講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
各國の文藝が、その言語的性質によってそれぞれ違った特色を出すことは、韻文特[br]
に詩に於て最も著しいわけであって、支那の詩なり韻文なりの特質は既に述べたとほ[br]
りである。こゝにさういったリズミカルな性質以外に、各國の言語にはまださまざまの性質が[br]
あって、それが、たとへば支那語ではどういふ風な點であり、文藝と性格的にどうつながる[br]
かと云ふに、支那語では文言と白話とが非常に違ふ。それはもとよりその言語が單音節[br]
であることと、これを一つづつ漢字で表現するといふしきたりによって自然に發生した、[br]
云はゞ不幸なそして免れがたき運命であるが、影響はもとよりそこに止まらずして、[br]
文言によって訓練された人たちは、文言の理想が古典におかれ、常に古典の中から自[br]
分の生活標準を求めてゐる。いはゞ之乎者也の性格をもってゐるため、文藝が創作[br]
なり鑑賞なりについても甚しく懐古的に陥るものである。しかるに、社會といふものは如[br]
何なる時代もテンポの緩急はあってもともかく流れゆくもので、たまたま堰きとめる力が強ければ[br]
強いほど、これを突き破る力も自ら強くなる道理である。そして、堰きとめる力の[br]
基礎をなすものは、懐古的な古典的な、そして文言的なものであり、これを突き破らう[br]
とするのは、改新的な現代的な、そして白話的な精神である。今、一つの例をあげ[br]
るならば、清朝の末期において政治の最も動揺したころ、ともかく押しも押されぬ実[br]
力を握ってゐた政治家は、袁世凱と張之洞とであった。袁世凱の如き、一代の梟雄[br]
と歌はれただけあって、末路はあのとほりあせって敗れたにもせよ、その亡きあとの段祺[br]
瑞如き優柔不断、徐世昌如き骨ぬきのものとは大きな差をもってゐたが、當時、[br]
民衆教育のために着眼して、官話合聲字母といふものを普及してゐた。王照がそ[br]
の運動のために挺身したのに對し、一番理解してくれたのは袁世凱であり、一番理解[br]
のなかったのは張之洞であった。袁世凱は、その長男の袁克定が字母の本を弟の[br]
克文に與へたところ、克文は年幼いにもかゝはらず一人でじきに覺えたといふので、袁世[br]
凱大いに氣に入ったといふ話しもあるが、正式には光緒二十九年十一月十一日に、直隸大[br]
學堂の學生何鳳華等が袁宮保に上●したときも、高明のものは典雅の文[br]
に狃れて無用と▲るであらうし、愚蠢なものは普通の識がないので創聞を驚く[br]
であらうから、學校司の試験を待って推行しようといひ、その他有力者では、學部大[br]
臣の張百煕、學者では嚴修や呉汝綸などが極力鼓吹したため、北京・天津・保[br]
定から河北全省に及び、さらに東三省・山東・山西・河南などにまで蔓延し、この[br]
字母を覺えた人は数萬人に達したといふ。しかるに張之洞は一向これに耳を傾けな[br]
い。そこで厳修が張一麕に云ふことには、 「袁項城ひとり極端に官話字母に賛成[br]
してゐるのに、張南皮は自ら大教育家と称しつゝ、なぜこれを受け入れないかと云へば、[br]
文の毒を深く受けたからだらう。」と云ったといふ。この文の毒といふことばはまさしく重要[br]
な意味を持つもので、張之洞は勧學篇の如き、一般人に示す書物を書いたにして[br]
も、中には隨分一般にわからない所が、學者もめったに見たこともない荀子や尸子な[br]
どの僻典を引いてをり、書目荅問の如きも、名著には相違ないが、程度は非常に高く、[br]
これだけの書物を読むなんといふことは誰にもできない業である。さういふことに中心を[br]
据えた張之洞が、平民教育に関心を持たなかったことは無理からぬことと云へるの[br]
である。[br][brm]
今、この一●を以て全●を推しても、文言的教育が身についた人ほどは懐古的に陥り[br]
やすいものであって、支那の文化が大体かういふ人たちにより統制されてゐる限り、文藝[br]
の面に於ても急テンポな發展は期待しがたい。今、その現象を戲劇の道にとって[br]
見ると、支那の芝居もむかしは河原乞食と選ばない状態から起こったわけであ[br]
るが、特にこれを愛護したのは清朝の諸帝であって、宮中には大きな劇團を[br]
かゝへ、舞臺を設け、非常な費用を投じてこれを育成したもので、今日の京劇の如[br]
きも、乾隆時代の四大徴●といはるゝ宮廷御用の俳優たちから系統をひいてゐ[br]
るし、清朝の末年には西太后自身の俳優の服装をつけられた寫真が残って[br]
ゐるくらゐである。ところが、それらの演ずる戯曲は、ちゃうど歌舞妓のやうに、一擧[br]
手一投足乃至一つのふしまはし、一つのあげさげまで規定されてゐて、支那の舊劇[br]
の舞臺に於て、音楽とみぶりとが滑稽なまでに体操かと思はれるほどピッタリ[br]
合はせてあるのを見てもわかるやうに、必ず一定の曲を長いこと練習し、自然そのい[br]
くつかの練習ずみの曲をば目録に認め、それを看客からあてられるなり、自ら[br]
番組を作るなりして演ずるわけであって、極めて保守的なものである。これは一面、劇[br]
のやうな幾多の形式を伴ふ藝術に於て特にその特長を示すことであり、ちゃうど[br]
文言が幾多の表現形式を組合はされてできてゐるとその揆を一にするものである。勿[br]
論これらの中にも自らなる動きはあり、ちゃうど文言文學にも変遷發達のあるや[br]
うに、舊劇そのものにも自ら波瀾はあるが、やはり傳統といふものが中心をなして[br]
ゐる。かの現代舊劇の最も人氣を集めた梅蘭芳にしても、やはり代々の名伶の家に生[br]
まれたのであるが、その一般に與へた影響は非常に強く、旦形の常として早く凋落[br]
し、近ごろは舞臺に立たないにも拘らず、かつて北京に来たとき、十刹海の會賢堂[br]
で特別に出演するといふのに聞きつたへた人が、踵を接して集まり、遂にその二階が[br]
こはれて演劇も中止になったと傳へる。これは舊都北京に特にふさはしい情景で[br]
ある。[br][brm]
支那に新しい演劇が起こったのは、全く日本の影響と見て好いのであって、その起原[br]
が日本に留學した學生たちの春柳社にあることを見れば思ひ半ばにすぎ、而かもそれ[br]
は、舞臺で演ずることと支那語を用ひることとがわづかに舊劇との交渉點であ[br]
って、その他はほとんど別種の藝術といって好いほどの変りかたである。そして、舞臺で[br]
演ずるとは云ふものの、舊劇の所謂ノベツ幕なしとは違って幕を用ひる。舊[br]
劇では背景はまったくなく、いろいろな小道具によって約束された動作の象徴[br]
としたのが、背景かきわりを使ふやうになる。ことに、舊劇の生命であ[br]
る所の歌唱がなくて完全に對話のみとなった。といふことは、全く別種たることを証明[br]
し、支那語を使ふとは云ひながら、舊劇ではそのリズムを鑑賞したに對し、今度は[br]
その内容を問題にしたのである。前に、散文ことに小品文を述べた時に、小品文の新[br]
文学に於ける發展は最も外國の影響が少ない、といふ周先生のこ[br]
とばを引いたが、新文学の中で外國の影響が最も多く、自然、支那の過去に[br]
對するつながりの最も少ないのは戯劇であると云ってさしつかへない。[br][brm]
從って、これを看る人即ち看客の側も完全に両様であって、舊劇を見る人は、[br]
傳統藝術の好さを愛好する人たちから、たゞ梅伶の顔を見るといふ人までさま[br]
ざまではあるが、どちらにもせよ、楽しむための藝術を鑑賞するために●を劇場[br]
に走らせたわけであるが、新劇の扉をたゝいた連中は、洪深の説明によれば、「新し[br]
い事実を知り、新しい議論をきかうと云ふことであり、演出する側から云っても、十[br]
分なる自由を以て、在来演出できず又演出の勇氣がなかったやうなものをすべ[br]
て演出したわけで、たとへば清朝の宮廷の内幕を描いた劇だとか、官僚を攻撃[br]
した劇だとか、人の愛情を發揮したもの、愛國心を激發したもの、外國の情[br]
景をのべたものというやうなものを、看客は希望した」のである。それで、さういふ方面に熱[br]
情をわかすものにとっては、舊劇の調子も又となくいとはしいものであることは、周先[br]
生の北京的好壊の一篇を見ればよくわかることで、一般社會に染みこんだ舊劇[br]
の唄がラジオを通じて流れる、わめくのを逃れる途もないと嘆息されてゐる[br]
のは、まことに氣の毒なことである。[br][brm]
これと云ふのも、舊劇は一種の音樂であるという點に魅力をもち、意義や時[br]
代を超えて一般にひろがる能力をもつことに原因があり、現にラヂオでも、重大な[br]
る放送を行ふ時には京劇の放送の中間にはさむのが最も效果ありといふことに[br]
なってをり、ちゃうどわが國でも、地方は浪花節が一番歓迎されると一般である。[br]
甚しいのは、曽て新文学運動について最も勇敢に戦ったやうな人が、いよいよ戦が交[br]
●とまではなくとも一段落がつくと、やはり舊劇の匂に鼻をうごかせ、梅伶の垣[br]
のぞきに憂き身をやつすものもあると― これは鄭振鐸のことば▲▲▲▲で[br]
あるからまちがひはなからう。いはゞ薬をのまねばならないと思っても、ある程度健[br]
康が回復すると酒をのんでも好からうといふ口であるが、これは明かに、同じ戲曲[br]
といひながら藥と酒ほど性質が違ふのである。それ故、新しい劇が人々に愛好[br]
されるためには、單に薬だけでは無理であって、ぜひとも酒の味がつけられねばならない。し[br]
かし、薬と酒とを兼ねるといふやうな都合の好いことが簡単にできるものではなく、[br]
もしできるとすれば、日本なり西洋なりで作られた脚本を翻譯上演することが[br]
手軽るだといふことになる。これが、ある一時翻譯劇が非常に流行した所以であら[br]
う。事実、ある時期の劇壇公演の種目を見ると、大部分は日本もの、たとへば菊[br]
地寛の父かへるとか、武者小路実篤の■■■■とか、或はシンクレシアの■■■■、[br]
ゴルキーのどん底といったやうなものが過半であったのは、ちゃうど小説でも、小説月報の[br]
大半は翻譯であったことと相應ずる現象である。そして、田漢の主宰した南國[br]
社の如きは、ともかくその演員を訓練することに多くの力をそゝぎ、漸く新劇[br]
の黄金時代を見むとしたのであった。中でも、洪深が戯劇協社のために汪仲賢[br]
の好兒子を練習した時のことが、民國十三年の申報に観戲劇社演好兒子述評[br]
としてのせてあるが▲▲▲▲▲[br]
第一夜の演出は、出演者が脚本に慣れないため十分の演出ができず、たゞ阿媽が[br]
お菜を買ふ所から始まって、丁氏が家へかへる処までを訓練し、起ちあがったり並んだ[br]
りする場所や、出演者のせりふの高低緩急まですべて洪氏の指導者により、ひど[br]
いときは、一ことを十何回も練習したことすらある。その他、手のあげさげ、足のふみかた、身体[br]
のこなしまで、きまった順序があったので、演出が終ると洪君と出演者とは汗だくで[br]
あった。そこで自分は、S女士にさゝやいて、芝居はこんなにまでしなければならないか、出演[br]
者がこれではたまるまい、と云ったら、S女士が、支那の今日の芝居は藝術のない芝居[br]
で失敗の芝居である。芝居が何で藝術なく、何で失敗するかと云へば、演出を経験し[br]
ないからで、烏合の衆が久しく訓練した軍にあたり得ないやうに、白話劇が京劇に敵し[br]
ないのは訓練が足らないからである、と云ったといふ。[br]
つまり從来の舊劇のよさは、その訓練にあるのであって、文字の發音から所作に[br]
至るまで、非常にやかましい血のにじむやうな訓練を行った点が、やはり歌舞妓と同じ[br]
よさができたわけで、之に反して新劇にはかゝる指導者に乏しかったことは、從来の文[br]
明戲が失敗に終ったわけで、今や、洪深の如き、わざわざハーバート大学で戲劇●[br]
●の研究を専門に積んだ人が指導したといふことは、極めて有意義なことであり、[br]
演劇の價値を高めること萬々であった。[br]
元来、舊劇の目標は代表といふことばで呼ばれるやうに、すべてが簡単な動作で[br]
象徴されてゐるといふ所に、その約束が存在する。これに反して、新劇は寫實を旨[br]
とし、これを見る人は玄人でなくとも何をしてゐるかといふことがわかる。つまり、一一実際[br]
の人物の如き態度を摸倣するものであって、明白といふことが第一である。これはちゃ[br]