鶚にしても、一面古典文學に於ける教養もふかく、ことに劉鶚の如きは、考古學的研[br]
究もやり、醫術もおさめ、法律にも通じ、又黄河の水利をも研究して、清朝の将に亡び[br]
むとする時機にあたり、何とかこれを挽回しようと努めた人物で、中にも北清事変の折から、[br]
北京の人民が糧食に窮したのを見かねて、朝廷の許可を待たずして禄米倉をひらいて[br]
人民をにぎはし、かくて自分は流竄の身となり配所に死んだほどの人であったから、その[br]
小説を作るのも、決してたゞの遊戲文学でなく、又大道の藝人の生活のよすがとは大[br]
いに異なってゐた。實に當時の小説は、夙に人間の小説であり生きた小説であった。これ[br]
と云ふのも、その當時身ぢかに迫った外國の壓迫影響が相當な力をもったのであ[br]
らうし、西洋の文學を紹介輸入した人たちの勲勞も沒却はできまいが、支那の教養[br]
そのものが自ら時代の影響をうけて、果を結んだものと考へてもよからうと思ふ。[br][brm]
この劉鶚の老残遊記が一應まとまった以後、その續編が二集として天津日々新聞[br]
に連載された。それはわづかに六回にして中絶してゐるが、その中には女性の問題などが鋭くと[br]
りあつかはれてゐて、見かたによれば正集より面白いと云へるのであるが、その切りぬきが保[br]
存されてゐたので、かの林語堂の人間世に若干掲載され、さらに、人間世や中國新文[br]
學大系などを刊行して一時に賣り出した良友図書公司から、良友文庫の一冊として[br]
出版された。それはつまり、新文学と同じ系統に属するからであり、形式はいかにも第一回第二[br]
回として水滸傳風の對句の題目をかゝげてあるが、精神は早くも新文學の扉をひら[br]
いてゐた。その構想から云っても、老残といふ人間の旅行日記にことよせて、種々の[br]
事件を織りこみ、二集などは、泰山のぼりの一段の間に人生問題をとかしこんでゐる点、[br]
まともから切りこんでゆかないだけに、津々たる餘情がある。[br][brm]
新しい文學の作者として知られた人物が、これまでに如何なる書物をよんでゐたかと云へば、[br]
もとより四書五経の強迫教育もあらうが、やはりその讀書の歴史の一部に儼然と[br]
して存在するものは舊小説の倉庫であったことは、いろいろな人たちの自傳を見て[br]
も知り得ることで、女流作家としてそのトップを切った冰心の如きも、少女時代に耽讀し[br]
たのは舊小説であって、その影響は決して小さくない。恐らく、新しい文學を鼓吹した人たち[br]