講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
對偶の文は史策に入るべからずといふに至った。しかし、韓や李▲[br]
は必ずしも對偶をすべて排斥したわけではない。李▲[br]
の王載言に答へた書にも、時に溺れるものは、文章は對でなくてはならぬといひ、[br]
これを病とするものは、文章は對してはならないといふが、これはすべて情が偏って流れ[br]
ないもので、文章の生ずるいはれを心得ないものである、昔の人はたゞ工を極めただけ[br]
で、その辞が對であるかどうかは問はない、と云ってゐるが、古文作者たる李▲すらかく[br]
の如く述べるのであって、すべて駢文を廢したわけではない。これといふのも、麗辞篇に云ふ如[br]
く、高下相須、自然成對であって、天理により人力によらざるものであるし、又、豈營[br]
麗辭、率然對爾で、別に無理に作ることはなく、而して又、句字或殊、偶意一也であ[br]
って、何も一字一字對になるのが必要ではなく、又、奇偶適變、不勞經營といふや[br]
うに、奇の時は奇、偶の時は偶でよいのである。以上黄侃説[br][brm]
すべて文藝も亦、一波一瀾相應ずるものであって、●が極まったため、その反動と[br]
して古文が起ったが、その古文の波がさかんになると、あたかも偶句を用ひることは、文の格[br]
が落ちるやうに云ひはやしたのが、清朝では、桐城派であって、麗句をすてゝ單行を取[br]
る●ふ文章論が一時に流行した。と共に、之に駁せんとしたのが阮元の文韻説であって、いや[br]
しくも文といふかぎり、それは麗辞であるべきで、單行の文の如きは筆の属にすぎない、と[br]
主張してゐる。これ亦、時の傾きを矯めたものであって、それぞれ相待って行はるべきものと思[br]
へば好い。さればこそ、新文学を鼓吹した人たちも、必ず麗辞を捨てたわけではなく、[br]
錢玄同氏も、文を書くのに句句相對を求めるのも妄であり、句句不相對を求めるの[br]
も妄であるといひ新青年 、周作人氏も、われわれは、現代人が駢文や律詩を作るこ[br]
とには賛成しないが、といって國語の中の字義・聲音雙方の對偶の可能性を蔑視するも[br]
のではない……國語文学の趨勢は、自由の發展に向ってゐるが、この自然の傾向は大に[br]
利用し、音楽と色彩の言語を錬成すべきである、たゞ詞を以て意を害しさへしなけ[br]
れば好い▲▲▲▲▲▲ と云ってゐるのは、たしかに穩當なことばである。勿論、口語[br]
文学や新文学には、かゝる純粋の對が少ないのみか、それは口で話し耳できく関係上、[br]
目で見るやうな對偶の美を要求もしなければ、又、口で話す語氣を出すための抑揚[br]
を考慮してゐることを認めねばならない。例へば、紅樓夢の二十四回那些老婆子們都[br]
老天拔地、伏待了一天、也該叫他們歇々、小●頭們也伏待了一天、這會子[br]
還不叫他們頑々去縻の如く、前には、同じ伏待了一天の下に也該叫他們歇々[br]
と静かに述べていて、次ぎには、還不叫他們頑々去縻とはねあげてゐる。これこそ新[br]
しい意味の反對であって、かの反對がまさり正對が劣るといふことを持ってきてあてはめ[br]
ても十分あてはまることと思ふ。[br][brm]
固より音樂の美はひとり口語文に止まるだけでなく、桐城の古文家といへども、古文の妙[br]
趣をさとるには音讀のほかは無いと称してゐる。曽國藩の家書にも、「まづ高聲[br]
で朗讀し……それから密●恬吟して古人の聲調を拂々然とわが●舌に慣れし[br]
めねばならない」とあり、さかのぼっては、姚▲の與陳碩士書にも、「大抵古文を学ぶも[br]
のは、聲をあげて疾讀したり緩讀したり、もっぱら久しくして自ら悟るほかはない。たゞ[br]
黙看するだけでは終身外行である。御示しの辞文はみな結構だが、●まで来ると、ふと●鈍の●●ができ、これは古人の文で熟讀されぬからで、ぜひ急讀して体勢を求め、緩讀して神味を求め、彼の長を●●て長か短を語れば自ら進歩するであらう。」といふのは、まさしく古人の文學鑑賞法乃至熟[br]
達法であって、理屈なしの訓練がこゝに要求されてゐる。この方法は、最近の桐城派ま[br]
で沿用されてゐて、故高▲仙先生の如き呉摯甫の門人であるが、學校の講義にも高[br]
と低、緩と急と入れまじった讀法を實施してをったのを、余も親しくきいた。[br]
[br]
[br]
なほ、これについて数個の文献を、徐梗生の修辞学教程によって摘[br]
録すれば、劉海峯の論文雑[nt(050160-1340out01)]紀に、(文字研究●)[br]
音節が高ければ神氣が高く、音節が下れば神氣が下るべきもので、つまり音[br]
節とは神氣の跡(具体)である。一句の中には、一字多いこともあり、一字少ないこともあ[br]
るし、一字の中には、平聲を用ひることもあれば仄聲を用ひることもある。同じ平字[br]
仄字でも、陰平・陽平・上聲・去聲・入聲によって音節がずっと違ふもので、つまり字[br]
句は音節の矩(のり)である。字を積んで句となり、句を積んで章となり、章を積ん[br]
で篇となるので、合せて讀めば音節が現れ、歌って詠ずれば神氣が出て来る。[br]
といひ、又、[br]
[050160-1340out01]
偶
凡そ文を作るのに、字句の短長抑揚高下には一定の律がなく、一定の妙がある。學[br]
者は神氣を求めるならば、之を音節に得、音節を求めるならば、之を字句に得たら、思ひ半に[br]
すぎむ。[br]
といってゐるし(文字研究●引)、呉摯甫の答張廉卿書にも、[br]
聲音の道は、意を以て求めたこともあるが、それは剛柔の別なく、たゞ氣が昌ならば、その抗[br]
墜曲直断續斂侈緩急長短●縮抑揚頓挫の節はすべて機勢の自然に循ふ[br]
もので、そこに意が存することなく、さればこそ、之々として合はないものはない。もし合はないとせば、[br]
必ずやその氣の充足せぬものである。[br]
といひ、梅伯言の孫芝房に與ふる書にも(文字研究●)、[br]
古文が他の体と異るのは、首尾の氣が断つべからざるためである。もし、首尾が二つにな[br]
れば、断えたものである。― それが章を成すわけは、一氣の力であり、その氣を●せんとす[br]
るには必ず古人に求むべきで、周秦漢及び唐宋人の文について、その佳なるものは誦を[br]
なせば好い。元来、書を観るのは目といふ一官だけを用ひるが、誦すれば耳に入るから一官[br]
を益すわけであり、しかも、口から出て聲になり氣に暢びる。そもそも氣とは吾が身の最も精[br]
妙なもので、わが身の至精を以て古人の至精を御するから、渾合してへだてなきに至る。[br]
といひ、張廉卿の呉摯甫に答へた書に、[br]
閣下は中氣が弱くて諷誦久しければ、氣がその辞を載するに足らぬといって苦にされる[br]
が、むかし江▲にゐたとき方存之の話をきくと、長老の傳へでは、劉海峯はいたって豊[br]
偉で日々古人の文を取り聲をはなって讀んだ。姚惜抱は氣が羸れる病氣であった[br]
が、それでも諷誦を廢せず、たゞその聲を抑へて低くしただけであったといふが、これも一法[br]
ではあるまいか。[br]
これはまったく支那語自然の音楽的價値を發揮したものであるが、輓近の翻訳文[br]
学になると、支那語とまったく違った言語組織による文學を直譯し、ことにその[br]
原文の口吻までを保存しようとなると、支那語固有の美との間に矛盾を生ずるこ[br]
とになる。その例としてあげられるのは、魯迅の翻訳であって、[br]
深夜的沈黙、使我厳肅起来、至於覚得我的前面隔着書▲便[wr]坐[br]
着[/wr]▲們的母親似的了、……将▲們聽憑了所謂不可思議的時這一種東[br]
西的作用而好々地睡着▲! 有島武郎與幼小者[br]
の如く、原文には忠実であるが支那語の習慣に合はないため、遂に一般讀者に歓迎[br]
されない。これと同じやうなことが違った面で云はれるのは周作人の域外小説集(初集二十一冊、二集二十冊売れた)であって、たと[br]
へば、[br]
一夜有小燕翻飛入域、四十日前、其伴已往埃及、彼愛一葦、独留不去、[br]
一日春時、方遂黄色巨蛾、飛經水次、與葦邂逅、愛其纎腰、止與問[br]
訊、便曰、吾愛君可乎。葦無語、惟一折腰、燕隨繞葦而飛、以翼撃[br]
水、漣起作銀色、以相温存、盡此長夏 安楽公子ワイルド[br]
の如き、支那語として極めて高雅な文言を用ひてゐたが、あまりにも文辞が深奥な[br]
ため、●●●普通一般の讀者に歓迎されず、商務印書館出版以来十餘年間、その賣れゆき[br]
は驚くべくみなかったといふ。(初集二十一冊、二集二十冊賣れた)[br]
ここに於て、讀者層を高くするか廣くするかといふ問題に轉ずるわけであるが、[br]
もし讀者層を高くしようとなれば、當然その文は雅潔を尚ぶことになる。これは支那[br]
語の一つの特色として、最も少ない音節を以て最も豐富な意味を出さうとする結[br]
果に出るもので、古代の文章がことに簡浄を尚んだのは、筆削の容易ならざる故もあら[br]
うが、かゝる特色を發揮したものが愛誦されたにも依るであらう。支那語が雅潔[br]
を特色とすることについての插話は、沈括の夢溪筆談十四に、[br]
宋の穆修・張景たちは、當時の駢文に對し平文を書いたが、時の人はこれを古文[br]
といってゐた。ある時二人が朝廷に出た時、東華門外で旦を待ちながら文を論じ[br]
てゐたところ、奔馬が犬を一匹蹴ころした。そこで二人はそのことを文に書くにはどうす[br]
るといふことになり、穆修は、[br]
馬逸、有黄犬遇蹄而斃[br]
とやったし、張景は、[br]
有犬死奔馬之下[br]
とやった。二人の文は拙澁といふ外ないが、當時から工といひ今に傳へてゐる。[br]
とあるが、同じ内容が宋 陳善の捫蝨新語では、[br]
その二つの中で張の方がましだが、存中の云ふやうに、[br]
適有奔馬踐死一犬
といへば渾成である。[br]
と評し、唐宋八家叢話では、[br]
欧陽公が翰林にゐた時、同僚と文を試み、同僚は、[br]
有犬臥通衢、逸馬蹄而死之[br]
といったところ、公は、君に歴史を書かせたら萬巻あっても足らないといったので、内翰[br]
はどうされるかと云ったら、公は、[br]
逸馬殺犬於道[br]
といはれた。[br]
といふ話がある。徐梗生の修辞學教程にこれを比較して、さすが欧陽修のが最も[br]
すぐれてゐる。なぜかと云へば、字数が少ないからである。といふのは、六字の中に名詞が[wr]三[br]
つ[/wr](馬・犬・道)と、形容詞が一つ(逸)、動詞が一つ(殺)と、介詞が一つ(於)とがあって、[br]
一つの浮いた字がなく、もうこの上に一字なりと省く餘地がない。しかも、逸の字は奔の[br]
字よりも雅馴であり、殺の字は斃の字よりも強い。雅馴とは生字を熟用し[br]
たものであり、強いとは、馬は犬を殺すことのできないのに人格化したものである。かくて自ら修辞[br]
の要領を得たからである、といふ。この物語の真偽は保証の限りでないが、欧陽公の[br]
文と傳ふるものの佳処をさらに一つ加へるならば、逸馬・殺犬・於道といふ偶化の[br]
調子を巧みに捕へてゐることも忘れることができない。さればこそ、支那の文の巧者といは[br]
れるものは簡浄を尚ぶものであるが、さて、簡浄といっても必要條件は満たさねばならない。[br]
從って、名詞や動詞の省略は許されない。つまり、尤も省略し得るものは助詞である。それ故、古[br]
文に苦勞した夏溥●の言に、自分は始め文を作る時、全く助詞を用ひずに書く、[br]
そして絶対必要といふ時に至って始めてちょっちょっと助詞を加へる、といってゐたさうである[br]
が、これがこの道の三昧である。といって、あまりに雅潔を尚んで讀者層の廣さを[br]
顧みない時は、支那の高さが古さと一致する習慣から、讀者の層が現代人たる[br]