講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
又緑江南岸、四月何時照我還とあるが、その草稿を見ると、はじめは又到江南岸[br]
とあったのに、到の字に丸をつけて不好といひ、過となほしたが、又これを消して入となほし、[br]
それから満となほし、十数字も改めた末に緑ときまったさうであるが、これを見ても、[br]
一字を苟くもしなかった苦心も偲ばれる。[br][brm]
然るに、文藝の構成は単に一字の苦心――それは勿論全体を映發したものであるが[br]
に止まるわけでなく、自分が叙べんとすることを如何にしたら叙述の体をなし、さらによ[br]
く他人の心に達すべきかを工夫する必要がある。これについては、結構をいふことが多く[br]
の先人により唱導されてゐる。早い話が詩に於ける起承転結の法でも事は極めて[br]
平明であるが、こゝに動かしがたき真理がふくまれてゐる。それは、例へば交響楽に於[br]
ても序曲から終曲までの組織が大体一定し、能楽ならば狂言に始まり阿修羅に[br]
終る如く、さらに元曲ならば四折の雑劇がほゞ起承転結の道理を示してゐるや[br]
うなものである。例へば元曲漢宮秋を見ても、第一折には、王昭君が漢の元帝の目[br]
にとまったことを演じたのは起であり、第二折には、匈奴の單于が王昭君を求め[br]
る承となり、第三折は、匈奴に送られた王昭君が遂に元帝を慕って身を黒龍[br]
江に投ずる轉であり、第四折は、漢武帝が王昭君を思うて夢を見る一段で結んで[br]
ある。題目正名として、沈黒江昭妃青塚恨、破幽夢孤鴈漢宮秋[br]
と歌はれたのは、まさしく第三・第四折の情節であった。それ故、文心雕龍にも鎔[br]
裁、[br]
凡思緒初發、辞采苦雑、心非権衡、勢必軽重、是以草創鳴筆、[br]
先標三準、履端於始、則設情以位、体擧止於中、則酌事以取類、[br]
歸餘於終、則撮辞以擧要、然後舒華布實、献賛節文、縄墨[br]
以外、美材既▲、故能首尾圓合、條貫始序、[br]
とあって、布置を大切にしなければならないことを力説し、むかし謝艾と王済とは[br]
西河の文士であったが、張俊は「艾は繁であるが刪ることはできない。濟は略である[br]
が益すことはできない」と評したといふ。二子などは鎔裁を練り繁略をさとったもの[br]
であると賞賛してゐる。これもとより日常普通のことであるが、それだけあらゆる[br]
文藝において、これなくしては作ることはできないのであって、全篇の布置を如何にす[br]
るかといふことは、文字の技巧に増して重要な関係を持つものである。そこで、元 王構[br]
の修辞鑑衡にも 文字要布置 古今詩話を引いて、[br]
老杜の奉贈韋左丞丈二十二韻に、▲袴不餓死、儒冠多誤身といふのが全[br]
篇の立意である。そこで、この味を静かにきいてもらひたいため、丈人試静聽、賤子請[br]
具陳といった。それから、甫昔少年日、早充観國賓、讀書破萬巻、下筆[br]
如有神、賦料揚雄敵、詩看子建親、李▲求識面、王翰願卜鄰、[br]
自謂頗挺出、立登要路津、致君尭舞上、再使風俗淳、といふ所まで[br]
は儒冠の事業を述べたものであり、それから此意竟蕭條、行歌非隠淪、[br]
騎驢三十載、旅食京華春、朝扣富兒門、暮隨肥馬塵、残盃與[br]
冷炙、到處潜悲辛、主人頃見徴、▲然欲求伸、青冥却垂翅、▲[br]
▲無縱鱗、といふまでは、かやうに誤身したことを述べ、かくて立意に對する[br]
説明は一応備はったわけであるから、これでもはや詩としてまとまったわけであるが、しかし[br]
韋左丞に逢ふわけを言はねばならないから、これに次で、甚愧丈人厚、甚知丈人真といひ、[br]
その●●●知●とは、毎於百僚上、猥誦佳句新、●●●●宰相としてはたゞ人を憐むだけでなく、●●を進めねばならないことで、士としてこれに望みをかけるのがあたりまへだから、[br]
竊効貢公書、難甘原憲貧といふが、さりとてその望が果たされないならば、焉能心快[br]
々、祇是走▲々、思ひきって、今欲[br]
東入海、即将西去秦のほかはないが、人情としては遅々として去るに忍びないものがあ[br]
るべきで、尚憐終南山、回首清渭濱といひ、さらに知己に分かれることを歎じて、[br]
常擬報一飯、况懷辞大臣といひ、かくては江海の外に忘れはてゝ、韋左丞を見[br]
ることも叶はなくなるわけで、白鴎沒浩蕩、萬里誰能馴といって讀んだ、かくてこ[br]
の詩が壓巻と称せられたのも、▲置が正体を得て、あたかも、官府甲第の雁[br]
堂房宝がそれぞれきまった位置を持ち、乱るべからざるが如きものであるから[br]
である。[br]
と評してゐるのでわかるが、特に杜詩はかういふ布置に尤も力を用ひたもので、段[br]
落の切りやすいことが特長であり、杜詩が長篇であってもその讀者を厭かしめない[br]
裏面には、やはりかうして頭に入りやすいことがよほど影響してをるかと思ふ。そして、[br]
批評家が常に森厳といふことばを使ふのも、まさに官府甲第の整然として鱗[br]
次することに比定できると思ふ。詩によっては、かやうな分段ごとに換韻の法を用ひ[br]
て、音韻ことに平仄の轉換による氣分の変化を利用して段落を示すものも少くな[br]
い。この一轉韻の間を術語で「解」と称する。たとへば、元好問の詩閻商卿還山中に、[br]
阿卿去月從我来、今日西山成独往、野人不是城中物、澗飲巌樓[br]
夢餘想、翰林濕薪爆竹聲、待詔履穿沾雪行、蘭臺從事更間[br]
冷、文書如山白髮生、孤燈靜照寒▲宿、北風夜半歌黄鵠、[br]
田家閉門風雪深、梅花開時酒應熟、半世虚名不療貧、棲[br]
遅零落百酸辛、憑君莫向山中説、白石清泉笑殺人[br]
の如き、すべて四解に分かれ、第一解は山中に還ることを叙し、第二解は自分の●中[br]
にくらすことを叙し、第三解は山中の生活を恋ひ、第四解に至って、わが身をくらべて[br]
愧赧の情を以て結んでゐる。つまり、一解ごとに場面を轉改していったもので、ちゃうど[br]
戯曲で云へば、琵琶記が一幕ごとに都の榮華と田舍の●●とを對照せしめた[br]
技巧に類する。[br][brm]
散文に於ては、勿論形式が詩の如くではないが、やはり分段が極めて重視されたこといふまで[br]
もない。たゞ詩と違って、その間に何等かの連接的なものを用ひるか、或は分段ごとに行[br]
をかへるかしないと、讀者にとって、その用意が達しがたい憾みがある。そこで多くは、助詞(時[br]
間・地位の別●)を用ひることが注意される。つまり、その分段ごとに、新しい時間ま[br]
たは地位が與へられるやうにするのである。その例としてあげられるのは、聊齋志異の口[br]
技であって、[br]
至半更許忽聞●聲、母在内曰九姑来耶、女子答曰来矣……[br]
俄聞簾鈎忽動、女曰六姑至矣……[br]
旋聞女子殷勤聲、九姑問訊聲……[br]
即聞女子笑曰小郎君亦大●●……[br]
既而聲●●、簾又響、●宝倶●……[br]
遂各道温涼、並移坐聲、換添座聲、参差並作●繁●●、食頃始定[br]
即聞女子問病、九姑以爲宜得●……[br]
即聞九姑喚筆硯、●何折●●々然、投●●丁々然、磨墨隆々然[br]
既投筆觸几、震々作響、便聞撮藥、包裏蘇々然[br]
頃之女子推簾呼病者●藥並方、反身入●、即聞三姑作別、三婢作[br]
別……[br]
というやうな文は、特に目に訴へずして専ら耳にのみ聞く動作を寫したにもせよ、極めて[br]
面白い例といはねばならない。特に論理の文に於ては、分段によって論旨の明晰をはかる[br]
ことは絶對必要で、梁啓超の文が新民叢報を通じて青年を鼓動したのは、たし[br]
かに分段によってその思想が次々に讀者に注入されたからであり、これが古文を推翻[br]
した原因になるといはれてゐる。汪●一〇二 考據の文では、王國維に於て始めてこれを見、か[br]
のいはゆる考據の文がやはり姿を沒したのも、分段の力がその一端をなしたも[br]
のと云ふべきである。[br][brm]
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支那文藝の畸形的發達とまで見える描寫の方法は種々あり、主として最近は修辞學[br]
の書物の中に扱はれてゐるが、その中でも最も好く用ひられるものは、要するに支那[br]
語の性質から自然に發生した對偶の法である。對偶は前にも述ぶる如く、昔の支[br]
那では、幼年の際から練習させられたもので、これを巧みに用ひれば詩文のために光[br]
彩を添へることいふまでもなく、律詩の聯が完全に對偶を用ひて千古の絶唱といは[br]
れること、多く人の知る所である。しかるに、その弊として、あまりに多くこれを用ひる結[br]
果、思想の流れが凝滞して遂に内容の乏しいといふ重大な缺陷を暴露する。[br]
文心雕龍麗辞には、對偶の法を四つに分け、言對は易く事對は難い、反對は[br]
優り正對は劣る。言對とは雙比空辞であり、事對とは並擧人験であり、反對[br]
とは理殊趣合であり、正對とは事異義同である。司馬相如の上林賦に、修[br]
容乎禮園、▲翔乎書圃とあるのは言對の類であり、宋玉の神女賦に、[br]
毛▲▲袂、不足程式、西施掩面、比之無色とあるのは事對の類である。[br]
また、王仲宣の登樓に、鍾儀幽而楚奏、莊▲顯而越吟とあるのは反對[br]
の類であり、張孟陽の七哀に、漢祖想扮楡、光武思白水とあるのは正對の類[br]
である。すべて言對がやさしいのは、偶辞▲臆の故であり、事對がむつかしいのは、徴擬・微[br]
人之學の故であり、反對がまさるのは、幽顕同志の故であり、正對が劣るのは、並貴[br]
共心の故であって、張華の詩に、遊鴈比翼翔、歸鴻知接▲とあり、劉▲の詩に、[br]
宣尼悲獲麟、西狩涕孔丘とある如きは、對句の駢支である。だから、言對の[br]
美しさは精巧を貴しとし、事對の先んずる所は允當をつとめる、といふのは、ま[br]
さしくその道の●行の言として、今日に至るもその右に出づるものはないと信ぜられ[br]
る。[br][brm]
[nt(050160-1300out01)]しかるに、その餘病として、雕龍に亦いふ如き、氣無奇類、文乏異采、碌々麗[br]
辭、則昏睡耳目といった状態を生じた結果、遂に唐初の陳伯玉や、中唐の[br]
韓昌黎に至って、その病をためんがため、古文の主張が起り、駢文は衰敝の音と認められ、[br]
東坡の如きは、たとひ昌黎をあげるに急であったとしても、昌黎のことを八代の[br]
衰をおこすといって、漢魏晋宋をすべて抹殺し、宋子京が唐書を修めるにも、[br]
[050160-1300out01]
黄侃札記による。